題      名: 十戒(7)殺してはならない
氏      名: fujimoto
作成日時: 2006.09.29 - 09:00
十戒(7)殺してはならない

 南カルフォルニア地裁の裁判官であったアレックス・サンダーズが自分の娘にまつわる、興味深い話をしています。それはまだ、娘が3才ぐらいの頃。ある日裁判から帰ってくると、娘が大泣きしているではありませんか。飼っていたカメが死んだのです。お母さんは、一日かかってなぐさめて、できることはすべてしたのですが、その悲しみは癒されません。ご主人に言いました。「あなたの番だから」
 サンダーズは、ない知恵を絞って、3才の娘に言います。カメは死んだんだから、すべての生き物はやがて死ぬんだから……。泣きやまない娘に言いました。「じゃあ、お葬式をしようね」。ところが、葬式なんてわかりません。
 「いいかい。お葬式ってね、お誕生日みたいなもんなんだよ。お友達を呼んでね、ケーキを作って、カメさんが天国に行けるように、みんなでバイバイするの」。わかった。じゃあ、お友達といっしょにケーキね!
  娘の顔が輝きました。
 と思ったら、カメの首がくーっと伸びてきたのです。何かの拍子で気を失っていたのか、ともかくカメは立派に生き返ってしまいました。のっそ、のっそと歩いているではありませんか。
 それを見た娘は、微妙な顔をして、お父さんのところに来て、耳元でささやきました。「お父さん、このカメ、殺さないとだめだね」

 笑い話のような実話ですが、上手に問題を捕らえています。私たちはいのちを尊ぶのです。大事にするのです。しかし、それがいったん、邪魔になると、そのいのちを疎ましく思います。「殺してはならない」という、この明快な、おそらく十戒の中で一番明快な、誰にでもわかりそうな、この戒めを、人間の歴史はことごとく破ってきました。
 弟アベルがいなければ、自分の人生はどんなに楽なことか、と思ったカインは、その手で弟を殺害します。人類最初の殺人です。バテシェバとの罪をごまかすことができないとわかったダビデは、自分の罪を隠蔽するために、バテシェバの夫ウリヤを戦場の最前線に送り出して、殺します。邪魔者を消すのです。
  だれもが命の尊さを感じているのでしょう。どんな文化も殺人を禁じます。しかし、そのいのちが邪魔になると、それを殺してしまう人の罪深さです。そして、殺人の罪深さは、独特です。それは失われたいのちは、二度と元に戻らないからです。何を持ってしても、償うことができないからです。失われたいのちを取り戻すことはできません。そして、その悲しみ、その痛みは、何を持ってしても消し去ることも償うこともできないのです。いのちの重さ故でしょう。21:12に、殺人には、死刑が言い渡されたいるのは。

1)現代社会で、「なんじ、殺すなかれ」がどう適用されていくかは、複雑です。
 殺人は、ストレートな問題です。しかし、安楽死や尊厳死があります。医者はどこまでも、いのちを救うことを使命としています。医学の基本と言われる、ヒポクラテスの誓いの文。「私は、私の能力と判断に従って、病人を助けるために治療を行います。決して人を殺害することはありません。また、私は頼まれても(人を殺害するための)毒を与えたり、その方法を示したりもしません」。  しかし、本来、神が天に召そうとされている人の命を、医療が無理に地上に留めることが、神の御心なのでしょうか。クリスチャンでも考えさせられる問題です。
 自殺があります。人を殺すだけでなく、自死、自分の命を絶ってしまうというのが、果たしてどうなのでしょうか。もちろん、心の病によって、通常の精神状態ではないという場合もあるでしょう。しかし、年間3万5千の人びとが自分のいのちを立ってしまうこの社会で、「なんじ、殺すなかれ」は重たい戒めなのです。
 戦争の問題があるでしょう。イスラエルとヒズボラの戦闘を見ていると、市民が巻き込まれる残酷な様子。町が壊滅状態に陥る様子、自分を守るため、国を守るために、と軍隊がどれほど戦闘的になるのか、よくわかります。わかればわかるほど、日本の総理大臣が代わって、憲法が変えられていくことが恐怖でもあります。
 中絶の問題があるでしょう。マザーテレサが日本に来たとき、彼女は長崎の平和記念館を訪れました。唯一の被爆国の日本に来られて、多くのいのちの犠牲を見たマザーに、日本の新聞記者が尋ねます。もちろん、世界平和を訴えるマザーです。しかし、マザーテレサは、最後に尋ねました。これほど世界平和に敏感な日本が、なぜ中絶大国と呼ばれるのですか。同じいのちが失われていくのに、マスコミは同じように取り上げないのですか、と。マザーは、何万という捨てられていくいのちを、救い出して、里親を捜した人物です。命の尊さを、世界平和だけでなく、あらゆる側面から強調した人物です。

2)人の命を奪う出来事が、あまりにも世界にはびこり、もう慢性的にはびこり、いのちの問題が、これほどまでに複雑化しているが故に、私たちは根本的な問題に目を向けなければならないのです。
 それは、なぜ、人を殺してはいけないのか、ということです。それは、詩編139:13−16。私たちのいのちは、その一つ一つが、一人一人が、神によって造られ、大事にされ、知られ、愛され、尊ばれているからです。

 ある青年が、海岸を散歩していました。しばらく先を、誰かが同じように散歩しているのです。その人は、時折、砂浜に屈んで、何かを拾って、それを海になげています。青年は少し歩く速度を速めて、近づきました。散歩をしていたのは老人です。もっと近づきました。彼が時折屈んで拾っているのは、ヒトデです。波に打ち上げられたヒトデ、そのまま砂浜に置き去りにされると死んでしまうわけでしょう。そんなヒトデ、無数にあるではないですか。
  青年は思わず老人に尋ねました。そんなことをして、無駄じゃないですか?どうせまた打ち上げられるんだし、だって、もう無数にいるじゃないですか?老人は、また一つ、拾って、それを手のひらに載せて言いました。
    「あんたには、無駄なことだろうな。
  でも、こいつは、このヒトデは、感謝しているんじゃないかな」
 そういうと、老人はヒトデを海に投げました。
 何の意味もないであろうヒトデ一匹の価値を一人の人が見るとしたら、少しは意味があると思う私たちの人生を神がどれほど尊く見積もっておられるのか。
 それがひしと伝わってるのが聖書のメッセージです。私たちでさえ、自分のいのちの尊さがわからなくなるときがあります。しかし、神はそんな私たちにおっしゃいます。「わたしはあなたを造った。まだそのいのちがこの世界に生まれ出る前から。わたしはあなたを大切にしている。わたしはあなたを生かす。尊ぶ。
 いや、それだけではないでしょう。ヨハネ3:16「神は、私たち一人一人を愛しておられる。神は、一人として滅びることを願わず、私たちが生きるために、御子イエス・キリストを死に渡されたのです。」いのちの尊さは、この神の愛によって決められているのです。神を神とする、それが十戒の中心にあると申し上げてきました。それは紛れもなく、神が愛され、尊ばれ、大切にされている人の命を愛し、尊び、大切にすることです。自分のいのちも、他者のいのちも。