題      名: イエスに出会った人びと(14)――エパタ
氏      名: fujimoto
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作成日時: 2005.12.08 - 21:20
イエスに出会った人びと(14)――エパタ
             マルコ7:31ー37

 1993年、約600人の弁護士の卵が、カルフォルニアの弁護士になるテストを受けていました。膨大な筆記試験で、ちょうど時間が半分ぐらいきたところで、51歳の男性が胸の苦しさを訴えて、その場に倒れてしまいました。全員が同じ部屋でテストを受けていたわけではありません。すぐに救急車が呼ばれますが、試験のペンを置いて、この倒れた男性に緊急の心臓マッサージを施したのは、2名。後はひたすら、テストに向かっていたというのです。そして、皮肉なことに、その日のテストの内容は倫理学だったというのです。
 こんな話はいくらでもあります。目があっても見えない、耳があっても聞こえないのが私たちです。それは身体的なこと、感覚的なことではなく、マルコの福音書が扱っているのは、霊的なことです。
 この聖書の箇所は、実におもしろい構造で描かれています。
 7:31ー37には、耳が聞こえない人です。
  その人物の耳を、イエスさまは開いておられます。
 8:22−26には、目が見えない人です。
  その人物の目を、イエスさまは開いておられます。
 二つの知覚器官がイエスさまによって開かれているという奇跡に挟まれて、この流れの鍵となる聖句が出てくるのです。それが、18節「目がありながら見えないのですか、耳がありながら聞こえないのですか」――それは、感覚器官の問題ではありませんでした。それは心の問題。霊的に閉ざされた弟子たちの心でした。

 Tコリント2:14に有名な言葉があります。
 「生まれながらの人間は(普通の人は、私たちはみな)、神の御霊に属することを受け容れません(神の世界のことを、霊的なことを、神に関わることを理解できません)」。
 宗教的なセンスの問題ではないのです。私たちみな、生まれながらに、霊的な耳が閉ざされているというのです。10節には、「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されました」と記されています。啓示というのは、どういう意味でしょう。それは、神さまの世界のことは、私たちがどんなに努力してもわかるものではない。それは神さまご自身が私たちを招いて下さり、私たちのたましいを開いて下さらない限り、分からない、ということです。
 この手紙を記しているパウロが、まさにそうでした。聖書を学び、神に仕えていると思っていながら、キリストを迫害し、クリスチャンを次々に死に至らしめていた彼の目の前に、復活のキリストが現れない限り、彼の耳は開かれていませんでした。イエスさまが、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」とおっしゃらない限り、彼の耳は閉ざされたままでした。
 その意味で、教会にいらっしゃっておられる方々は、すでに神さまによって、その手を引かれていると言っても過言ではないでしょう。霊的なことを理解するように、イエスさまご自身が招いていて下さるのです。
 この耳の不自由な男性の描写も興味深いです。彼は、「耳が聞こえず、口のきけない人」です。身体的にはそうです。耳が聞こえない、するとどのように話したらいいのかがわからない。私たちも、神さまの語りかけを聞くようになり、霊的な世界に耳が開かれない限り、霊的なことは語れない、神さまのことを語ることができない、ということでしょう。まず、開いてもらわなければ、閉ざされている部分を神さまに開いてきたいただかねければ、霊的な息づかいはできないのです。
 イエスさまは、この男の人を群衆の中から一人連れだして、その人にさわり、向き合ってくださいます。あのパウロの名前を呼んで、彼に向き合ったように、主は私の名前を呼んで、私の心に語りかけて下さいます。

2)次に注目しなければならないのが、イエスさまの「深い嘆息」(34節)です。
 不思議な言葉です。もしイエスさまが、ここで、天を見上げ、ハレルヤと言われてから、その人に「エパタ」と言われたとしたら、ごく自然です。天を見上げて、主が感謝を捧げてから、祈って、奇跡を行っておられる場面は、他にもあります。ところが、この嘆息――ため息です。あるいはうめきです。
  皆さん、一週間の出来事を振り返ってみて下さい。私たちは何度、ため息を漏らし、うめきをもらしたのでしょう。高校生の女子が、同級生の男子に何度も刺されて、死亡した事件がありました。なんで、そんなことになってしまったのだろう。北朝鮮の頑固な答弁を国連で聞きました。拉致された横田恵さんの写真展が東京で開かれました。お父さんが撮られた小学生の笑顔。それらを見ている方々が、目頭を押さえていらっしゃいました。単純にニュースを見ている私たちでさえ、ため息が漏れてしまいます。深く嘆息します。
 私たちのこの世界は、ため息に満ちています。いいようもないうめきです。言葉にならないうめきです。実際、このステナゾーという動詞は、ロマ書8章26節に出てきます。私たちはどのように祈ったらよいのか分かりません。言葉にならないのです。それをあえて聖霊も言葉にせず、私たちと共にうめきながら、私たちのための祈りを助けて下さるというのです。
 このロマ書の8章を見たら、この世界がどんなにうめきに満ちているか、わかるではないですか。
  ・・・18節「今の時のいろいろの苦しみ」
  ・・・22節「被造物全体のうめき」
  ・・・23節「わたしたち自身が心の中でうめいている」    のです。
 イエスさまは、私たちのうめきに重ねるように、ご自身もうめかれた、深く嘆息されました。そのうめきは、何を語っているのでしょうか。私たちのように深く嘆息しておられる、イエスさまの心の中はどうだったのでしょうか。
 主のうめきは、語っています。あなたは、神の御前に大切な人だ。人は、その創造者から離れて生きるように創造されたのではない。人は、互いを傷つけて、辱めるように創造されたのではない。人な憎しみあって、しのぎあって、相手を蹴落として生きるように創造されたのではない。人は、自己中心に、自分のことだけを求めて、生きるように創造されたのではない。神の御前に耳が閉ざされ、目が閉ざされ、口が閉ざされ、霊的なことが全く分からない、あなたの姿は、本来のあなたではない。
 私たちにとって、イエスさまのため息は、慰めです。イエスさまのため息は、私たちの現状の苦しみを知り、あるべき姿を知り、そして私たちの苦悩を知っているため息。主の嘆きのため息によって、私たちは救われる。

3)そして、おっしゃったのです。
 「エパタ」――「さあ、開かれなさい」
  ため息と共に、息を吹き込むようにおっしゃいました。「さあ、開かれなさい。神の愛に向かって」
 ローマに行きますと、コロッセオがあります。ローマ時代の円形競技場。80のゲートがあり、少なくとも8万人は収容可能であったと言われます。そこで繰り広げたれていたのは、いわゆる「グラディエーター」による、本当の剣を手にする戦士の殺し合いです。いのちをかけたスポーツにローマ市民が熱狂するのです。その歴史はなんと、紀元80年から397年まで、約300年間続きます。
  この残忍なスポーツに終止符を打ったのが、テレマクスというクリスチャンでした。彼は毎週のように繰り広げられる殺し合いに心を痛め、皇帝がクリスチャンになり、ローマ市民の多くがクリスチャンになっても、未だに殺し合いに熱狂する様子に心を痛め、ある日、自らコロッセオに足を運び、戦士たちが剣を抜いた瞬間、彼は競技場の中に走り込んで、十字架を掲げて、殺し合いの中止を訴えます。
 戦士たちは、呆然として、剣を収めます。しかし、楽しみにしていた観客は収まりがつきません。彼らはフィールドになだれ込んで、テレマクスを殴り殺しにします。観客の中にいた皇帝ホノリウスは、席を立って帰って行きます。他の観客たちも、同じように思い気持ちを抱いて帰って行きます。
 そしてテレマクスの犠牲によって、皇帝の耳は開かれ、口もほぐされ、「グラディエーター禁止令」を出すのです。300年にもわたる血なまぐさい戦いは終わりを告げました。
 私たちの耳を最終的に開いて下さるエパタは、十字架です。私たちがどんなに罪深いか、しかしどんなに神によって愛されているか、神が招いていて下さるか、その心を開いて下さる、エパタは十字架なのです。