題      名: イエスに出会った人々(4)ベテスダに寝ていた男
氏      名: fujimoto
作成日時: 2005.05.26 - 13:27
イエスに出会った人々(4)ベテスダに寝ていた男
        ヨハネ5:1〜9
           
 エルサレムの神殿には、いくつもの門があって、その中に、羊の門、そしてそのそばにベテスダという池がありました。泉は、間欠泉で、一定の時間に従って、泉が大きな音と泡とともにわき出してくる。そのときできる渦に、最初に飛び込んだ人の病気がいやさ れるという迷信があり、病人が集まってきます。
 3節をみますと、内科・皮膚科・外科、全部集まっているようなものです。迷信だと無視していた人もいたでしょうが、多くの人は、たとえ迷信でも、他にしがみつくものがないのです。
 中世のヨーロッパを包んだ、黒死病、ペストと呼ばれる伝染病がありました。夜こっそりやってくる泥棒のように、不気味に人々の生命を狙っていったのです。その伝染病が去って行くまで、イギリスを含めて、ヨーロッパ大陸で、総計2500万人の人が生命を落としたと伝えられています。イギリスを例に取っても、1664年の5月には、いくつかの分散したケースだけですが、翌年の5月には使者は590人。それが6月には6137人。8月には31000人、ロンドンだけでも、その年には7万人が死んだと伝えられています。
 人々の多くは、愚かにも、この伝染病が汚れた空気からやってくるものだと信じたそうです。そこで人々は、きれいな、いい香りのする花をポケットにいれて歩くようになったそうです。この疫病にやられている人たちでも、歩くことが出来るのなら、病院や家庭から連れだしてもらって、きれいな花でいっぱいに囲まれているヨーロッパの庭園に集まってきます。そこで、みんなで手をつないで輪になって歩きながら、心行くまで新鮮な花の香りを胸に吸い込んだというのです。
 迷信とは、我々がものごとを知らないという不安から生まれます。どうしようもない世界の中で、私たちは自分で嘘を作り出し、それを信じて行く中に、のめり込んで行きます。それで、少なくとも心が落ち着いてしますのです。

さて、聖書の記事を少しゆっくり見てみましょう。
 1)話しは、6節のイエスさまから始まります。
 3つの動詞です。見る、知る、そして言う。「見た」・・・だれでもすること。ベテスダの池の側を通って、こうした病人に目を留めない人はいません。「知る」・・・周りの人に聞いたのか、あるいは自分で観察されたのか。そして、話しかけておられます。
 岩波新書に「やさしさの精神病理」という、精神科医の記した本があります。彼は、現代社会の架空の優しさだと、いいます。本当は、「やさしさ」とは相手の気持ちを察し共感していくことであるのに対して、現代日本の“やさしさ”とは相手の気持ちに立ち入らないこと、だというのです。なるべく立ち入らない、直接に触れない。
 この“やさしい”関係を身近な者同士にも適用してしまうと、非常に困った事態が生じるというのです。指摘すること自体が相手に対して“やさしく”ないので指摘しない。また本人は、やさしさゆえに、込み入った問題を回りに相談できない。プロの精神科医を訪ねる人は、だれからも指摘してもらえない問題、あるいはだれにも相談できない悩みを解決しようとしているというのです。でもその時は解決したとしても、また同じ“やさしさ”の世界に戻ってしまう。だれからも指摘してもらえず、だれにも相談できないという世界に。
 イエスさまは、見て、知ったら、必ず、手を伸ばしてその問題に触れてこられる方です。私たちにしてれば、放っておいてほしい問題であっても、手を伸ばしてこられる方です。

2)つぎに、イエスさまは、彼に尋ねます・・・「良くなりたいか」
 ある意味で、無神経な質問とも聞こえます。そんなことは当たり前です。しかし、このストレートな質問で、この男性の心の奥底に眠っていた一つの願望が目覚めたことでしょう。直りたい。38年の病です。
 ベテスダの池に来て、何年になるかは書いてありません。当然良くなりたいのですが、しかし、長い間、この病を背負って、付き合ってきた彼の心は、もう「良くなりたい」とか、そんなレベルではない。それほど、この不敏な自分になれて、横たわっていた。私たちもそういう部分がある。変えようとしない、そのままできてしまっている問題。そして周りは、優しさの故に、その問題には触れない。
 彼は、応えます。・・・7節「主よ。私には水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの穂とが先に降りていくのです。」こんな世界にも競争があるのです。間欠泉の音を聞くと、我先に、争って、飛び込む。いつもは、互いをいたわるほどの病人社会。しかし、次の瞬間、仲間が競争相手に変わる。
  彼の心の中にあったもの、それは「くやしさ」です。言い訳・不遇な環境を責めている、あるいは周りを責めているのです。彼は、イエスさまの「良くなりたいか」という質問に対して、「はい」とも「いいえ」とも応えない、引きずるような言い訳を出してきました。
 心理療法の世界で、「solution focused therapy」というのがあります。
それは心理療法を受けている人が、徹底して自分に尋ねて、自分で答を探していくのです。「自分は、何をしたいのだろうか」。それは、「自分は何をしてもらいたいか」ではありません。「何をしてもらいたいのか」という問には、どこまで私たちは不満足な結果しか得られません。大切なのは、何をしてもらいか、ではない。それでは、私たちの人生はかわらないというのです。自分は何をしたいかに注意を向けるというのです。彼に必要なのは言い訳ではないのです。自分人生を変えていく方向付けでした。

3)さて、つぎです。
 主は、いきなり彼に言われます。
 「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
 突然、少し唐突とも思われるほど、彼に命じます。「床」って、何でしょう。彼が、このベテスダの池に住むようになって、自分の身を寄せてきた小さな、小さな床。=助ける人がいなくても、その床が、自分の空間。どうにか生きるために、彼がしがみついてきた場所。それが、彼の支えだったに違いない。
 本当に良くなりたいという望みも薄れてしまって、濁ってしまって、もう38年。言い訳の中に埋もれて、数年になるのか、十数年になるのか。そして、ひたすら、自分の小さな床にしがみついて生きている。非常に不確かなものを支えに、これが自分の人生だと、半ば諦めているのです。
 イエスさまは、彼に強いことばで命じられました。
 「起きて、床を取り上げて、歩きなさい」
 神のことば、主のことばです。あらゆることを命じることのできる権威あることば。光あれと仰せられると、光がある権威あることばです。その言葉を信じて、主を信頼して、主を自分の「床」として、前に一歩、二歩と踏み出していきます。

   ポルトガルで宣教師だったロバート・リードという人物がいます。身体の四肢の変形で自分で顔を洗うことも、服を着ることもできません。しゃべることもむずかしいのです。時折、身体が痙攣するので、車を乗ることもできません。散歩も無理です。しかし彼は、クリスチャンの大学を卒業して、短大で教えて、やがて五回、海外に宣教旅行に行きます。
 1972年、単身でリスボンに渡り、ホテルの一室を借り、言語を学び、多くの支援を受けてのこですが、生活を始めます。彼の宣教場所は、町の広場でした。イエスさまのチラシを配ります。なんと6年で、彼は70人を洗礼に導いたというのです。
 
 言い訳を言うたびに、人生の責任を他者にぶつけるたびに、私たちの人生はバックします。決して前進しません。聖書では、実に単純に書かれています。この男性は、床をたたんで、歩き出した。自分を縛り付けてきた生き方、考え方、支え、生活、あり方――そのすべてが、「床」ということばに代表されているのですが、彼はそれを片づけて、そんなものではない、主イエスキリストを、神の力を支えに、歩き始めました。歩き始めたとは、象徴的です。彼に、新たなる人生が始まったのです。