題      名: 何も思い煩わないで
氏      名: fujimoto
作成日時: 2005.04.17 - 21:06
何も思い煩わないで……
            ピリピ4:4−7

 満開の桜です。本当にすばらしい天候を一週間与えられて、見事な桜の中で入学式を迎えられた方もいらっしゃるでしょう。私は、いつも桜、桜と行っている割に、あまり花見にも出かけない自分に気がつきました。もしかしたら、自分はあまり桜は好きではないのか? その理由があるとしたら、この4月という季節の独特な緊張感を子どもの頃から体験してきたからだ、と思うようになりました。環境が変わる、新しいことが始まる、そのことが大の苦手で、そんな自分は、きっと6節にある「思い煩う」ということが多い人間であったに違いありません。

1)それは、私だけではありません。人は、思い煩うものです。聖書にしばしば出てきます。マタイの福音書ではイエスさまは教えてくださいました。「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもしません。しかし、天の父がそれを養ってくださる。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでもいのちをのばすことができるか」
 ルカの福音書で、イエスさまはマルタにおっしゃいました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して、気を遣っています」
 思い煩う、とはどういう状況でしょうか。思い煩っているとき、私たちは問題を自分の中に抱え込んでいます。自分のなかに抱え込んで、誰にも打ち明けないときが多いのです。思い煩っているとき、私たちは孤独です。難しい顔、不安な顔をして、問題を抱えています。親しい人にも打ち明けられない、辛い状態なのにも、神さまにも打ち明けないのです。 ですから、パウロが6節で、「何事にも思い煩わないで」と言ったとき、彼は、その問題を祈りを通して「神に知って頂きなさい」「神に打ち明けなさい」と言っているのです。問題を一人で抱え込んでいないで、感謝をもって祈り、神に願い、神に打ち明けなさい、と。
 逆を言えば、私たちが思い煩っているとき、あたかも神がいなくなっているかのような心の状態なのです。これが思い煩いの正体です。自分にとって、神がいなくなってしまった、自分しかいない、だからどうにか自分でしなければならない、どうしたらいいのか。それはそれは苦しいのです。でもそれは結局、神がいないものとして、自分が神の役を演じていることと同じだというのです。

2)思い煩うのをやめろと言われても、やめられない、それほど自分で問題を抱えて、自分しか以内、自分でどうにかしなければならない、と思っている私たちに、パウロは、なるほど、と思わされる現実を示します。
  それは霊的な現実です。信仰によって捉えることができる現実です。それが、5節の「主は近いのです」、口語訳聖書では「主は近い」、新共同訳聖書では「主はすぐ近くにおられます」と訳されています。つまり、近いというのは、もうすぐ来る、おいでが近いという意味ではなくて、すぐ近くにおられる、今礼拝の中でみことばを通して、聖霊によって臨在しておられるということです。
 弟子たちが尋ねましたね。「神の国はいつ来るのですか?」
主の答は、「いつ?という問題ではなく、あなたがたのただ中にあるのです」。それは必ずしも、神の国はあなたの心の中にあるという意味ではなく、神の国はわたしを通してあなたと共にすでに来ている、私はあなたと共にいるではないか、という意味です。主は近いのですとは、主はすぐ近くに来ておられます、ということです。
  先週、ルカの福音書からエマオの途上に現れたイエスさまを学びました。暗い顔つきで、希望を失ってあるいていく弟子たちに、彼らが知らない間に近づき、いつの間にか共に歩いておられたように、主は近いのです。だから思い煩わないで、主に打ち明けなさい、とパウロは教えているのです。一人で抱えて、孤独に苦悩していないで、誰にも打ち明けられないで、孤独に心病んでいないで、私に打ち明けなさい、と主はおっしゃいます。

3)7節「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。
 伝説のアメリカ人宣教師ラッセル・モールスは、20年ぐらい前にアメリカのタイムマガジンが、最も献身的な宣教師5人と、その家族を特集したときにも取り上げたれた人物です。
  彼は中国の奥地からチベットにかけて伝道していました。共産主義政権が支配してきたとき、彼のところに警察がやってきます。「いっしょに来てもらう」。「では、衣類を整えてきます」。「その必要はない、そうしたことはわれわれが面倒を見る」。
 彼は、18ヶ月投獄されます。そのうちの15ヶ月は独房だったそうです。独房には窓はなく、壁の上の方に小さな穴が開いていて、そこから光が漏れ、空気が入ってきただけです。ベッドもなく、地べたにわらが敷かれているだけ。彼は15ヶ月間、誰とも話すことを許されず、日に一回、ドアの下の扉が開いて、食事のトレイを渡されただけ。聖書もなく、何を読むこともできずに、ましてめがねを取られた彼は、ほとんど何も見えなかったそうです。
 彼は来る日も来る日も、自分の記憶から聖書を読みます。自分の親しんだ讃美歌を口ずさみます。ラッセル・モールスが、記憶の中から一日に何度も復唱して、思いを寄せた聖句、それが、この6節です。
  「何事も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってって捧げる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい(神に打ち明けなさい)」
 思い煩うな、というのが無理です。何事もといわれても!どんな場合にもと言われても! しかし、このみことばを繰り返し繰り返し、自分に言い聞かせていくと、人のすべての考えにまさる神の平安が、彼の心を守ってくれた、といいます。人のすべての考えにまさる神の平安がなせる、奇跡です。彼は15ヶ月の独房生活を経て、正気を保ったまま出てくることができました。
 ああ、主は近いのです。私たちの近くにおられるのです。ですから、主にすべての思い煩いを打ち明けて、この弱く、しぼめる心を守って頂きましょう。