題      名: 召天者記念礼拝「人生はレース」
氏      名: fujimoto
作成日時: 2004.11.10 - 12:09
召天者礼拝   人生はレース

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(ヘブル12:1)

 私たちにとって、人生最大の敵は、忘却です。悲しみも、辛いことも、時がいやしてくれます。いやしてくれるのでしょうが、忘れたわけではありません。それを受け止め、乗り越え、明日に向かう力が与えられるのです。しかし、忘れてはならないのは、人生の短さ、死の痛み、故人の信仰、別れのつらさ、悲しさです。
 死別は、あまりにも教訓に満ち、あまりにも厳粛で、家族がひとつになり、いのちを惜しみ、尊び、いたわり――そんな記憶を忘れてはならない。先に天国に送った人々を思い起こすこと、記念することは、恵みです。それを忘れていくとき、特に日常のめまぐるしさの中に埋もれていくとき、私たちは恵みを失うことになります。

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中略(召天者の個人的な追憶の時)
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 さて、召天者記念礼拝のために与えられているみことばは、ヘブル12:1です。ここから短く3つの点でお話しします。

1)聖書は、人生は「レース」だと語っていると言うことです。
 レースといって、今年の私の頭をよぎるのは、アテネオリンピック、最終日の男子マラソンのブラジルのデリマ選手です。彼は、途中まで先頭を独走しながらも、暴漢がおそいかかり、沿道に押しやられました。本人は、殺されるかもしれない、という恐怖だったといっています。
 それでも、気を取り直して、再び走り始めます。人生、そういうものかなと思わされます。緊張は、走り始める彼の顔に明確でした。やがて抜かれていきます。これもまた、人生、そういうものかな、と考えさせられます。
 しかし3位でゴールした彼は、笑顔でした。走れて良かった、メダルを取れて良かった。彼の喜びは、悔しさのかけらもない、最高の喜びでした。
 見ていた私たちはみな、彼が受けたのは、金メダルよりも価値のある銅メダルであると思いました。なぜでしょう。それは、私たちはみな、人生というレースから知っているからです。挫折と失望を乗り越えることの大切さを私たちは御名知っています。一番になること以上に、ゴールした喜びをあれほどさわやかに伝えている笑顔に感動を覚えない人はいません。彼は人生に起こったことに、恨むことなく、感謝して、レースを走りきったのです。
 「人生はレースだ」というとき、まさにそういうことでしょう。天に召された方々は、みなそのことを証ししておられます。家族の方々は、知っておられます。召された一人一人が、どんな貧しさを、苦労を乗り越えられたか。どんな失望を克服されていったのか。何度も立ち上がって、人生を走ったのです。病と闘った方々は、それはそれは苦しい戦いで、何度も倒れました。しかし、最後は悔しさに飲まれることなく、喜びのうちにゴールしていかれました。

2)人生というレースには、応援団がいる。
   マラソンもそうでしょう。レースのはじめから、最後まで、ほとんどの箇所で、応援してサポートしてくれる人びとがいます。そして、最終の競技場に走ると、応援の歓声はさらに大きな声となります。女子マラソンで金を取った野口選手は、この歓声を聞きたかった、とおっしゃっていましたね。私たちも、人生の幕を閉じるとき、いっそう大きな歓声を聞くのでしょうね。
 信仰人生の応援団は、マラソンで応援してくださる方々とは、ちょっと違います。取り巻くように応援してくださる人びとは、すでにそのレースを走りきった先輩たちです。この情景は、非常に美しいものです。私たちの人生を取り巻くように、特に私たちが挫折し、失望し、恐れているときに、励ましてくれるのは、同じようなレースを走った信仰の先輩・あるいは家族なのです。
 先に天に召された方々と、やがて私たちは再会します。私たちとは違う世界に、いまいらっしゃいます。だから会えないのでしょうか? つながっていないのでしょうか? いいえ、天に召された私たちの家族は、天国からあなたを取り巻いているのです。お彼岸だから、あなたの元に返ってくるのではありません。遠い世界にあって、もう交流もないのでもありません。私たちの愛する家族は、主と共にあって、私たちを取り巻いています。
 主キリストはおっしゃいました。
 「見よ。世の終わりまで、わたしはあなたがたとともにいます」
 その主と共に、私たちの家族もまた、私たちを取り巻いて励ましてくれるのです。

3)では、なんと言って励ましているのでしょうか。
 まず第一に、「一切の重荷と罪を捨てて、走りなさい」です。それは、天国を目指して生きなさいということでしょう。私たちは日常の重荷、心配という重荷、そしてさまざまな罪深さを抱えて生きています。しかし、闘病の中で召天していった方々を思い起こすときに、彼らがいかに純粋であったか、いかにまっすぐと天国を見上げていたか、いかに素直に感謝と愛を心に抱いていたかを思い出します。私たちはあまりに日常の楽しみを追求して生きていることを反省して、天国を目指すまっすぐな思いを取り戻そうではありませんか。
 第二に、「忍耐をもって走り続けなさい」、すなわち「負けるな」ということでしょう。彼らは負けませんでした。過酷な苦しみにも立ち向かっていきました。不安をも乗り越えていきました。そして私たちはそれが主の恵みによることを知っています。おおよそ自分の力では堪えきれない試練を、神の力によって支えられて、乗り越えていくことができたのです。

 召天された方々が、信仰によっていまなお語り続けているメッセージに耳を傾けましょう。