題      名: 日を正しく数える知恵を与えてください
氏      名: fujimoto
作成日時: 2005.07.18 - 22:44
日を正しく数える知恵を与えてください
  詩篇90篇
 
 詩篇90と詩篇91とは二つともモーセの祈りといわれていて、そして二つとも同じ表現で始まります。
 90:1「主よ、あなたは代々にわたって私たちの住まいです」
  91:1「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」
 二つとも、神様を住まいとして、人生を行き渡っていく私たちの姿を描いています。しかしながら、この二つの詩篇は、そのトーンがかなりちがいます。91篇は、力強い確信に満ちています。5節「あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また暗闇に歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも」。91篇は、神が助けてくださる、あらゆる災いから救い出してくださるという確信に満ちています。それに対して、90篇は、偉大な信仰者モーセの祈りですが、私たちの人生のはかなさを切々と歌います。
 3節「あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。
 4節「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。
 5節「あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。
 6節「 朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。」
 91篇が信仰生涯の光だとすれば、90篇は陰の部分かもしれません。私たちの人生の労苦とはかなさが歌われています。モーセは、人生はじめの40年をエジプトの王宮で何一不自由なく、世界の中心で人々に囲まれ多くを学んで過ごします。しかし、そこを追われて次の40年間、遊牧民として羊を飼って、ひっそりと平凡に生活します。はじめの40年とあとの40年は、劇的に違っていました。
 しかし、彼の人生はまだ先がありました。80歳にして、神の召しを受け、奴隷のイスラエルをエジプトから引き連れて、シナイの荒野を40年旅をします。いったい彼が、人生のどの段階でこの祈りを記したのでしょうか。7−9節を見ますと、荒野で不信仰の民を引き連れながら、多くの人々の死を確認しながら、行き渡っていったときでしょうか。いやと言うほど、人間の愚かさ、そして人生のはかなさをあじわったときでしょうか。まさにパウロは実感しました。10節「私たちの齢は70年。健やかであっても80年。しかも、その誇りとするところは労苦と災いです」。
 さて、人生の労苦とはかなさを味わっているモーセが大きく分けて3つのことを祈っていますので、それを見ていただきましょう。

1)12節「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」――これが第一の祈りです。自分の日を正しく数えることを教えてください。
 笑い話で、こういうのがあります。ある男性が、定期の健康診断を受けました。それから2日後、医者から電話がありました。
  「藤本さん。検査の結果を見て、大変問題があります。よろしいですか、電話で申し訳ないのですが、よく聞いてください。ちゃんといすに座って聞いてください」
  「はあ」
 「言いにくいことですが、たぶん、48時間の生命ですね」
 「えーっ、どういうことですか?」
 「いや、もっと悪い知らせがあるんです」
 「48時間の生命って、それよりも悪いことがまだあるんですか?」
 「ええ、実は昨日から何度もお電話を差し上げているのですが、いっこうにお出にならないものですから……1日短くなってしまいました。」
 神様は、何度も電話をくださるのでしょう。私たちの人生には終わりがあることを教えるために。ところが、私たちはいっこうにその電話にはでないんです。
 ですから、モーセの祈りは、「それ故、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください」です。人生ははかないということは、誰でも知らないわけではありません。日本では仏教の感化から、普通は自覚していることかもしれません。しかし、90篇が教えていることは、永遠の神の御前で自分の人生のはかなさを自覚することです。神の御前に、自分の罪深さに気づき、申し訳なさに胸打たれ、そんな自分を生かしてくださる、愛してくださる神に感謝しないと、自分の日を正しく数えることはできないでしょう。
 そのようにして、「知恵の心を得させてください」と祈っています。知恵とは、この漢字が良いですはないですか。「恵みを知る」ことです。箴言1:7に「主を恐れることは、知識のはじめである」と記されています。恐れるというのは、怖がるという意味ではなく、敬い信じるということです。
  人生すべての日をして、私たちが神の恵みを知ることができますように、与えられているいのちに感謝することができますように。それこそが、労苦とはかなさに満ちているこの地上生涯にあって、もっとも意義あることだというのです。
 忘れもしません。勝間田英夫兄が、80歳の誕生を迎えられたとき、感謝献金をされて、その封筒の中に一筆、ご自分の信仰を記されていました。「人の人生、おおよそ70歳、80歳、そこまで生かしてくださった主に感謝します」という一筆でした。その一言をお書きになったのは、恵みを知っておられる、恵みに感謝することこそ、もっとも祝福されたこと、と知っておられるからです。

2)13−16節
 「帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。
 どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。
 あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。
 あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。」
 ・帰ってきてくださいとあります。帰ってきてくださる神。それはもちろん、私たちが神様のところに帰らなければならないのです。しかし、私たちが人生幾度が恵みを失うときがあるのですが、見捨てられても仕方がないような私たちのところに、神様はなんども帰ってきてくださるのです。人生、70年、80年の旅路の中で、自分の信仰が元気なときも、ふぬけの時もあるのです。しかし、神は帰ってきてくださいます。
 ・楽しませてください、というの祈りをモーセは独特な形で祈っています。それは、労苦の日々に応じて、災いの日 々に応じて、楽しませてくださる神、報いてくださる神です。地上の生涯で、私たちの労苦や涙に応じて報いてくださいますが、しかし14節の「朝には」という言葉を見ますと、私たちクリスチャンは天国での報いを想像するでしょう。それは究極の報いであって、所詮地上でどんな報いを受けても、それはまた飛び去ってしまうものです。苦労の日に災いの年々にあなたを呼び求めて、何とかして天国に迎えてください。
 ・見せてください(あなたの御業を、あなたの栄光を)見せてください。しもべにも、子どもたちにも見せてくださいと。帰ってきてくださる神様、報いてくださる神様、私たちの家族すべてに御力を現してくださる神様です。
 モーセは自分に対して祈りました。どうか、この私が恵みを知るものとなりますように。それは自分に対する祈りです。恵みを知りますように。そしてこの3つの祈りは、神に対する祈りです。この二つの祈りが組み合わさるかのように、最後17節の祈りがあります。

3)17節「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください」。
  この世界で、この人生で、おおよそ手のわざが確かなことなどあるでしょうか。何かを成し遂げたと思っても、それは小さなもので、しかもあっという間に姿を消します。何にも握ることができない、すべてが失われていく世界にあって、そのむなしさと無力さを痛感している私たちが、どういう思い出私たちはモーセと共に「手のわざを確かなもの」として祈るのでしょうか。
 
 「千個のおはじき」という話があります。英語の話です。ある男が、趣味のアマチュア無線の通信を通して、まったく知らない男性から人生談義を聞かせてもらったというのです。彼は、自分の人生をこう語り始めます。・・・かなり意味がありますから、聞いてください。
 「なあ、ぼくはある日、書斎に座って簡単な算数をやってみたんだ。男の平均寿命を75歳とする。それを越えて生きる人もいれば、それに満たない出死んでしまう人もいる。でも、それを基準に自分の人生を考えてみたんだ。ぼくは一週間で土曜日が一番好き。仕事も休み、ゆっくり自分の好きなことをして……。一年に土曜日が52回あるとして、それが75年分なら、3900回の土曜日。それだけ楽しめるんだよ」
 男は続けます。ここからが大切なところ。
 「この数の意味を悟るに至るまで、55年の年月を要してしまった。その時点で、すでに2800回の土曜日を過ごしてしまった。残るは、あと約1000回。そこでぼくは、近くのおもちゃ屋さんに行って、おはじきを千個買ってきた。それを我が家で一番大きなガラスの瓶に入れて、それからの人生、毎週土曜日、おはじきを一つ取り出して、捨てていった。なあ、おはじきは着実に減っていくんだよ。それをじーっと見ながら生活をしていくんだよ」
 それから、その男は少し間をおいて、アマチュア無線のラジオを通して、見知らぬ男に告白しました。 
  「それでな、ぼくは昨年のある土曜日、最後のおはじきを瓶から出して捨てたんだ。そのとき、初めてわかった。それから先は、神の恵みだ、と。だから、ぼくは、新しくおはじきを瓶の中に入れることにした。毎週土曜日に、一つの新しいおはじきを瓶の中に入れることにした」
 
 さて、わかりますでしょうか。私たちの人生は、瓶の中からおはじきを取り出して、どんどんそれが減っていくのを眺める人生でもあります。しかし、知恵の心が与えられるとき、そもそも自分の人生の瓶は、からっぽなのがわかるのです。私たちが日々生きることは、神様が帰ってきてくださり、報いてくださり、楽しませてくださり、御業を見せてくださるお方であるから、この方から恵みのおはじき一ついただいて、毎週、毎日、かつて空っぽであった瓶の中に入れていくようなものでもあるのです。
 私たちの人生は確かに両方の側面です。元々あったおはじき、つまり体力も気力も、記憶も知力も、知人も友人もだんだんと減っていくのが人生でしょう。それをじーっと見つめていても、人生は確かなものにはなりません。どこまでいっても、不確かです。何しろ減っていくのですから。しかし、もし私たちに知恵の心、恵みを知る心が与えられたら、私たちは減っていく自分のおはじきの背後に、増やしてくださる神の恵みを見いだすことができるはずです。それを数えることができるのが知恵の心です。そして、そのような見方をすると、私たちの手のわざはたしかなものになる。日々の生活が確かなものになっていくのです。