題      名: アドベント3 わたしを迎えなさい
氏      名: fujimoto
ホーム: http://www.tkchurch.com
作成日時: 2005.12.16 - 00:30
アドベント3 わたしを迎えなさい
  黙示録3:14−22

 クリスマスが近づくにつれ、なんだか忙しい、せわしない。お父さんは、年末のいろいろなことでいつも頭を抱えています。お母さんは、クリスマス、クリスマスと、パーティの準備や買い出しやプレゼントのことで頭がいっぱいです。小さな女の子は、なんとなく両親に近づいてはいけないという雰囲気の中で、孤独にクリスマスの週を過ごしていました。何か話しかけようとすると、お父さんも、お母さんも言うのです。「ちょっと後にして」「良い子だから、邪魔しないでね」
 クリスマスに向けて殺気立っていく雰囲気。牧師の家庭はそんな感じですね。女の子は、ある晩、ベットの所にひざまずいて祈りました。
 「天にまします我らの父よ。御名をあがめさせたまえ。我らにクリスマスするものを我らが赦すごとく、我らのクリスマスをも赦したまえ。」
 なんか分からないわけではない。それほど、師走の忙しさの中に、あるいはクリスマスの雰囲気の中に何かを失っているような気がするのは、私だけではないと思います。 
 アドベントに入りまして、水曜日の夜の祈祷会では、毎回数名の兄弟姉妹に、心に残ったクリスマスと題して、思い出話を語ってもらうことにしました。初めてのクリスマス、いま思い出しても心温まるクリスマス、今年のクリスマスがまた、心温まるものでありますように。
 数年前に淀川長治さんという映画評論家が亡くなりました。実は彼は、十数年にわたって、キリスト新聞に映画の評論を連載していたことがあるんです。淀川さんと言えば、映画評論家としては最もキャリアの長い人でした。平均して一日4本の映画を見てきたそうですが、キリスト新聞に残した、最近の映画傾向の批評は、「神のメッセージを語る映画が極端に減ってきている。その分、映画の味わいも減ってきている。」というものでした。
 日常の何でもないテーマを扱いながらも、そこに聖書に見られるような愛や正義を描いている映画がたくさんある。人の生き様から、神さまのメッセージを受け取る。人生模様が、聖書のテーマに基づいている。そういう映画って、私たちが想像しているよりもはるかに多いのです。しかし、淀川さん曰く、最近、そういう映画がめっきり減った、と。
 そういう観点から見ていったときに、文芸評論家はどう考えるのでしょうか。日本文学界にキリスト教が大きく影響を及ぼした時期がありました。芥川と聖書、夏目漱石とキリスト教、太宰治とキリスト。ちょっと前では、大江健三郎とキリスト教。直接の信仰者ではなくても、また直接に信仰を題材にしていなくても、イエスさまが人間をご覧になるような、暖かな憐れみの目をもって私たちの挫折や罪や傷を描く小説もあれば、全くそのような次元には関心を持たないものもある。そして、淀川さんがおっしゃったように、全くそうした次元を無視する傾向は、圧倒的な勢いで私たちの生活のすべてに及んでいる。
 その代表的がクリスマスなのかも知れない。そこには下手をすると、「家族」というテーマさえもない。下手をすると「贈り物」というテーマさえも薄れる。ムードを楽しむ、パーティ、騒ぐ、買う、食べる――そのものが強調されて、イエスさまの誕生日という本質的なことだけでなくて、そこにある暖かな聖書的なテーマさえも、陰を薄くしていきます。
 聖書に、「みことばを聞くことの飢饉」というのがあります。みことばが見つからない。神のメッセージを求めて、海から海へとさまよい、北から東へと。しかし、得られない、というのです。他のものはたくさんある。パンも水も豊かにある。しかし、神のメッセージは、いや神さまの臨在が離れ、霊的な力がないというのです。神さまが塩をひくように、この世界から存在をひいて行かれる。いや、私たちが霊的なことに無関心ですと、いつのまにか、そういう世界に神は、私たちを置き去りにされるというのが正しい表現なのでしょう。
 しかし、それは時に、この世界のことだけではありません。私たちもそれに染まっていくことがあります。そのことを、黙示録は教えているのです。

 ラオデキヤ教会は、物質的に富んでいた教会のように思えます。
 17節「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言っている」
   乏しいものは何もない、とは独特な表現です。ある意味で満ち足りているのでしょう。ラオデキヤは、ローマ帝国の商業都市でした。都市の繁栄が、教会の繁栄につながったのでしょう。物質的に必要はものは別にない、そこから来るのは、逆に霊的な貧困です。神の愛を必要ともせず、神を頼らずとも何とか生きていけるような気持ちになっていくクリスチャンの姿です。16節、神さまからお叱りを受けています。信仰がさびついていくのです。

 今週のアドベントの黙想で、明日のみことばは、ゼパニヤ3:12です。「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける」。・寄る辺のない民だけが、最終的に生き残っていくというのです。なぜなら、寄る辺のない民は、主の御名に身を避けるからです。
 主は、ラオデキヤの人々になんとおっしゃったのか。
 18節「わたしはあなたに忠告する。豊かなものとなるために。火で精錬された金をわたしから買いなさい。」――火で精錬された金とは、試練に耐えうる強さでしょう。「あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣のを買いなさい」――信仰的な純潔でしょう。「また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」――この世にあって、霊的なもの、建徳的なものを見分ける霊的な洞察力でしょう。
 19節では、それらは試練、熱心、悔い改めから生まれるというのです。しかし、私はそれだけではないように思います。試練に耐えうる強さも、信仰的な純潔も、霊的な洞察力も、大切な一つのことから与えられるのではないでしょうか。
   それが20節です。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく……」
  私たちが、この心と日常の中にイエスさまを迎えて、いっしょに食事をするなら、いっしょに交わるなら、いっしょに語り合うなら、主は教えてくださる。試練に耐えうる強さも、信仰的な純潔も、霊的な洞察力も、与えてくださるのではないでしょうか。
 わたしを招きなさい。わたしをあなたの家に、あなたの食卓に招きなさい。私が神学校の学生だった頃、同級生でガーナからの留学生がいました。留学生の数が少ない年で、同じ寮に住んで、いつもいっしょでした。彼の食事の時に祈りは、特色がありました。日本では、あまり聞いたことがありませんでした。食事を祝してください、感謝しますではないのです。毎回、毎回、「イエスさま、天から降りてきて、私たちと共に座り、私たちと共に食してください」。それは、主を招く独特な静かな祈りでした。
 招かれて共に座してくださる主は、客人とはなりません。いつの間にか、イエスさまはその場面の主役となっていおられます。カナの婚礼では、足りなくなったぶどう酒を驚く奇跡で、補充しておられる。取税人レビの家では、いっしょにいた罪人や病人や社会のはみ出しものに手を広げて、招いておられる。 「わたしが、あなたを癒す、あなたの罪を赦す」。パリサイ人の食卓では、神の国について教え、ベタニヤの家では、死んだラザロをよみがえらせ、神の栄光を現しておられます。そして最後の晩餐では、弟子たちの足を洗い、遜ることを教え、互いに愛することを教えておられます。
 主を招いた家は祝福を受けます。主が共にいてくださる食卓は、神の恵みにあふれます。主を招いて、迎えた人の心うちに、神の恵みが広がります。時に罪が赦され、時に教えられ、時に慰めを受け、時に癒され、時に強められます。だからこそ、イエスさまは、声をかけておらえれるのです。「わたしを招きなさい。わたしを迎えなさい。あなたのうちに。そしてわたしと共に食しなさい。」