題      名: イエスと出会った人々(10)――ゲラサ人
氏      名: fujimoto
作成日時: 2005.07.18 - 20:52
イエスと出会った人々(10)――ゲラサ人
           マルコ5:1−20

 今日、ごいっしょに見ていただきます聖書の箇所には、極端なまでにも自分を失った人物が登場します。悪霊につかれていた人です。3節には、彼は墓場を住処としています。誰も鎖で彼を縛っておくことができません。恐ろしいほどに凶暴です。不気味です。彼は夜昼となく叫び続け、石で自分の体を傷つけているのです。
 自分は、そんな世界とは関係ないといわないで、ちょっと見ていただきたいと思います。症状のレベルは違っても、かなり私たちと決してかけ離れていません。墓に住みついているというのは、不毛の地に、死に取り囲まれながら住んでいるということでしょう。この世界も墓に通じているのです。彼は、鎖に縛られ、それを引きちぎり、しかし、自分の内側に住む悪霊に縛られて生きています。私たちを縛るものは、たくさんあります。罪や重荷や、不安や思い煩い、責任。
 =彼は、5節にあるように、自虐的に生きていました。私たちもなかなか、自分を生かすことができません。悪霊につかれたこの男が自分がだれかもわからないように、私たちもまた本来の自分を完全に失って、自分を傷つけて生きています。
 今度の秋、聖学院大学の助教授で、心理療法士の藤掛明先生をお招きして、講演会を開こうと思うのです。先日、この先生がおっしゃっていました。いま、社会でも、特に心理療法の世界で一番ホットな問題は、なんと言ってもDVです。ドメスティック・バイオレンス(しかも、多いのは母親が子どもを、夫が妻を、でしょうか)。普通の感覚から言えば、一番愛が満ちているのが家庭ではありませんか。一番ほっとするところ、守られているところ、それが不毛な死の世界にあり、不安と憤りに縛られ、母親や夫が自虐的に生き、愛すべき者を傷つけて生きるのです。

2)今度は、この悪霊というものに目を向けてみましょう。
 7節・・・悪霊は神の存在を嫌う、それを負担に思うのです。これが、悪霊の冴えたる証しです。私たちの教会には、インマヌエルという名前が付いています。(キリストに与えられた称号で、神ともにいます、という意味です)教団の正式名称は、イムマヌエルで、これを嫌って、最近ではインマヌエル」。「イム」というのは、難しいです。高津教会の墓石は、正式名称で「イムマヌエル」でお願いしたら、石屋さんが、カタカナの「イム」を漢字の「仏」に勘違いされて、墓石は「ブツまぬえる」になってしまいました。難しい名前が付いています。・しかし、その内容の意味するところはすばらしい。神、われらと共にいます。小さな言葉の中にこれほど、すばらしい意味が込められている聖書の言葉も他にはないでしょう。
 しかし、悪霊は、これを嫌うのです。悪霊は、神様のみまえに来ると、落ち着きません。なんと、向こうからイエスさまのところにやってきます。7節「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか」。悪霊は、イエスさまの権威の前で不安で仕方がないのです。悪霊につかれた人もそう。そして、叫び声を上げます。
 ドフトエスキーの作品に「あくりょう」というのがあります。そこで彼は「あくりょうは、集団を襲う」と記しています。集団になると、人間は、人間性を失うといいますか。悪霊の影響を最も受けているのは、個人でいる以上にこの社会なのかもしれません。この世はイエスさまを嫌います。聖なる事柄、愛すべき事柄、誉れある事柄を嫌って、自分の欲のなかにおぼれていきます。いつの間にか、その中に飲まれてしまった一人の人。

3)イエスさまに目を向けてみましょう。
 イエスさまは、暴徒の中に埋もれている、歯止めがきかなくなった社会の中に埋もれている、掛け替えのない個人の人間性に目を向けられます。集団の中で傷ついて、叫んでいる個人のうめき声を聞かれます。日本の社会は、いま貧しくはないでしょう。しかしゆがんでいます。一番貧しいのは家庭の温もりでしょうか。或いは人間関係でしょうか。この社会が、家庭が人間らしくないのです。自分を見失って、唯一自分を見つける場所があるとしたら、悪を絆として成立する仲間の中だったりします。
 日本全体をあくりょうが襲っているような現代の社会で、自分の本当の姿を見失って叫んでいる人に、イエスさまは会いに行かれます。イエスさまは、このゲネサレの地で、そう叫んでいる一人の人と向き合って、この一人の人に目を注ぎました。主は、彼と出会いました。マタイの福音書に同じ出来事が記されていますが、この付近の道を誰もが避けて通ったとあります。しかし、イエスさまは避けて通ることをされません。この人物をとらえるために、正面から突き進んでいかれます。力強い権威の言葉を発せられます。「汚れた霊よ、この人から出て行け」
 彼を救い出すのは、彼を愛しておられるからです。墓場に追いやられ、だれもか待ってくれない、ただ周りのお荷物に過ぎなかった男を愛をもってつかまえてくださいました。普通の人なら避けて通りたいような彼を愛と力をもって捕らえられたのです。
 そうして、墓場にすんで、暴れ回っていた男が、15節をみますと、正気に帰って座っています。神さまの存在を負担に思い、様々なものに縛られ、自分を生かし切れず、レギオンの中に埋もれ、自分を見失っていた一人の人が、キリストに出会って変えられました。人生何のために、どこに向かって生きているのか、何を基準に生きているのか、それを見失って、流れにまかせて、欲にまかせて生きていた人が、神の御前に正気で座ることができるのです。礼拝とは、神の御前に正気で座る時間なのです。

さて、4)神の御前で正気で座ることのできた男は、遣わされます。
 彼は、イエスさまにお供することを願いました。いまで言えば、献身して牧師になるようなことでしょうか。主は、それをお許しになりませんでした。かわりに、19節「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい」。悪霊から解放された、自由にされたことを、あなたの人生を通して証ししなさい、というのがイエスさまがおっしゃっていることです。

A.J. Gordonというボストンの教会で牧会した有名な牧師がいます。19世紀後半、ムーディーの感化の下、活躍しました。彼について、こんな話が残っています。ある土曜日、教会の中で、少年が小鳥の入ったかごをもって入ってきたのに、出くわしました。
  「どうしたの、その小鳥」
 「先生、野原で捕まえたんです。」
 小鳥は、おびえて、ばたばたかごの中を飛び回っています。
 「なあ、君。それを先生、2ドルで売ってくれないかな」
 「良いですけど、きれいな声で鳴く鳥じゃないですよ。ぼくは、猫のえさにでもと思って、採ってきたんですから」
  「いいよ、それでも。」
   少年は大もうけです。大喜びでした。先生は、かごごと受けると、教会の庭で、小鳥を逃がしました。大空高く飛んでいきました。
 日曜日の朝、先生は、空っぽの鳥かごを説教団の横に置いて説教したそうです。先生は、昨日のいきさつを話しました。確かに小鳥は、きれいな声では鳴いているわけではなかった。でも、かごから解放して、大空に羽ばたいていったとき、その声は、「救われた、救われた」と鳴いているに聞こえた。 

 レギオンという大勢の悪霊を宿していた男が、イエスと出会って、正気で神様の御前に座るようになりました。どんな証しだったのでしょう。悪名高き人物だったでしょう。人々は恐れたでしょう。からだには傷があったでしょう。手首にも足首にも、枷のあとがついていたでしょう。とうていきれいな声で鳴くことができないようなつまらないとりなのです。私たちがそうなんです。しかし、彼は正気でした。そして、ただひたすら、イエスさまが彼を自由にしてくださり、彼を変えてくださったことを、貧しい小鳥が大空に羽ばたくように、伝えたに違いありません。
 イエスさまは、彼に言いました。
 「主が、どんなにあなたに大きなことをしてくださった、どんなにあなたを憐れんでくださったかを伝えなさい」 
 複雑な人生だったのです。しかし、これからの彼の人生は、ある意味、単純でまっすぐでした。イエスの大いなる愛とあわれみ、その権威と力を伝える人生になったのです。小鳥のような小さな存在でも、その恵みを伝えられる、それが私たちの確信しているところです。