題      名: イエスに出会った人びと(19)――ペテロ
氏      名: fujimoto
作成日時: 2006.04.16 - 21:24
イエスに出会った人びと(19)――ペテロ  
     ルカ5:1−11

 ゲネサレ湖、すなわちガリラヤ湖のほとりで、イエスさまがペテロの持ち舟にのって、湖の上から群衆に教えておられた、と場面は展開していきます。話が終わると、主はペテロに命じられました。「深みにこぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」。
 ペテロは漁師でした。その彼らが、夜通しやって、魚は捕れなかった。イエスさまは、ペテロに魅力的な表現を使って、チャレンジを与えます。深みにこぎ出せ。ペテロだけでなく、私たち皆、どこかで、人生の浅瀬でボチャボチャやって、それで満足しているようなところががあるのでしょう。英国の文学者オスカー・ワイルドは、「生きるということは、世界において稀なことだ」という有名な言葉を残しました。
 私たちも確かに生きているには違いない。しかし、果たして真のいのちをもって、本当の生き方をしているのか?さて、このイエスさまのチャレンジを受けて、イエスさまに出会うペテロに、今朝は注目したいと思います。

1)チャレンジに食いついたペテロです
 漁師たちは、イエスさまの指示をまともに取り合わなかったに違いありません。素人に何がわかるか。それが正直な気持ちでしょう。しかしここで、ペテロは言います。
 「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。でもおことばどおりに、網をおろしてみましょう」。
 正確にもとのギリシャ語を読んでいくと、この訳ではだめなんです。私たちは、夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。でもおことば通りに、(私は)網をおろしてみましょう。」夜通し働いて何一つ取れなかったのは、私たち、です。しかし、その次の「網をおろしてみましょう」の主語は一人称単数ですから、それは「私ペテロ」のことです。
 なぜペテロは、ここで、「私たち」から「私」に変えているのでしょう。誰もが網をおろしても無駄だと思っているのです。漁師の経験から言えば、日が昇った後で、魚が捕れるわけがない。みんなはだめだと判断しているけど、「私」は試してみます。そこにペテロの信仰があるのではないでしょうか。その信仰とは、イエスさまの「おことば」に対する信頼です。
  原文を見ますと、「おことばどおりに」が強調された位置に置かれています。チャレンジに食いついたと言いましたが、ペテロが食いついたのは御言葉です。ペテロがイエスさまに出会ったのはこれがはじめてではありません。4:38−39節で、イエスさまはペテロのしゅうとめの熱をいやしておられます。でも、この奇跡はペテロの信仰を大きく変えることはなかったのかもしれません。なぜなら、ペテロの反応については何一つ記されていないからです。
  しかし、ここでペテロはイエスさまが言われた言葉に信頼をして、その言葉にかけて、そして、みことばの出会うのです。ペテロがここで出会ったのはイエスさまと言うよりは、イエスさまの発するみことばの力と出会ったのです。

2)出会いは礼拝に変わる
 さて、主の「おことば」の力を目の当たりにしたペテロは、イエスさまの足下にひれ伏して、言います。「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから」。いくつか、きちんと注目しておきましょう。
 ペテロは、5節の段階で「先生」と呼んでいたのが、みことばの力に出会って、ここ8節では「主よ」と呼んでいます。イエスさまに人間以上の天来の存在を感じたのです。その上で、彼はひざまずきます。この方を神として礼拝したのです。これをもって、本当のイエスさまと出会ったと言えるでしょう。そして、その瞬間、彼は不思議にも、自分の罪深さを感じたのです。「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから」。
 ペテロも自分の罪を知らなかった訳ではないでしょう。日頃の振る舞いに、自分の言葉に思いに後ろめたさを感じたことはいくらであったはずです。でも、ペテロも私たちと同じです。たいていは言い訳をしたり、開き直ったり、無視したりして自分の罪を認めようとはしませんでした。
 以前、テレビであるペットのビデオを見ていたら、こんなシーンがありました。6歳ぐらいの、男の子がペットのネコのしっぽをつかんでいる映像なんです。ネコは逃げようとして、ギュっと走って、つかまれて、その連続です。お母さんが、「だいちゃん、いい加減にネコのしっぽ引っ張るのやめなさい。」「お母さん。ぼくじゃないよ。引っ張ってるのは、こいつだよ。ぼくは、つかんでいるだけだよ。」
 ペテロも私たちと同じでしょう。たいていは言い訳をしたり、開き直ったり、無視したりして自分の醜い姿は認めないもんです。そんな彼の前に、弁解をいっさい封じてしまう神聖な神の存在が、この大漁の現実を通して現れたのです。イエスさまの中心に触れたのでしょう。ペテロはありのままの自分、神の御前に汚れた罪深 いありのままの自分を認めて、ひれ伏したのです。出会いは、礼拝に変わりました。

3)礼拝を受けてくださるイエス
  そして、ここが私たちが注目しなければならないところです。なんと圧倒的に神々しいイエスさまは、ペテロの礼拝を受け取られ、そしてペテロを用いられます。10節「こわがらなくても良い。これから後、あなたは人間を取るようになるのです」
  自分の罪深さを感じて、ひれ伏すペテロに対して、主はこわがることはない」と語ってくださいます。それは紛れもなく、私たちのような者の礼拝を神は受け取ってくださるということです。これもイエスさまの言葉です。
 仰天するほどの奇跡を起こし、私たちが自分の罪深さに恐ろしさを感じるほどのイエスさまの言葉が、 今度は、暖かくペテロを迎えているのです。それは、福音書の他の箇所でおっしゃったイエスさまの言葉と同じです。
  「子よ。安心しなさい。あなたの罪は赦されました」
 「恐れることはない。わたしもあなたを罪に定めない」
 ペテロの礼拝は受け入れられただけでなく、わたしに従ってきなさい、と、彼は神の国に迎え入れられたのです。カトリック教会は、教会はペテロに始まる、というではないですか。それはやがて、このペテロが、イエスさまに対して、「あなたこそキリストです」と告白したときに、イエスさまがペテロに「わたしはあなたに天の鍵を与える」とおっしゃたからです。私は、そういうカトリックの解釈に必ずしも参堂するものではありませんが、しかし、この聖書の箇所を見ていますと、まさに教会はペテロに始まると言っても、過言ではないでしょう。
 私たちとイエスさまとの出会いは、この場面と同じなのです。先生と、イエスさまに憧れ、そしていつの間にか、他の人びとから一歩抜け出して、私は、主よ、あなたの御言葉を信じます、みことばにかけます、と信仰を寄せるのです。やがて、みことばの力に仰天して、「先生」が「主よ」になり、そしてイエスさまの中心に触れて、自らの罪深さを深く捉え、思わず言います。「私は、罪深いものです。主よ。私のようなものから離れてください」と。すると、イエスさまは、「恐れることはない。私はあなたを受け入れた。私の言葉はあなたの罪を赦す。さあ、私についてきなさい」。私たちもまた、ペテロと同じように主に出会ったのです。今日も出会っているのです。