題      名: イエスと出会った人びと(18)――ヤイロの娘
氏      名: fujimoto
作成日時: 2006.04.16 - 21:10
イエスと出会った人びと(18)――ヤイロの娘
マルコ5:21−43


 会堂管理者のヤイロ。当時の世界で、会堂管理という仕事は、裕福な仕事、それなりの地位と、経済力、将来の保証もあった人です。しかし、その彼が、そんなものを全部かなぐり捨てて、イエスさまの前にひざまずきます。それを全部捨ててもいいという気持ちです。娘が死にそうで、イエスさまに助けて頂きたいのです。
 私の娘が再び元気になるなら、そんなもの全部捨ててもいい。熱で息の荒い、苦しそうな娘です。私にも娘がいます。小さい頃のことを思い出します。ある日、風邪を引いて、それが長引いて、それほど熱もない、でも胸で息をして、ぐたーっとて、ほとんど何にも食べられない日がありました。何よりもメロンが好きでした。だから、季節でもないのに、溝口を回ってメロンを探してきました。でも、それも食べられませんでした。そして次の日に、肺炎と診断されて入院しました。
 あの息の荒い、苦しそうな姿は、今でも覚えています。心臓の手術を終えて、手術室からでてきたとき、体中に何本の管が入っていました。エレベーターからICUまで、数人のお医者さんが、一気に連れて入っていきました。人工呼吸器を動かしている先生もいらっしゃいました。私たち夫婦は、それを見て、呆然と立ちつくしてしまいました。
 誰にでも、ヤイロの気持ちがわかると思います。彼は、顔を地面にこすりつけて、懇願します。ヤイロは、イエスさまと交渉などいたしません。「自分が、どんなに神さまのために尽くしてきたのか」――そんなことを盾にとって、交渉しません。
 強がることもありません。ひたすら、ひざまずいて、願います。一寸先が闇です。まったくの目隠し状態で生きていて、突然、この問題に突き当たったのがヤイロです。
 さて、今日の私たちの課題は、そのように懇願しているヤイロの信仰を、イエスさまが引き上げておられる様子を見たいと思います。3カ所、聖書に目を留めてみましょう。
 
1)24節「イエスは、彼といっしょに出かけられた」
  誰かを遣わすことなく、イエスさまご自身がいっしょにいてくださるのです。しばらく前に、モーセの祈りを見ました。モーセは、担いきれない重荷を背負って苦しんでいました。率いている民が、あまりに自分勝手なのです。自分たちの都合でしか神のことが考えられないような、身勝手な民をどのように引き連れて、神様の約束の地へと導くことができるのでしょう。モーセにとって、それは絶望的な仕事でした。
 神は、モーセの重荷を理解して提案されました。
 「わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし……」
 でもそれでは、モーセは安心できません。すると神は、おっしゃいました。
 「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう」
  民の中にモーセの理解者は、一人もいません。不安だらけのモーセに、神は「わたし自身がいっしょに行ってあげよう」と神は約束されたのです。

2)36節「恐れないで、ただ信じていなさい」
 ヤイロは、足早にイエスさまをつれて、一路、自分の家に向かったのです。信仰と呼べるような信仰ではなく、ともかくイエスさまをと必死だったのです。しかし、その小さな信仰の炎が消えそうになるのが現実です。
 第一に、先週ごらんいただきました、途中でイエスさまは病気の女性に出会われます。一刻を争う中で、このタイムロスに、ヤイロはどんなに気をもんだでしょう。ようやく切り抜けたと思うと、家から伝言が届きました。2番目の現実的な障害です。今度こそ、致命的です。
 35節「お嬢さんはなくなりました。この上、先生を患わす必要はありません」。もう終わったのです。
 36節に注目してください。新改訳は、「イエスは、この話をそばで聞いて」と訳しています。口語訳聖書では、「聞き流して」となっています。訳の違いは、実に単純で、ギリシャ語が傍らで聞くとなっているのですが、ところが、傍らで聞くというのは、二つ意味があります。
   @ 文字どおり傍らで聞く――立ち聞きする
  A 傍らで聞く――気にかけない、無視する

 私は、後者の解釈の方が適切かと思います。イエスさまは、そんな悪いニュースなどにかまわず、そんなことを気にかけずに、それを無視するように、言われた「恐れないで、ただ信じていなさい」周りの声に耳をふさぐ、気にかけない、無視するかのように、恐れないで、ただ信じていなさい。
 以前にも、この話しを出したことがありますが、中学生ぐらいだったと思います。教会で、親睦会を初めてしたお正月のことです。あの頃から、吉田兄がゲーム担当でした。古い畳敷きの会堂で、私がまだ中学生のころです。いろんなゲームをした最後に、一番危険なゲームだと言われました。吉田さんと長尾さんだったか、二人ぐらい残して、みんなは全員応接間に待機する。目隠し障害物競走です。5人ずつぐらい目隠し状態で出てくる。
 ようやく私の番がやってきて、行くわけですね。目隠しされて、何にも見えないところへ。危ない、右、右、やかんがある。左、左、洗面器。そこ、そこ、画鋲(右足)、と。ゴールして、目隠しをはずすと、そこには何にもありません。みんなの声援に踊らされただけなのです。でも、あんなにスリルのあったゲームはありませんでした。
 周りの声に踊らされるのです。危ない、そこ右右、左左、画鋲が落ちている、やかんにぶつかる。私たちは、明日に対して目隠しで生きています。
 ヤイロのように、突然の出来事に恐れ惑い、そこへ様々な声が飛び込んできて、その声に踊らされて、心が騒ぎます。そばにいるイエスさまは、そんな声を気にもかけずに、ただひたすら私たちの手を握っておっしゃいます。「恐れないで、ただ信じていなさい」。

3)40節「イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいるところに入って行かれた」。
 イエスさまとヤイロは会堂司の家に到着しました。すでに、笛吹く者たちや騒いでいる群衆とありますように、葬儀の準備があわただしく始まっていた。ヤイロは泣き崩れたのではないでしょうか。道の途中で、悲しみの伝令に出会ったときとは訳が違います。既に、自分の娘の葬儀が始まっているのです。胸が締め付けられ、涙があふれ、言葉もなく、彼はやっぱりと思うのです。
 そして、先ほどのイエスさまがおっしゃった、「恐れないで、ただ信じ続けなさい」という言葉が、風に吹かれた籾殻のように、消えていくのです。暗いムードです。現実の悲観に満ちた世界です。
 その時、イエスさまは24節で、「娘は死んだのではなく、眠っているのだ」――そうおっしゃるのですが、それを聞いた人びとはあざ笑います。普通の人でしたら、誰でも同じようにあざ笑うでしょう。一般常識でしょう。誰でも、そう思います。
 つまり、ヤイロは、「恐れないで信じていない」という言葉を聞いたとき、何とか頑張って、「もうだめだ」という気持ちを抑え込んでいたのです。でも、この現実のムードです。この鳴き声、ざわめき、絶望の涙、常識の声。すべてヤイロの風前の灯火のような信仰を吹き消してしまう、現実なのです。
 このときです、イエスさまは、みなを外に出してしまわれます。追い払うように、出してしまわれたのです。外に出したのは、この奇跡が見せ物にならないためでしょう。しかし、ヤイロにとっては、さらに意味があったように思うのです。私たちの信仰が風前の灯火になるとき、それは現実の世界 に目を奪われ、耳を傾け、そうこうしているうちに、ます ます「現実的」になります。一面、そういうことも必要でしょう。しかしながら、イエスさまの恵みはそれを越えていきます。ご自身に向けられた信仰を建て上げるかのように、私たちのそばに立って、「無視しなさい。恐れないで、わたしだけを信じていなさい」と声をかけてくださいます。
 そして、再び信仰が崩れかけたとき、そういうこの世界の現実を追い払って、遮断してしまわれたのです。そうして、ヤイロは、イエスさまにかけることができたのです。イエスさまがおっしゃった、祈るときに戸を閉じて祈りなさいというのは、そういうことかもしれませんね。あなたの心を騒がせる、現実を遮断してしまいなさい。いろんな声を追い出してしまいなさい。まっすぐに聖書と向き合って、わたしに向きなさい、と。