題      名: イエスに出会った人々(2) ――ヨハネとアンデレ
氏      名: fujimoto
作成日時: 2005.05.12 - 08:00
イエスに出会った人々(2) 
  ヨハネ1:35−42「来なさい、そうすればわかります」

 私たちはみな誰でも、独特な方法で、それぞれの状況下で、イエス・キリストと出会っているはずです。誰一人として同じではないでしょう。しかし、誰一人としてその体験を共有できないものではありません。他の人の証しを聞きながら、どこか自分も共感し自分も感動するところがあるのは、私たちはその体験を共有できるからです。それは、聖書の中でイエスさまと出会っている人々にも言えるのです。
  先週は、取税人マタイでした。そして今週は、このヨハネとアンデレです。それはまた、私たちでもあるのです。

1)主と出会うには、主イエスを指さしてくれる人が必要です。
 35−36節:イエスさまが歩いてゆかれるのを見て、バプテスマのヨハネが、「見よ、神の小羊」と自分の弟子たちの注意をイエスさまに向けました。
  以前、証しの話をしましたときに、ルーブル美術館にある、ダビンチが描いた「ヨハネの手」という有名な絵画の話をしました。それは、まさに、29節の場面を描いた絵画です。イエスさまが向こうから歩いてこられます。そこをヨハネが弟子たちの前で、イエスさまを指さしているという場面です。興味深いのは、ダビンチがつけた絵のタイトル、「ヨハネの手」です。絵にはバプテスマのヨハネの顔も身体も全部描いておきながら、題は「ヨハネの手」としました。それは、キリストを指さす「手」です。
 ここに、証しの原点があります。証しというのは、旧約聖書の証言から来ていますが、証言というのは裁判用語です。証人として法廷に立ったら、自分のことを話す人はいません。それは出来事なり、被告人あるいは原告人と自分との関わり、自分が見たこと体験したことを話すのです。その仕事は、最終的に自分以外の人を指さすことにあります。
 ヨハネはそうでした。彼の仕事は、自分の後から来る、自分よりも偉大な方を指さすことでした。
  27節「その方は私の後に来られる方で……」
 30節「その方は私にまさる方で……」
 彼の最終的な役目は、自分の弟子たちをイエスさまに紹介することでした。
 私たちがイエスさまを知り、神の恵みを受ける言いたった背景には、必ず、私をイエスさまに紹介して くださる方がいたはずです。書物を通して、音楽を通して、イエスさまを紹介してくださった、私を教会に連れてきてくださった。
 海外に行きますときに、まあ日本でもそうでしょうが、この紹介をよく頭に入れておかないと、戸惑います。順番は、必ず、えらい方の人の名前を呼んで、その人に下の人を紹介しなければなりません。「玉木先生、こちらが学生の藤本君です」、と。それから、「藤本君、こちらがかの有名な玉木先生です」という具合です。この逆をやりますと、大変失礼になります。
 私たちは、イエスさまに、この人のことをよろしくお願いしますと一生懸命に祈ります。一生懸命に、イエスさまに、その人のことを紹介します。しかし、証しは逆です。その人をイエスさまに紹介しに行くのです。自分の微力を尽くして、その人を神の恵みの世界に導こうと、神の愛を語るのです。

2)さて、2番目に、そっと後ろをついて行った二人にイエスさまは、ふり返って問いかけをなさいます。
 38節「あなたがたは何を求めているのか」
 ヨハネとアンデレがイエスさまの後をついて行ったのは、単なる好奇心が働いたのかもしれません。いきなり自己紹介をして、話しかける勇気もありません。まだ、その必要を感じていないのかも知れません。それは、私たちと同じです。
 しかし、イエスさまは、彼らの心の中を見抜くように尋ねられます。「あなたがたは、何を求めているのですか。」彼らの心の奥の期待をくすぐり出すような、招きの質問です。深く考えれば、それは、私たちの人生の目的を尋ねている言葉です。
 「あなたは何を目当てに、何を目標に生きているのか」と主が問われるのです。この世界の人々のほとんどが、この質問に答えることが出来ないことでしょう。私たちは、環境に左右されて、大きな運命という流れに押されて、なるがままに、「何を求めることもなく」生きています。勿論、当面の目標は、あるでしょう。しかし、この世で汗を流して、涙を流し、どの方向に、その人生は進んでいるのでしょうか。
 「あなたは、何を求めているのですか。」多くの人が、言葉に出して表現するには、余りに恥しいことを目当てに、一生懸命生きています。野心・情欲を満たすこと・自分の欲をとことん満たすこと。そのためには、手段も選ばず、他人をも顧みず。
 しかし、そういう生き方をしている人でも、本当に心から求めていることがある、と聖書は語っています。それは、心の平安です。心に浸透する、本当の満足です。一時の欲求の充足ではありません。自分を創造してくださった永遠の神と自分をつなげることです。この世界を創造し、生かしておられる神に語りかけ、その愛を受けることです。この方の御手の中で、生かされていくことです。
  死の扉の向こう側へ続いていく私の存在価値です。無意味な、断片的な、無気力な生活から脱したい。2重3重に分裂してしまった自分を、偽りのない一つに統合したい。そのことに気付いていないか、気付いているかに関わらず、私たちは、それを求めています。なぜなら、神様が、私たちをその様に創造したからです。
  イエスさまは、その霊的な渇望をかき立てるようにおっしゃいました。「あなたがたは、何を求めているのですか。」この問いかけをしてくださるのが、キリストとの出会いです。その問いかけを聞いて、はじめて、神と出会ったといえるのです。それは、普段の礼拝でもそうなのです。
 「今の私は、何を求めているのだろう、何が足りないのだろう、何が必要なのだろう」と霊的に主の問いかけを受け止めることです。

3)「来なさい。そうすればわかります」
 そのとき、イエスさまはすぐに答を下さったのでしょうか。一瞬にして解決してしまったのでしょうか。いいえ、人生の本質的な質問は、中身が広くて深いのです。主は、おっしゃいました。39節「来なさい。そうすればわかります」。
 先週、取税人マタイの前に医者として現れたイエスさまは、彼に言いました。「わたしについてきなさい」。それが処方箋なのです。一瞬にして、解決していくものではありません。
 そもそも、私たちの人生の問題はそういうものではないですか。オリバー・ホームズという19世紀の医者がいます。・彼は麻酔治療に専念します。当時は、エーテルを使っていたそうです。患者にどんな影響、どんな効果があるのか、彼は自分で試してみました。ゆっくりとエーテルを吸い込んで、意識を失う瞬間、何か深遠な思いが頭を駆けめぐりました。彼は、その思いが宇宙の神秘を紐解くほどの真理だと確信したのですが、目覚めてみると、それが何だったのか一向に思い出せないのです。
 人類の運命を左右するような大切な真理です。そこで彼は、もう一度、自分に麻酔をかけて、そばに速記者を配置して、意識を失う瞬間に、自分が得たと思った真理を書き留めるように言いました。エーテルを吸い込んで、意識が薄れた瞬間、頭の中に何かが巡りました、彼は急いでその思いを言葉にして、次の瞬間には意識はありませんでした。
 回復した後、彼は心ときめかせて速記者に尋ねます。「私は、一体、どんな真理を見たというのだ。どんな言葉 を私は残した?」「まあ、短い文章でした。・・・この宇宙は、エーテルの香りで満ちている、と」。
 「そっ、それだけか?」
 「ええ、そんなもんでした」
 一瞬の解決というのは、ある意味で、そんなものかもしれません。イエスさまが、私たちに教えてくださろうとしていることは、広くて深い真理です。そして、どんなに私たちの頭脳が立派で、どんなに聖書が神の言葉だとしても、その真理は人生という現場でしか体得できないのです。だから「来なさい。そうすれば、わかります」と主は、今日も招いてくださいます。
 木曜日の祈り会で、最後に田口姉が集会の感謝を祈ってくださいました。私は、何か深く心に留まるものがありました。もう何十年も信仰生活を守っておられる姉ですが、教会に来てはじめの頃、わからないことがたくさんあって、不安で栄造先生に尋ねたそうです。すると先生は、ひとこと「来ていれば、わかります」と答えられたというのです。
 姉妹は、その祈りの中でしみじみと主の御前に告白されていました。信仰生活、がんばりすぎたときもあった、逆に何もしないような怠慢なときもあった、でもふり返ってみると、一足一足、主について行くことによって、多くの山坂を超えて、自分ではなくて、イエスさまによって生かされていることが、最近しみじみわかってきた、と。
  信仰生活の奥深いところというのは、そういうことなんでしょう。 ・・・「来なさい。そうすればわかります」との招きに従って、イエスさまについて行くことです。