題      名: アドベント2 ザカリヤの賛歌
氏      名: fujimoto
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作成日時: 2005.12.16 - 00:29
アドベント2 ザカリヤの賛歌       2005.12.4
        ルカ1:67ー79

 今年のアドベント第一週は、ザカリヤで始まりました。ルカの福音書では、まさにこのザカリヤでクリスマスの出来事が、福音書全体が始まります。彼が神殿に入って祭司の仕事を忠実に務めていたとき、神の使いが現れわれていいました。「わたしは、あなたの願いを聞いた」
 自分も忘れ、あきらめ、周囲は全く関心も寄せない願いを私たちは、だれもがもっているものです。山も海も川も、だれも受け取ってくれない願いを、神は受けとってくださる、というのです。神は、ザカリヤのように真実に生きる人物にあらわれてくださいました。しかし、神の奇跡を前にして彼に期待されていたのは、真実や忠実さ以上に、信仰であった、という話を先週いたしました。
 そして、アドベント第二週の今朝、やがてザカリヤとエリサベツに子どもが与えられ、その子をヨハネと名付けた後、彼が歌った賛美から、いっしょに学びたいと願っています。
 67節の最初の言葉は「ほめたたえよ」です。ラテン語で、ベネディクトス。マリヤの賛歌は(45)、最初の言葉が「主をあがめ」です。これはマグニフィカートとして、知られています。
 さて、ザカリヤはこの歌の中で、どのようなことを賛美しているのでしょうか。どのようなことの故に、神をほめたたえているのでしょうか。3点見ていきたいと思います。

1)それはまず、神の訪れです。
ザカリヤの賛美の中に、神の訪れが2回歌われています。68「民を顧み」・・・新共同訳では「訪れ」。78「われらを訪れ」。68、78も同じ動詞ですから、同じ訪れとした方がいいのでしょう。しかし、顧みという訳も間違いではありません。なぜなら、ギリシャ語の動詞は、エピスコポー。エピというのは、強調語・・・じーっとという意味で、スコポーというのは、ここから英語のスコープという言葉がでてくるように、見るという意味。じーっと見る。単純に見渡すとか、ちらっと見るという意味ではなくて、ようく見てくる・・・それが訪れるという言葉です。
 エピスコポスというのは、キリスト教の世界ではよく耳にする言葉。新約聖書の教会では、牧師のことが監督と呼ばれているところがあります。やがて、牧師の牧師となる司教に、このエピスコポスという言葉が使われるようになります。監督者、それは全体をようく見渡して、状況を把握して顧みる、という意味です。
 Tペテロ2:25「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり、監督者である方のもとに返ったのです」。監督者には、軍隊的なイメージはありません。それは、徹底して、羊飼いのイメージです。迷える者を探し、痛める者を慰め、傷ついた者をいやし、弱っている者に力を注ぎ。主は、そのようにして、私たちのたましいを訪れてくださいます。平安と祝福を携えて、訪れてくださいます。それが、何よりも感謝なのです。

2)次にザカリヤが神を賛美しているのは、神が覚えておられたからです。73節「われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて……」。
 旧約聖書のマラキで神が最後にイスラエルに語られてか、なんと400年、神の言葉はありませんでした。400年前の、旧約聖書最後の言葉をごらんください。マラキ4:5−6「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、この心をその父に向けさせる。」
  これは、イスラエルの民すべてが知っている言葉でした。そして、それから400年、全くそれが実現しないことも、彼らはよく知っていました。そして、ある日、ザカリヤが神殿で勤めを果たしているとき、天使ガブリエルが言った言葉は、まさにこの旧約聖書最後の言葉が実現されるときが来た、というのです。(ルカ1:17)主は覚えておられました。待ちこがれた人びとには、そうは思えない4百年でした。
 1952年7月4日の霧深い朝、フローレンス・チャドウィックという若き女性が、太平洋のカリフォルニア州に近いカタリナ島からサンディエゴまでの遠泳に挑戦しました。彼女は、英仏のドーバー海峡の初遠泳を成し遂げた女性です。その日の海水の温度は低く、サポートするボートが見えないほどの霧が海面に立ちこめていました。そばにうろつく鮫を、ライフルで追い払うことも何度かあり、15時間泳いで、彼女は断念します。
  トレーナーは、ボートから彼女を励まします。岸はすぐそこでした。しかし、霧があまりにも濃くて、果てしなく続く冷たい海に気持ちがやられて、彼女はあきらめます。岸までは、わずか1.5キロの所でした。後に彼女は言います。「言い訳するつもりはないけど、もし陸地が見えたら、泳ぎ切れたと思います」・・・彼女は濃い霧にやられたのです。
 それが、マラキの最後の言葉から4百年が経過したザカリヤの時代でした。その間、民はさまざまな帝国の植民地となり、二度と立ち上がれないほど痛めつけられてきたのです。しかし、神はその民を忘れず、覚えておられました。ザカリヤは、イスラエルの民の、そして私たちの象徴として、ルカの福音書は描いているのです。長く心に秘めた願いも、あまり変わらない日常も、苦労も苦悩も、それは私たちの人生と同じ世界なのです。しかし、神は彼とエリサベツを覚えておられ、二人のもとを訪れてくださいました。
  そこから彼は悟るのです。神は、イスラエルの民を覚えておられる、顧みてくださる、訪れてくださる、と。子どもがいなかったという普通の夫婦の間になされた奇跡が、これから人類に及ぶ神の恵みの予兆であると、ザカリヤは理解して、神を賛美するのです。私たちを覚えておられる神は、「イスラエルの民」を覚えておられると。それは、私たちを覚えていてくださることなのです。

3)ザカリヤの賛美の三番目の要素は、神が「贖ってくださる」ということです。
 贖うというのは、聖書特有の表現です。もともとは、奴隷に売られた人が、代価を払ってもらって、買い戻されることを意味します。イスラエルの民は、よその国の奴隷のように売られた顛末をたどっていきました。その彼らを、神は買い戻してくださる、それが「救い出してくださる」と74節では表現されています。
 やがて、ザカリヤも私たちも知るようになります。私たちが売られていったのは、よその国ではない。私たちは、罪の世界に売られていったのだと。ですから、罪の奴隷となり、この世の悪の言うままになり、神さまから離れ、もう二度と、神さまの所に戻ることができないと、あきらめてきたのです。 詩篇47:7−8「人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身のしろ金を神に払うことはできない。――たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない――」。
 しかし、そのたましいを、この詩篇にはなんと書いてありますでしょうか。15節「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるから。」イエスさまは、やがておっしゃいます。「わたしが、その代価だ」と。「わたしのいのちが、あなたのための贖いの代価だ」とおっしゃったのです。
 ザカリヤは、それを見ていました。ザカリヤは自分に起こった一つの出来事から、神の深いあわれみを、それも自分にだけ注がれず、神を恐れる民すべてに注がれることを、見たのです。深い霧の果てに、神の救いがあることを見たのです。
 今年、私の身の上に起こった一つの出来事を深く思いめぐらすことによって、私たちもザカリヤのように、主のさらに深いあわれみ、この世界に対する深いあわれみを見ることができますように。