題      名: 救いの衣に被われて(聖餐式)
氏      名: fujimoto
作成日時: 2006.04.16 - 22:22
救いの衣に被われて(聖餐式)
 イザヤ61:1−11

 衣を着せる、衣で被う、そして、10節にありますように「救いの衣を着せる」とは、聖書の独特な表現です。年会期間中に、折井姉の東大での博士号の学位授与式がありまして、残念ながらいくことができませんでした。ぜひ、行きたいと願っていました。そのことを最初に伺いましたときに、私の第一の反応は、「ねえ、善果ちゃん、何着るの?」やっぱり、私はそこに関心が行きます。ガウン? 袴? 着物?
 ちょうど同じ時期に、ボリビアの三森先生のご子息が千葉大での博士号の学位授与式があって、話を聞かせていただきました。いかがでしたか?留学生の女性が、振り袖姿で学位を受けていたのが印象的だった、とおっしゃっていました。留学先の伝統衣装を着て、卒業していく、というところに晴れ晴れとした思いを込めたのでしょう。
 英語では、卒業式のことをコメンスメント、すなわち社会人としての開始の式とでもいいましょうか、そこでガウンを着て、式に臨み、そして卒業していくといきます。学校行事の中で、もっとも華やかな瞬間です。その時、何を着るかというのは小さなことではないのです。結婚式の衣装もそうですが、そこに私たちはこだわるのです。
 いや、昔の世界では、何を着るか以上に、何を着せてもらうか、というのが意義深いのでしょう。そして、聖書は、10節で「主が、わたしに、救いの衣を着せ……」としるしているのです。

1)ここにある「わたし」とは、だれでしょう。
 3節の「シオンの悲しむ者」のひとりです。「灰をかぶって」悲しみ、悔いている者のひとりなのです。罪深く、挫折し、不安でいっぱいな、弱い私なのです。イエスラエルのために語られている言葉ですが、彼らは長い罪の歴史の故に、とうとうバビロンに奴隷として売られていきます。家を失い、故郷は異国に支配され、奴隷として70年バビロンで過ごした彼に、残されたのは恥と敗北以外のなにものでもありません。
 「シオンの」とあるように、かつて輝かしい神の栄光を背負っていた者たちです。しかし、今や悲しむ者です。1節には、貧しい者がいます。心の傷ついた者がいます、捕らわれている者がいます。「わたし」もその一人に数えられているのです。自分一人悲しんでいるのではありません。それがまた、メッセージの先で大きな意味を持っていますが、そのことを今は心に留めていてください。私の回りには、悲しむ者でいっぱいです。心の傷ついた者でいっぱいなのです。

2)第二に、主は、そんな私に救いの衣を着せてくださいます。人類が一番最初に衣を着たのは、いつだったのでしょうか。エデンの園で、アダムとエバは裸でした。一番最初の衣は、どこに出てくるのでしょうか。
 アダムとエバが、サタンの誘惑に落ちて、罪を犯したとき、彼らがいちばん最初に気がついたことは、自分達が裸であったことです。それまでも、二人とも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思いませんでした。しかし、罪を犯したとき、第一の反応は、恥です。あるがままの自分が見られるのを恥ずかしく思ったということ。急いで、イチジクの葉をつづり合わせて、腰を被うものをつくります。
  しかし、罪を犯し、恥を感じた彼らが避けなければならなかったのは、互いの視線だけではありません。そこには、神様の視線もありました。創世記3:8ー10。かつては、そよ風の吹く頃、園の中を歩き回る神の声を聞いたとき、アダムもエバも、嬉しく、平安を楽しんだのです。しかしいまは、その声に恐れを感じた。これが、罪ある私たちの姿。肉体的に裸になれない。霊的に裸になれない、ありのままの姿で神様の前にでられない。そういう恥があるのです。
 それから先、創世記の箇所を読みますと、罪を犯したアダムとエバが、その罪の代償として苦労を背負うこと、悲しみを背負うことがしるされています。しかし、裁きをくだされた神は、憐れみをもくださいます。それが、人類の初めての衣ではないでしょうか。聖書に記されている限りではそうです。アダムとエバは自分たちの裸を覆うために、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰を覆った。(7節)裸で恥を感じている人に対して、「衣を作って、着せてくださる」のが神です。
 これから先、旧約聖書の歴史の中で、この「罪と裸と恥」というテーマは繰りかえし登場します。旧約聖書のゼカリヤ書。大祭司ヨシュアが、民の罪を背負って主の前に立っている。サタンは、彼の汚れた服を見て責める。神さまは、彼にいわれた。「見よ。私は、あなたの不義を除いた、あなたに礼服を着せよう」
 最後にどこに行き着くのでしょうか。イエス・キリストの十字架。キリストは、茨の冠を頭にのせられ、裸で十字架にかかり、人々はキリストをながめ、さげすんで見ている。主は、私たちのために、究極的な恥を体験された。そして、ご自身の死をもって、私たちの恥を、私たちの罪を、覆ってくださる。ガラテヤ3:27によれば、それが、私たちは「キリストの義をまとい」と言われています。私たちは、キリストの義の衣を着せていただくのです。
 聖餐の恵みは、まさに主がご自身の救いの衣で、私たちを被ってくださるということです。風格、中身はぼろです、しかしこの救いのガウンをまとって、この世を生き、やがて天国の門をくぐるのです。

3)第三に、キリストの救いの衣を着せていただいた私たちは、胸を張るのです。
 10節「花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ」。花婿のように……、花嫁のように……、です。
 以前、ある牧師先生の結婚式に出席しましたときに、入場するときも、退場するときも、その先生は、なんかこう、教会に皆さんを迎えるように、腰を低くして、すいません、お忙しい中よくいらっしゃいましたとばかり、お辞儀をしておられました。私は祝辞を述べたときに、思わず、そのことに触れてしまいました。牧師稼業が板に付いているというか、あんな腰の低い花婿は見たことがありませんでした。
 花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるのです。世界で一番貴い存在、世界で一番注目を浴びるべき存在、世界で一番美しい存在として、あなたは立っています。悲しみに包まれた者の中にあって、救いの喜びと賛美があなたを包むのです。
 3節をもう一度見てください。「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりにあたまの飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を」着せてくださるのです。そんな私たちは、なんとしるされているでしょう。
 「義の樫の木」です。いったい、どのようなイメージなのでしょうか。聖書の中に、レバノンの杉が出てきます、多くの実を結ぶオリーブの木があります。しかし、ここでは、太い、がっしりした、丈夫な樫の木です。何百年と樹齢を重ねる木です。昔から、気の歯車や、農耕具の柄に使われてきた、なんといっても生活の中心にある、堅い木です。
 キリストの救いの衣を着せてもらった私たちは、樫の木のように胸を張ります。灰の代わりに頭の飾りを。悲しみの代わりに喜びの油を。憂いの心の代わりに賛美の外套を、与えられたのです。風雪にさらされ、人生の嵐にもまれ、季節をめぐり、年を重ね、それでも私たちは、義の樫の木として、堂々と主の栄光を現していきたいと思います。救いの衣を着せてもらったのですから。