題      名: イエスに出会った人びと(13)小犬のような女
氏      名: fujimoto
ホーム: http://www.tkchurch.com
作成日時: 2005.10.24 - 15:11
礼拝:イエスに出会った人びと(13)小犬のような女
  マタイ15:21−31

 物語の背景を先に見ておきましょう。21節――イエスさまは、ガリラヤ湖周辺での働きを終えて、「ツロとシドンの地方に行かれました」。「ツロとシドン」といえば、イエスラエルの北に位置する都市です。旧約聖書においては、偶像崇拝で有名な異教の町だと理解すればよいでしょうか。かつて、北のイスラエルの王アハブを手玉に取った妻のイゼベルは、この地方の王の娘でした。彼女がイスラエルにやってくるとき、嫁入り道具として、千人にも及ぶ、バアルとアシェラの預言者を連れてきたのです。
 その地方にイエスさまが行かれますと、22節「カナン人の女が出てきました」。この地方の女です。そして、娘がひどく「悪霊にとりつかれている」というのです。どうりで、と言いますか、ユダヤ人の視点から言えば、汚れた地に住む女の子どもが、汚れた霊に取りつかれているというのです。
 その背景がどうであれ、親が不憫な子どもに抱く愛がにじみ出ています。母親は叫びました。22節「わたしを憐れんでください」。娘が死にそうなのです。医者にも頼んだでしょう。霊媒師も呼んできたに違いありません。だめだした。なすすべもない。イエスさまがこの地方に来ている、ということが、このあわれな母親の耳にも入ったのです。

そうして、彼女はイエスさまに会いに行きます。

1)答えないイエスさま
 この女性とイエスさまの出会いに一番特徴的なことは、イエスさまが「何もお答えにならない」のです。女は叫んでいるのに、主はだまって無視して歩き続けられるのです。なんとも、イエスさまらしくありません。
 おそらく、イエスさまの態度に困惑したのは、わたしたちだけではないようで、弟子たちも同じだったようです。23節の弟子たちの「この女を帰してやってください」という訴えは、読みようによっては、「イエスさま、早くこの女の願いを聞いてやってください。そうすればすぐに帰っていきますから」とも読めるのです。
 それだけでは終わりません。イエスさまは、弟子たちの願いに対して、「わたしはイスラエルの家の滅びた羊以外の所には遣わされていない」と冷たく言い放ちます。外国人であるこの人の所に来たわけではない。今も昔も、明確な差別に相当するではないですか。
 ところがこの母親である女性は、ひるまないのです。25節母親は、イエスさまのところに来て、ひれ伏して、「主よ、お助けください」と訴えます。
 ところがです。しかし、です。最後のトドメというか、さらにショッキングなお言葉を述べられました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。わが目と耳を疑うようなお言葉です。日本でも、誰かのことを「犬」と言えば、それは相手を侮辱している言葉になります。それはパレスチナでも同じです。もう絶句するしかありません。信じられない。母親の純粋な思いに対して、これほど冷たい態度をとれるものか。

2)この女は私たち
  この主イエスのお姿は私たちには不可解に思えます。イエスさまは、苦しみを抱いて救いを求めてやって来た人に対して、その願いを拒んだり、無視したりなさらないはずだ。それなのにどうしてここではこんなに冷たい態度をとられるのだろうか、と思うのです。
 でも、その瞬間、この女性と私たちが重なります。私たちも、様々な悩みや苦しみをかかえて主イエスのもとに来て、救いを求めます。「主よ、憐れんでください」とは私たち一人一人の言葉です。けれども、そういう私たちの求めや願いに対して、すぐに答えが返ってくるわけではありません。願っても、祈っても、神様からは、主イエスからは何の答えもない、ということを私たちは体験するのです。あるいは、自分のような者は神様の救いや主イエスの恵みを受けるにはふさわしくない、だから救いが与えられないのだ、と思うこともあります。この女性と私たちは重なるではありませんか。俄然、このもの出会いに意味を感じるではありませんか。

3)重要なのは最後のポイントです。それが、この女性の信仰です。
 では、それはどんな信仰なのでしょうか。それは、28節にあるように「りっぱな信仰」です。ギリシャ語ですと、文字通り「大きな信仰」です。どんな信仰が大きいのでしょう。どんな信仰を、イエスさまは「大きな信仰だ」と感激されたのでしょうか。まずそれは、謙った信仰です。27節「しかし、女は言った。『主よ。その通りです』」。
 清水恵三先生という長野の方で伝道された日本基督教団の牧師がいらっしゃいます。先生は、この箇所でコメントをされています。
 福音書を読み続けてきて、わたしたちはいつの間にか、「イエスさまは、困っている人を助けて当然だ」と思いこんでいないでしょうか。「人が、いっしょうけんめい頼んだならば、イエスさまはその言うことを聞いて当然だ」と思いこんでいないでしょうか。わたしたちに置き換えて言えば、「わたしがこんなにいっしょうけんめいお願いして祈っているのだから、神さまが聞いてくれて当然だ」と思わないでしょうか。その時、あまりにもわたしたちは、「自分中心」「人間中心」になってしまっているのではないでしょうか。つまり、「この人がこんなに頼み込んでいるのだから、イエスさまは聞いてくれて当然だ」と。「わたしがこんなにお祈りしているのだから、願いを聞いてくれるのが当然だ」、「こんなに困っているのだから、助けてくれて当然だ」、「こんなに頭を下げているのだから、願いが叶えられて当然だ」
 それが私たちだとしたら、なんとこの女性は、素直に謙って言いました。「主よ、その通りです」。彼女は、自分は神の救いに当然あずかれるような者ではありません、自分の本当の姿を認めているのです。
  私たちも認めます。祈りの中で、「私たちはあなたのみ前に立つことのできない罪人です」などと言います。しかし、本当にそう思っているのでしょうか。いや実は、本当は、自分は主イエスの救いにふさわしくない、などとは少しも思っていない。だから、ちょっと求めて得られないとすぐに苛立って、やめてしまうのです。神が救ってくれないことに腹を立ててそっぽを向いてしまうのです。
 しかし、大きな信仰は、それにとどまりませんでした。そこから不思議な明るさと力強さと落ち着きを持ってこの女性は言いました。「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずをいただくではありませんか」
  彼女は、おこぼれにあずかりたいと申し出ているのです。まさにこれが、神の救いに対する信仰ではありませんか。神の救いは、神の助けは、権利としてではなく、恵みとして与えられるものです。彼女はそのことを知っていました。それを知っているがゆえに、自分はその救いにふさわしくない、犬のような者だということを素直に受け入れることができたのです。そしてその犬のような者である自分に、なお主イエスの救いにあずかる希望があることを見つめることができたのです。
 「大きな信仰」でした。なぜなら、主の愛に限りない期待を寄せていたからです。聖書を見てください。「しかし」という言葉の連続です。23節の冒頭に「しかし」。24節で「しかし」。25節で「しかし」、27節で「しかし」です。なんだか二転三転する人生を象徴しているかのようです。どんなに八方ふさがりでも、どんなに神さまの方から「しかし」と願いが取り下げられたとしても、私たちはなおも「主の愛に限りない期待を寄せて」、恵みのおこぼれにあずかるために、主の前に立ち続けたいと思います。