題      名: イエスと共に湖の上を
氏      名: fujimoto
ホーム: http://www.tkchurch.com
作成日時: 2006.02.08 - 22:04
イエスと共に湖の上を      2006.1.22
     マタイ14:22−33

 元旦礼拝で、主と共に船出をする、と2006年を始めました。イエスさまの方から、「さあ、向こう岸に行こう」と私たちを船に乗せて船出をしたのです。イエスさまをお乗せしていても、船は必ず嵐に遭います。その時、私たちは自分の人生の基盤が揺らいでしまうほど、大きな恐れと不安におそわれるかもしれません。
  そのような中で、学ぶのです。信仰とは、イエスさまに向かって叫ぶこと。不信仰とは、「こんなになっている私たちを何とも思わないのですか」と神の愛を疑うこと。やがてイエスさまは嵐を静めてくださるのですが、そのとき「この方は、いったいどのような方なんだろう」と驚きをもってイエスさまを見つめ直した弟子たちのように、私たちもまた主を見つめ直し、そのようにして驚きと感謝と信仰のハーケンを、人生の絶壁に数多く打ち付けながら、天の御国へとまた一歩近づく、ということをお話ししました。
 今日のメッセージは、いわばその続きです。題名は、「イエスと共に湖の上を」です。そして、またしてもこの船は教会の象徴、私たちの人生の象徴です。そして、その船が、逆風のため波に悩まされ、漕ぎあぐねています。逆風に悩む弟子たちの小舟、それはこの世を歩む教会の姿を象徴しています。教会という私たちのこの舟は、決して「大船に乗ったつもりで」いられるようなものではなくて、しばしば逆風によって漕ぎ悩んでしまいます。時として沈みそうになってしまう小舟なのです。
 22節を見ますと、今回も、弟子たちを船に乗せたのはイエスさまでした。しかし、今回は主は同船しておられません。弟子たちだけで向こう岸へと向かわなければなりませんでした。マタイの福音書の最後に、イエスさまの固い約束があります。「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたと共にいます」。しかしある意味で、私たちは主イエスをこの目で見ることはできません。手で触れることもできません。主イエスが共にいて下さることは、信じるしかないことなのです。また、主イエスが私たちの日々の歩みについて、「こうせよ、ああせよ」という指示を与えてくれるわけでもありません。私たちはやはり自分で考え、自分で決断しつつ、信仰者として日々を歩んでいくのです。それが私たちの船旅です。 
 しかし、共に船におられた主は、今度は共に湖の上におられます。その事実を信仰的に捉えるために、この箇所から3つの点を追いかけるように順番に見てみましょう。

1)イエスさまはご自身を示そうとされる
 25節「イエスは湖の上を歩いて、彼らの所に行かれた」。・私たちが漕ぎあぐねて、大変な思いをしているときに、イエスさまは必ず近づいてこられます。その力が示すために、その存在を明らかにするために、近づいてこられます。救いの手を差し伸べてくださいます。
 ところがイエスさまを見た弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげたのです。なぜでしょうか?単純にそれがイエスさまがとはわからないのです。イエスさまを人間的な常識でしか捉えていませんから、まさかそのような方法で近づいてこられるとは思っていません。せっかく神が救いの手を差し伸べておられても、それが神だとわからなければ、私たちはただおびえ、頭を抱えて叫んでいるだけです。
 恐怖を覚え、あわてふためく弟子たちに、主イエスは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけて下さいます。「わたしだ」というのは、英語で言えば「I am」です。出エジプト記で、神がモーセに現れ、ご自身をお示しになった時、モーセは尋ねました。「あなたの名前は、なんとおっしゃるのですか」。その時、神さまはモーセに答えれました。「ヤーウェー」「わたしは、ある」
 それと同じです。いつも申し上げます。「あるようでいない、いないようでいる、そんなものではない。わたしはある、わたしはここにいる、わたしだ」。神さまは、そうモーセにおっしゃり、弟子たちにおっしゃり、私たちにおっしゃいます。

2)ペテロの信仰
 主イエスのみ声を聞いたペトロが、それに応答します。
 28節「主よ、もしあなたでしたら、わたしに、水の上を歩いて、ここまで来い」とお命じになってください」。ペテロは感動屋さんです。大胆なことを平気で言います。
 しかし、このペテロの言葉には深い意味があります。彼は主イエスの「わたしだ」という言葉に応答しているのです。「わたしだ」という主イエスの言葉に対して、「あなたであるなら」と言っているのです。信仰というのは、こういうものではないでしょうか。神さまがご自身を示されたことに人間が応答する、それが信仰です。あなたですね、もしあなたであるなら、どうか……もしあなたであるなら、こんな奇跡も可能です。水の上を歩いて、あなたの所に行かせてください。
 先日、神学校で学んでいる方が、こんな質問をされました。「現代人は、聖書のこういう箇所を読むと、きなくさい、と感じると思うのですが、こういう奇跡を現代人が信じるように、どうやって説明したらいいでしょうか」。イエスさまの奇跡の箇所を読むと、ますますイエスさまが遠い、神話の存在のように感じる、というのはわからないわけでありません。しかし、そんなはずはないのです。なぜなら、昔の人も今の人も同じです。老人も若い人も同じです。治りもしない病気を治してください、と願う。かないもしない恋愛をかなえてください、と祈る。奇跡の話が信じられない割には、しょっちゅう奇跡を求めているではありませんか。奇跡が変だ、奇跡が神話だ、というわりには、自分の人生ではいつも奇跡を求めているではありませんか。
 その信仰を真の神様にぶつけてみることです。その信仰のかけらを、イエスさまに差し出すべきです。主はおっしゃいます。29節「来なさい」。その祈りを受けてくださる方です。そして、ペテロは、その招きを頼りに、イエスさまの所に進んでいったのです。それが私たちです。たどたどしく、この世を歩んでいく姿と同じです。一心に主イエスを見つめ、主イエスのみ言葉に信頼して歩むことによって、ペトロは確かに水の上を歩いたのです。
 しかし、どうでしょう。次の瞬間、「風を見て、恐くなります」。風によって逆巻く波を見てしまったのです。つまり、主イエスを見つめていた目を逸らして、自分を取り巻く周囲の状況を見てしまったのです。その途端に、足下がぐらつきます。ひとたびイエスさまからから目を離し、周囲の状況、教会や自分を取り巻く逆風、困難、また自分の弱さを見てしまう時に、人間の限界が自分の限界になってしまうのです。
  水の上を歩くことなどできるわけがない、その通りになってしまうのです。ペトロは沈みそうになり、「主よ、助けてください」と叫びました。「救ってください」という意味です。この叫びもまた、信仰です。イエスさま、あなたを見失いそうになって、沈みかける私を救ってください。
 
3)主の憐れみです。
 主は、ペテロに手を伸ばして、ペテロを抱き留め、いっしょに船に上がってくださいました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」とおっしゃいます。薄い、小さな信仰しかありません。しかし、主は、「救ってください」という叫びに、手を伸ばして、抱き留めてくださるのです。強い力で捕まえてくださり、主と共に湖の上、です。
 清水恵三という日本基督教団の先生が、「手さぐり信仰入門」という本を記されています。その手探りのような信仰なんですが、ご自分の信仰をお子さんの作文を引用して、要約されているのが、大変暖かく感じて、読んだのを思い出しました。
 「きょう、わたしたちかぞくみんなで、のじりこ一しゅうをしました。すこしつかれたけど、ほんとうにたのしかったです。いろいろの木のみや、花のさいたあとのみや、いろいろなものがとれました。つかれた人はおとうさんと手をつなぎます。わたしも、つかれてつまずいたりしました。けれども、おとうさんと手をつなぐと、ふしぎにげんきがでてきます。おとうさんの手はとても大きくて、あったかいので、とてもじぶんの手があたたかくなります。」(『手さぐり信仰入門』、YMCA出版、二〇三頁)
 ペテロの信仰も私たちの信仰も手探りです。しかし、イエスさまは、そんな私たちに現れてくださいます。その御力を現すために。「しっかりしなさい、わたしだ」とおっしゃいます。私たちは、その声に応じて、「もしあなたでしたら……」と祈ります。そう祈る私たち、「来なさい」と招いてくださるのイエスさまです。そして、この目をイエスさまからそらした途端、置かれている状況に恐れを成して、沈むばかりになるのも私たちです。しかし、そんな私たちでさえ、叫び声を上げると、手を伸ばしてつかんでくださる――それが憐れみなのです。そして、この憐れみが私たちを暖かくしてくれます。手探りで伸ばした手を、しっかりつかんでくださるのです。キリストの憐れみにすがって、怖れず、湖の上を歩けるように。