題      名: イースター「喜びなさい」
氏      名: fujimoto
作成日時: 2006.04.16 - 23:41
06 イースター「喜びなさい」
   マタイ28:1−10

 復活の出来事は、「朝早い」出来事でした。1節に、「週の初めの日の明け方」と、始まります。女たちは、マルコの福音書を見ますと、「ちょうど日が昇りかけたとき」、その時間に墓に着いているのです。ということは、暗い闇の中をここまで歩いてきたのでしょう。
 この、閉じこめられたような暗闇、それが金曜日から続いていました。金曜日の夜、娘がメルギブソン監督の映画「パッション」を見ていましたので、あらためて、その場面をしばらく見ていました。イエスが捕らえられた夜、彼らは兵士に取り囲まれます。ぱちぱちというたいまつの音、ユダの裏切り、逃げまどう弟子たち。イエスさまを裁判にかけるために、大祭司の家に騒がしく人が出入りします。金曜日の朝には、「十字架につけろ」という怒涛のような叫びがエルサレムの広場にこだましました。やがて、いばらの冠を頭にねじ込まれ、背中を血に染めた主が、十字架を背負い、引き回され、人々の罵声が町中にひびきました。背中をむち打たれ、血を流しているイエスさまは、途中なども倒れて、クレネ人シモンが代わりに十字架を背負います。そしてゴルゴダの丘から響いてくる、不気味なくぎを打つ音、はりつけになった者の悲鳴、ざわめき。やがて、天が暗くなり、イエスさまが息絶えます。そのことが、金曜日、土曜日と、頭から離れません。それがまさに、彼らの、そして私たちの「夜」「暗闇」なのです。
 重苦しい情景は、「朝早く、まだ暗いうちに」ということだけではありません。28:1「墓を見に来た」とマタイは記します。この「見る」という言葉は、「じっと見つめる」というような、強い言葉です。彼らは、「墓を見つめるために行った」と言われているのです。この二人のマリヤは、27:61「そこにはマグダラのマリヤと他のマリヤとが墓の方を向いて座っていた」とあります。イエスさまの遺体の埋葬の場面です。ここでも、墓をじっと見ている二人です。
 他の福音書を見ますと、二人は墓に赴き、死体に香料を塗ろうとしていた、記されています。それは、イエスさまの思い出を追憶し、イエスさまの墓を大事にするということなのでしょう。しかし、それもまたそれ以上のことではありません。
 要は、十字架の主イエスの生涯も、また私たちの生涯も、墓で終わるのです。その墓がやってきたとき、人はそれをただ見つめるだけのものなのです。
 しかし、ただならぬ朝がやってきました。夜明けです。暗闇にまばゆい光が、強烈に差し込んできます。2−3節/大きな自信に、天使のいなずまのような輝きに番兵は恐れをなして逃げていきます。御使いは、二人のマリヤに言いました。5−6節/「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
 女たちの心には、まだ暗闇が混じっていたでしょう。恐れと驚きと疑いと。ともかく走ります。弟子たちに、事の次第を知らせに。8節「彼女たちは、恐ろしくあったが大喜びで……」
 そこへ、イエスさまが現れておっしゃいました。9節、「するとイエスが彼女たちに出会って、『おはよう』と言われた。」「おはよう」と訳されている言葉は、言葉の意味としては「喜べ」ということです。その言葉が、通常の挨拶の言葉として用いられていました。それゆえに、今は朝ですから「おはよう」と訳したのです。
 実は、この言葉、主を裏切ったユダも使っています。26:49で、ユダは大祭司の役人を引き連れて、暗がりの中で、これがイエスだというサインを送って、イエスさまを捕まえる合図を出します。「それで、彼はイエスに近づき、『先生。お元気で』と言って、口づけした』。新共同訳聖書では、「先生、こんばんは」です。お元気で、こんばんは、が、同じ「喜べ」という言葉なのです。夜であれば、「こんばんは」となります
 あるいは、27:29をご覧ください。総督の兵士たちが主イエスを王に見立ててその前にひざまづき、「ユダヤ人の王さま、ばんざい」と言って侮辱しています。この「万歳」と訳されているのも「喜べ」という言葉です。
 私が申し上げたいことはこういうことなのです。私たち人間は、「喜べ」と言いつつ相手を裏切ります。万歳といって、相手を侮辱します。しかし、イエスさまはそうではありません。おはようという挨拶の元になる、「喜べ」というもともとの意味がここでは生きているのです。復活された主イエスが、私たちに出会って、「喜びなさい」と語り掛けて下さいます。
 そして、弟子たちのことを、10節にありますように「わたしの兄弟たち」と呼んでおられるのです。・主イエスを裏切り、信仰において挫折し、とうてい弟子と呼ばれることなどできない者です。そういう私たちに、主は「わたしの兄弟」と呼びかけてくださいます。私たちの罪を十字架に背負い、私たちの病をご自身の傷によっていやされる方は、私たちに真実に「よろこびなさい」と声をかけてくださるのです。
 私たちが「喜べ」という喜びは、根拠もなく、罪に染まった喜びです。しかし、イエスさまが喜べとおっしゃるとき、そこには根拠があるのです。わたしは十字架で、あなたの罪を担った。わたしは、墓ばかりを見つめて生きるあなたに、死の力から逃げることのできないあなたに代わって、死の  力を打ち破った。わたしの十字架と復活、それがあなたが喜ぶ根拠だ。
 確かにそうではないですか。私たちの人生は二人のマリヤと同じ、悲しみに取り囲まれ、墓に向かって歩んでいるのです。しかし、イエスさまはそこに立ちはだかる。9節にあるように、イエスさまの方で出会ってくださり、ご自身の十字架と復活を根拠に招いてくださるのです。

 今日、午後のイースターコンサートにバイオリニストのジョン・チャヌさんをお迎えしているので、19世紀の有名なバイオリニスト、パガニーニにまつわる話を引用して終わりにします。パガニーニは、天才と呼ばれました。ピアニストのリストは、少年の頃、パガニーニの演奏を聴いて、「私は、ピアノのパガニーニになるんだ」とその道を目指したと言います。
 「パガニーニと弦一本」ある日、彼は満堂の会衆の前で、オーケストラを背景に、バイオリン協奏曲を弾いていた。突然、一本の弦が、ピンと音をたてて切れて、バイオリンから惨めに、だらりと垂れてしまった。一瞬赤くなった彼の額から、汗がほとばしり出ます。眉をひそめて、でもすぐに気を取りなおして、残りの弦を駆使して、演奏を続けます。
  ところが、もう一本、弦がはじけて飛んでしまった。しばらくすると、もう一本。それでも、天才パガニーニは、残った一本の弦で、実に美しく協奏曲を弾き終えました。終わると、観客は総立ちになって、「ブラボー、ブラボー」
 彼は、総立ちになる観客を抑えて、座らせました。観客としては、まさかアンコールは聞けないだろうと思いながらも、座わります。パガニーニは、弦が3本切れてしまったバイオリンを高くかかげて、アンコールをするからと、指揮者に合図をしました。その時、指揮者は、観客の方を振り向いて、微笑みながら、「パガニーニと弦一本」と叫んだ、そうです。
 パガニーニは、一本の弦しか残っていないストラディヴリをしっかりと顎の下に留めると、最後の曲を、見事に、一本の弦で、かくも美しく、と思わせるほどに弾いたというのです。
 私たちは誰でも、切れてしまった方の弦が非常に気にかかる。切れて、惨めに垂れ下がって、どうしようもないような弦が気にかかって、喜べないのです。切れて、どうしようもない弦、思い通りに行かない弦、人生、喜べない根拠は、いくらでもあります。仕事のことも家族のことも、健康のことも将来のことも――喜べない根拠はいくらでもあります。
 そんな私たちに主は出会って、おっしゃいます。「喜びなさい。わたしの兄弟姉妹」。あなたの罪は赦されます。墓を見つめるあなたの人生は、光に照らされます。どんな絶望もあなたを終わらせることはない。わたしがあなたを復活させます、そう主はおっしゃる。
 この弦こそが、最大の最強の弦です。これをもって、私たちはこの傷んだ生涯から、神の栄光の調べを弾くことができるのです。