題      名: イエスに出会った人びと(11)――ザーカイ
氏      名: fujimoto
作成日時: 2005.08.19 - 18:37
イエスに出会った人びと(11)――ザーカイ
 
ルカ19:1−10

 イエスさまを一目見ようと木に登ったザーカイ。いろいろな人物がイエスさまと出会って、それが聖書に記されています。イエスさまとの出会いに焦点を絞って、話を知るとき、いちばん話されるのは、ニコデモ、サマリヤの女、12年わずらいを持っていた女、そしてザーカイだろうと思います。イエスさまという御方、そして人間の姿を彼らほど鮮明に描いている物語は他にはないように思うからです。
 ザーカイは、取税人のかしら(元締め/一番の憎まれ役)です。2節に「金持ち」と記されていますが、当然のこととして不正を働いていたわけです。その彼が、思わぬしっぺ返しをされる。エリコの町をイエスさまが通過しました。ザーカイは珍しく純粋な思いで主を見たいと考えていた。一生懸命に見ようとしますが、人垣が邪魔をして見ることができません。人々はあえて、彼の邪魔をしたにちがありません。だれも、好意を示してくれない。みんなで彼を無視します。
 日頃から、自分が嫌われていると言うことを知っていました。背が低いと書いてありますが、ギリシャ語ではミクロスです。非常に背が低かった(子どものようなサイズ)ということでしょう。取税人の世界に入ったのは、こうしたハンディもあってのことだったのかもしれません。まともな稼ぎを手にしようとしたら、それぐらいしか道はなかったのかも知れません。きっとザーカイの人生にも、それなりの事情があったはずです。
 現実の世界です。しかし、いやな世界です。不正に税金を取って、懐を肥やしているザーカイ。日頃の腹いせに、彼を無視する人々。だれにも同情されないザーカイ。一人、木に登るザーカイ。
 無視されるって、いやですね。だれも自分を助けてくれない、関心を寄せてくれない。「涙が出るほど良い話」というシリーズの本があります。その中に、こんな話があります。・ある中学生の女の子が、いじめを受けていました。特定のグループからいじめを受けていました。みんな知っているけど、だれも味方してくれません。ある日、彼女は自分の机の中に手紙が入っていたのをみつけます。それは、クラスの目立たない女の子からの手紙でした。
 「がんばって。わたし何もできないけれど、あなたの味方だから」
  それからことあるごとに、励ましの手紙をもらいました。時には一言、「よくやったよね。がんばったね」と。彼女は、ずっと、その手紙で支えられていたというのです。実際、いじめグループに対してだれも立ち上がってはくれませんでした。でも自分は救われたというのです。わたしの味方はゼロではない。すべての人が自分に無関心じゃないんだ。ザーカイには家族があり、召使いがあり、部下がいます。しかし、そんなの何の意味もない。つまはじきにされ、無視され、一人木に登る人生なのです。しかし、イエスさまは彼に無関心ではありませんでした。彼に声をかけます。彼と出会います。この出会いから3つのことを学んでみましょう。
            
1)失われた人
 今申し上げたことは、取税人ザーカイの人生いろいろ、人生の諸事情でしょう。しかし、イエスさまはその先に、つまりザーカイの中に私たちみなに共通するものをごらんになっていました。それは、ザーカイの罪深さ、そして彼は神の御前に失われた人です。彼には、人からだまし取って、私腹を肥やすことにためらいもありませんでした。彼は、取税人の頭としての立場をフルに利用しました。彼は、人を愛することをとうの昔にやめた人です。彼は、神に祈ることも、神を礼拝することもしませんでした。神殿に行っても、自分は受け入れてもらえない、白い目で見られます。とうの昔に、彼の心からは神を恐れ敬う気持ちは消えていました。
 周囲から白めで見られ、孤独で、つまはじきにされているザーカイです。しかし、罪深い人生です。それが私たちです。そしてせいぜいできることがあるとしたら、ザーカイのように遠目からイエスさまを見るだけです。

2)イエスさまは、その彼に声をかけます。
 5節「ザーカイ。急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まることにしてある」
 独特な言い回しでです。この日、ザーカイはたまたまイエスさまが来られることを知って、一目みたいと思って、人垣をかき分け、それがだめで木の上にのぼり、そして目があったのです。これ以上の偶然がありますか。ところがイエスさまは、それが偶然ではなくして、神の摂理の中にあった、それは予定されていた、そう決められていた、という物の言い方をされます。「わたしは、あなたの家に泊まることにしてある、泊まらなければならない」とおっしゃったのです。
 この独特の言い回しは、ルカの福音書にほかに3回出てきます。
 ルカは、これを言うために、一つの特徴的な表現を使いました。
  4:43「しかしイエスは、彼らにこう言われた。『ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。』」「どうしても、……しなければなりません」。イエスさまがこの世界に来られた、どうしても、村々、町々をめぐって、どうしても福音を宣べ伝えなければなりません。・それと同じ、「どうしても、ザーカイ、あなたの家に私は泊まる」とおっしゃるのです。
 9:22「そして言われた。『人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。』」「人の子は、……ねばならないのです」
 13:33「だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』「わたしは、……進んでいかなければなりません」
 十字架は、神の定めです。世の罪を救うように父なる神が御子イエス・キリストに与えられた定めです。それと同じ定めをもって、主はザーカイにおっしゃいました。「私は、あなたの家に泊まらなければならない」。
 イエスさまは、私たちを罪から、死から救うという一つの目的を目指して、「今日も、明日も、次の日も進んでいかなければならない」と。その壮大な目的と平行し、それと同じレベルで、ザーカイにお会いになっておられます。それは、明確に、この出会いで、わたしはあなたを離さない、という意味が含まれていました。神の救いの歴史を動かす、非常に大きな動きの中で、今日は、あなたの家に泊まる計画だ。今日は、あなたのことにかかわる予定だ。失われた者を探して救うために、イエスさまは追いかけてこられます。
 アメリカの南北戦争で、ちょっと有名なウィルマー・マクレーンという農夫がいます。彼は1861年の春、彼の畑で大規模な戦いが2度も展開されました。血なまぐさい戦いが、畑のど真ん中で、脇を流れる小川で。彼は考えたのです。もし戦争の行方を自分が決定することができないとしても、せめて自分は戦争から遠ざかっていたい。彼は自分の畑を売る決意をしました。そうして、おおよそ戦火が及ぶことのない地域に引っ越していきます。
 彼は、人知れぬバージニア州の田舎の古い家を買い取ります。4年後、北軍のグラント将軍が南軍のリー将軍をバージニアに追いつめます。グラント将軍は、リー将軍にメッセージを送って、停戦協定の申し出をします。そして、南北戦争の終結の文章を交わすために選ばれた場所が、このウィルマー・マクレーンの家のリビングルームでした。
 神さまからの呼びかけから逃げることができないとでも言わんばかりです。どんな戦いがザーカイの中にあったのでしょうか。欲の戦い、世の戦いが、ザーカイの心と生涯を舞台に来る日も来る日も繰り広げられるのです。ザーカイは逃げます。自分のお城を造って、自分の世界の中に逃げていきます。
 しかし、それでもイエスさまはおっしゃいました。
 「逃げられないよ。ザーカイ。今日、わたしはあなたの家に泊まることにしてある。」
 神さまとの戦いに降伏しなさい。罪を悔い改めて、神さまの所に戻ってきなさい。ザーカイは、その晩、イエスさまの愛に包まれて言いました。
 8節「主よ。ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します。」
 彼は、自分の人生を神の御前に戻したのです。

3)なぜ、イエスさまはザーカイをそのようにして追いかけてこられたのでしょう。
 罪深く、人から嫌われ、複雑な事情を抱えた男をです。彼は、失われた人なんです。そんな人のことは、放っておけばよいのでしょう。誰も、彼の幸せのことを気遣う人はいないのですから。
 イエスさまは、その理由をおっしゃいました。
 「この人も、アブラハムの子なのだから」(9節)
  「この人も、神の子どもなのだから」
 だれもそうは思っていない。だから放っておいたのです。しかし、イエスさまはそうは考えられませんでした。「あなたも、実は神の民なんだ、愛された神の子どものなのだ」。