題      名: イエスと出会った人々(1)取税人マタイ
氏      名: fujimoto
作成日時: 2005.05.12 - 07:59
イエスと出会った人々(1)取税人マタイ
        マタイ9:9f

 しばらく、イエスさまと出会った人々を、共に学んでいきたいと思っています。はじめは、ヨハネかアンデレでしょうが、まずこのマタイから、もう一度考えてみようではありませんか。同じ話が、マルコやルカの福音書では、「レビ」となっています。レビというのはユダヤ人によくある名前です。「マタイ」というのは、レビの外国での名前です。なぜレビがマタイという外国の名前を持っていたか。それは彼が取税人だったからです。マタイという名前に彼は負い目を持っていたからです。
   
1)取税人マタイです。
 取税人――文字通り税金取りです。今日の税務署の職員とは違います。当時ローマ帝国の植民地でした。ローマの人々は頭がいい。自分たちで徴収すると、反感の原因になります。そこで、占領政府が直接税金を徴収するのではなく、現地の人の中から「徴税人」という人を雇ったのです。ここがうまいところです。取税人は、ヘブル民族のプライドを売ってしまった人。「祖国の裏切り者」です。
 憎まれたのは、それだけではありませんでした。取税人の多くは、ローマ政府が決めた税額よりも多くのものを上乗せして取っていました。ピンハネをしていたのです。また金持ちが脱税するときに、賄賂をもらって見逃したりしていました。
 好きこのんでなったわけではない。家庭の事情があったのか、リストラされたのか、事情というものがあります。それがつまはじきにされ、軽蔑される。おもしろくないから、金儲けに走る。そんな自分が嫌になる、ということの悪循環でした。
 「収税所に座っているマタイ」は、孤独です。そして、このとき、イエスさまは、道を歩いていました。そこに、この収税所があり、レビが座っていました。群衆みんなが、イエスさまを一目見ようと、町を、道を走り回っているとき、このレビは、ただ一人、ポツリとここに座っていました。どうしてでしょう? 「おい、いっしょに行こうぜ」と声をかけてもらえないのです。みんなといっしょではないのです。疎外感が彼を包んでいました。
 レビは、ポツリと一人で、座っていました。だれでも言い、だれかが声をかけてくれれば、自分もまた仕事を放っておいても、走っていって、あの列の中に加わろう、と思っていたかも知れません。ただ、だれも声をかけてくれませんでした。
 名前に戻ります。マルコもルカも、ちゃんとレビと呼んでいます。マタイの福音書、つまりレビ本人が記したこの福音書だけ、彼は取税人時代の「マタイ」という名で通しています。そこに何ともいえない、彼の証しを感じます。「まさしく私は、マタイだ。だれも、いっしょに行こうと言うものはいなかった私に、主は近づいて、声をかけてくださった」。「いっしょに行こう。どこまでも私といっしょに行こう」取税人だから、神の子になれないのではありません。だれも声をかけないようなひとは、神の子になれないのではありません。

2)では、このマタイを招かれた方はどなたなのでしょう?
 ここで、イエスさまは、ご自身を「医者」と言っておられます。それは、このマタイを招いて、他の取税人や罪人を招いて、イエスさまは食事をいっしょにしておられたときのことです。パリサイ人たちが、批判します。11節「なぜ、あながたの先生は、取税人や罪人と食事して、楽しんで、交わって、いっしょにいるのか」。実際にそういわれてもおかしくないほど、マタイにも他の取税人にも、集まっていた人たちには問題があったのです。
 その時主は、おっしゃいました。「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく、病人です」。病人とは、マタイのように孤独で、人生にさまざまな複雑な事情を抱えている病んでいる人たちです。
  では、パリサイ人は、丈夫な人たちなのでしょうか。いいえ、イエスさまは旧約聖書の預言者ホセアを引用しておっしゃいます。13「わたしは、あわれみは好むが、いけにえは好まないとはどういう意味か、行って学んで来なさい」。どういう意味でしょうか。いけにえとは、パリサイ人のように、自分の熱心さや努力、それによって自分が獲得する正しさに拠り頼もうとしている姿です。それを神は好まない。神が好まれるのは憐れみです。憐れみを与えることです。
 そして、この憐れみは、自分が病気であるという自覚にある者だけに与えられるのです。自分の正しさをおごらず、自分の孤独を否定せず、自分の不出来を隠さず、素直に病んでいる自分を告白する者を神さまはあわれんでください。
 私たちはしばしば、このパリサイ人のようです。自分が招かれている罪人であることを忘れて、罪人を招く主の恵みがわからなくなってしまうのです。イエスさまは、そういう私たちに何とおっしゃいましたか。「行って、学んできなさい」。私たちがどんな立派な、正しいいけにえを捧げるかということではなく、神さまの憐れみこそが私たちを救うということを、「行って、学びなさい」と。

 臼井兄の百歳になるお母様、臼井キクさんが救いの恵みにあずかりました。長年、頑固なまでにキリスト教に反対し、臼井兄姉が、特にお嫁さんにあたる臼井姉がたいへんだっただろうなと思います。愛と祈り――100歳で地上の生涯を閉じる、この母を、あなたは救ってくださると約束してくださったではないですか。
 それから、少しして、突然、100歳のお母さんが「山路越えて」という讃美歌を思い出されたのです。どこで学んだか、全く記憶になる、しかしお母様は、「わたし、この歌、作曲したのかしら?」とおっしるくらい明確に思い出されたのです。正確に、ほぼ1番から6番まで。
 私と妻は、「行って、多くを学びました」。真実な祈りに答えてくださる神。そして、徹底したクリスチャン嫌いのお母さんを、あわれんでくださる神さま。素直な信仰を与えて、救いの恵みに入れてくださいました。パリサイ人のような私は、あらためて「行って、学んできました」

3)さて、最後です。
 イエスさまが医者である限り、「処方箋」があるはずです。取税人マタイにとっても、パリサイ人にとっても、その病をいやして頂ける、処方箋があるはずです。それがこの聖書の箇所の鍵となる言葉です。病める私たちを癒すために医者として来られたイエスさまの処方箋は、9節「わたしについて来なさい」です。
 本当の名医であるイエスさまは、私たちがどんなに難病であっても、それを放っておくことはされません。いっしょに行こう、いっしょに食べよう、いっしょに生きようと招いてくださいます。それが取税人マタイが発見した、インマヌエル「神、我らと共にいます」でした。
 マタイは、「立ち上がって、イエスに従った」のです。これこそ、神の奇跡です。臼井兄の百歳になるお母様が、主を信じたのはまさしく神の奇跡です。お母様の心に、昔どこかで口ずさんだ、讃美歌を思い出させ、「私についてきなさい」と招かれた声に反応にして、立ち上がってイエスに従ったのは、まさに奇跡です。 
  そして、私たちは礼拝の度に、その奇跡を味わっているのです。 「私のような者が、礼拝に来ることができたのです」。「私のような者が、主に従っているのです」。まさにそれは、神のあわれみです。