題      名: わたしは門です
氏      名: fujimoto
作成日時: 2005.01.28 - 14:52
わたしは門です
           ヨハネ10:1ー10

 ヨハネの福音書の中には、イエスさまが「わたしは、○○です」という宣言がいくつか記されている。その一つが、9節「わたしは門です」。11節には、「わたしは、羊の門です」とあります。門、それをくぐると、新しい世界にはいることが出来きます。新玉川線で行くと、半蔵門・桜田門とありますが、これは皇居への門です。門と外の世界と内側の世界は、隔絶されています。門が入り口で、門を通ると違う世界が広がっています。イエスさまという門から入る者は誰でも、「いのちを得、またそれを豊かに持つ」(9節)のです。

1)「いのち」の門
 いのち、それは実に大事なものです。決定的に大切です。フィレンツエのミケランジェロのもとにかつて多くの弟子たちが集まりました。ある有望な若者が何ヶ月もかかって、大理石から天使を彫っていました。周りの者たちが賞賛するのですが、その前を何度通りながらも、師のミケランジェロはひと言も言葉をかけてくれません。彼は、とうとう友人に頼んで、師の意見を聞きました。そして返ってきた答えは、「彼の作品はすべて完璧だが、一つかけている。……それはいのちだ」。
 それは決定的な意見でした。そうなんでしょう。どんなにに完璧な彫刻でも、そこにいのちを感じられないとしたら、すべてが無駄です。いのちとはそれほど決定的に大切なものです。
 この分厚い聖書を一言でようやくするとしたら、いったいどの言葉を取り上げます?――「いのち」です。聖書の中に、「いのち」という言葉は、1500回以上出てきます。いのち、生きる――神さまの最大の命令は、「生きよ」です。信仰もいのちを得るために。愛は、いのちの表現です。そして、聖書の語るいのちは、医学的な肉体的なことではなく、霊的ないのちのことです。神の御前に生きているか、神の御前に死んでいるか。霊的に生きているか、霊的に死んでいるか。これが大きな問題なのです。

2)「救い」
 いのちとは何を意味するのでしょう。それは、9節にあるように「救われること」です。救いという表現は、いろいろな場合に用いられます。聖書の中でさえそうです:苦難・災害・貧しさ・病・危険・敵の手からの救い、と。しかし、イエス様がもたらす救いは、もっと具体的に絞ることができました。それは、「罪からの救い」「滅びからの救い」です。
 R.C.スプルールという神学者が、この世に愚かしい思いこみが2つあると述べています。
 a)自分は、罪人ではない、という思いこみ。自分は罪を知らない、そういうとしたら、相当な愚か者だというのです。しかし、スプルールは、この種の思いこみは、数からいえば、大したことはないと言っています。もっと危険な、もっと広範囲に広がっている思いこみは、第二のものです。
 b)神様は憐れみ深く、慈悲深い御方であろうから、何とかなるだろう、という思いこみです。何とかなるのでしょうか。いいえ、そうは聖書には書いてありません。門の外の世界は、神のいのちを持っていないのです。ゆっくりと、確実に死に向かって流れていきます。その現実を、イエスさまは厳しく指摘されました。罪を犯す者は、誰でも罪の奴隷です。罪の支払う報酬は、死です。
 しかし、そうであったとしても、門は、罪の世界に閉ざしてはいないのです。よろしいでしょうか。門は城壁ではありません。門は開かれています。私たちは救いへと招いているのです。

3)「わたしを通して」
 わたしを通して入るものは救われる、と主はおっしゃいました。わたしを通って、いのちの世界に入ってきなさい、と。この門こそ、イエスさまの十字架です。
 「我が涙よ歌となれ」(新教出版)という本があります。原崎百子さんは、42歳で肺癌で天に召されました。ご主人は、三重県の教会の牧師でした。胸の痛みを訴えて、病院に行ったときは、すでに遅く、手の施しようはなかったそうです。結局、自宅に戻されます。本人は、直ってよかったと喜んでいるのですが、医者はご主人には告げました。「末期癌です。でも、奥さんには知らせるべきではないでしょう」。
 ご主人は、その時の心境をこう書いています。「医者は言うべきではないと言う。しかし、数カ月もすれば神の前に立たなければならないのに、何も知らないで行ってしまうのでは、かわいそうだと思うのです。彼女はのんびり屋だけれど、自分が死ぬのだと知ったら、残りの数カ月を真剣に生きて、神の前に立てるのではないでしょうか」。
 言うか、言うまいか、途方に暮れた彼は、先輩の伊藤先生という牧師に尋ねます。その時、伊藤先生は、厳しい顔つきで、言ったそうです。(本では、この先生も、脳腫瘍と戦っておられたそうです)「原崎君。相手をしっかりと生きさせようなどという意図で告げるのは、卑しいことだ。特に、苦しんでいない人間が、本当に苦しんでいる人間に対して、そう思うのはね。問題は、徹底的に君自身にあるのだよ。原崎君、人生において、君は本当に苦しんだことがなかったからね。百子さんとどれだけ苦しみを共にすることができるか、どれだけ生死を越えることができるか、それができれば、言ういわないということは、問題ではない」。
 「問題は、徹底的に君自身にあるのだ。告げるなら、どれだけ苦しみを共にできるか、どれだけ生死を共に越えることができるか」・・・この言葉が、原崎先生の脳裏に焼き付いたそうです。イエス・キリストは、どんな思いで、罪と死の告知をなされたのでしょうか。どんな思いで、きびしい言葉をおっしゃったのでしょうか。これだけ脅しておけば、少しはまともな生活をするようになる、とでも思っておられたのでしょうか。死を悟ったら、せめてもう少し真剣に生きて、神の前に立てるような人間になるだろう、とでも思っておられたのでしょうか。
 いいや、そうではありません。イエス様は、私たちの罪を背負い、十字架で罪の裁きを負い、その代わりに私たちにいのちを与えてくださいました。救いを与えてくださいました。
 11節――「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」
  イエスさまという門は、私たちを拒絶しているのではなくて、招いています。中に入れと、招いていてくださいます。

4)この門の内側には平安がある。
 9節「やすらかに出入りし」とあるように、門を通っていのちの世界に入る者は、門によって守られています。私たちはふらふらになって、いきも絶え絶えで、失望と悲嘆に暮れていた羊です。その私たちがこの門を通して入ります。しかし、門から一歩はいると、そこは平安の世界です。そこで、重荷を下ろします。魂に養いを受けます。そこで勇気を得ます。そして、この世に再び出ていくのです。キリストの門の内側で、試練に打ち勝つ平安を得る、憎しみ打ち勝つ愛と赦しを得るのです。
 パレスチナの牧場、私達のイメージとは違います。牧場では、牛を追い込んで、囲いをします。勿論、パレスチナの遊牧の世界でも、囲いはあります。しかし、違うところは、ふつうの牧場には、その出入口には、扉がついていて、羊飼いは、追い込んでおいて、ドアを閉めるのですが、昔の遊牧の世界では、それがないということを聞いたことがあります。
 羊飼いが、文字どおり牧場の門となるのです。彼は、その入口に座り、彼がその入口に寝、夜通し守ります。いのちを張って、羊のいのちを敵から守ります。イエス様は、ご自分が、その門であるとおっしゃいます。体を張って、命をかけて、羊を守っておられる。

 エリック・ファーマンという人の、以前の中国宣教に関するレポートを読んでいました。中国本土のキリスト教人口は、5千万とも言われる。彼は、ある町の教会へ出席する機会が与えられました。礼拝は、1000人。しかし、その説教を聞きながら、自分の心が重苦しくなって行くのを感じたそうです。説教者の話が無味乾燥で、たましいの救いのことにはあまり語らず、キリストの十字架にもあまり触れず。
 しかし、最後の祝祷の時に、年輩の牧師が立って、前に立ちました。20年以上も、宗教上の弾圧で投獄されていた牧師です。彼が、前に立つと、聴衆の中のある人々は、姿勢を正しました。ファーマンはこう書いています。
 「この老齢の牧師が祈りを始めると、私にはその理由が分かった。彼の祈りは、主イエス・キリストの貴い聖名を、その素晴らしい聖名をあがめることから始まったからです。聴衆の中から、深い感謝と喜びの息が聞こえてきました。彼は、祈りを引き延ばし、引き延ばし、5分ー6ー7分、祈りながら、主キリストの救いと平安を語り、終わる頃には、多くの人々が、命に満たされて、何度もアーメン・アーメンと賛美する声を聞きました。
 私は、その時悟りました。この多くの中国の聴衆は、中国の教会の立場や、その政治的な意義を聞きに教会にやってきたのではない。彼らは、彼らの主イエス・キリストの聖名があがめられ、その方をしたい、礼拝するためにやってきたのです。」
 
 彼らは、キリストの平安にあずかるために、羊の門をくぐって、豊かないのちを受けるためにやってきたのです。私たちも同じ。私たちも同じなのです。