題      名: 11/23説教 聖書の王たち(6) ペリクス
氏      名: T・Y
作成日時: 2011.03.26 - 15:21
11/23の礼拝説教は『聖書の王たち』シリーズの6回目、ぺリクスとドルシラというユダヤの総督夫婦の話(使途の働き24:22-27から)でした。

パウロはイエス・キリストの福音を背負って、主にギリシャや今のトルコ地方(当時はローマの支配下にあった)に伝道するのですが、コリント、エペソ、ピリピ、テサロニケと次々と教会を建て上げてきます。三回目の旅行で、拠点のエルサレムに戻った時点でユダヤ教指導者に捕らえられ牢獄に入っている様子が24、25章に出ています。

当時、「パウロを殺すまで断食する」と誓い合って、徒党を組んだユダヤ人40人がいたほど、非常に激しい迫害にあっていますが、彼らはどんなに殺す事に決めても、数十年前のイエスさまの時と同じくローマ帝国の植民地だったので、法廷はローマにありました。エルサレムには植民地を治めるローマの総督が派遣されて、すべての政治を行っていたので、総督の前で裁判がなされました。その総督がぺリクスです。

彼らは当時「この道」といわれていたキリスト教について、知的な関心がありました。そして、パウロの事情も考えてやる寛容を示し、ある程度の自由も与え、監禁の身ではあっても友人の世話も許されていました。裁判は延期され、何年も保留にされました。当時も、今もそうですが、キリスト教を迫害する人ばかりではなかったということです。世間の関心は大いにあり、当時の人がキリスト教を「この道」と呼んだぐらい、詳しい知識も持っている人も多いというのは、今も共通する事実だと思いました。

24節でぺリクスとユダヤ人の妻のドルシラは、パウロを呼び出してキリスト・イエスを信じる信仰について話をさせます。彼らは快楽追及や残虐行為で悪名高いヘロデ家の血統でした。パウロは「正義と節制とやがて来る審判とを論じた。」と25節にありますから、よい説教だと想像します。王だから統治者だからと言って、何でもしてよいのではないという正義を語り、放蕩の生活はもういい加減止めよと節制を語り、今裁判を受けているのはパウロだが、地上の法廷が最後だと思わない方がよい、やがて人生最後の時、神にどのような申し開きをするのかと、やがて来る審判を語ったに違いありません。

聴きたくない真実を突きつけられ、彼らは恐れを感じ「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言うのですが、関心があったので、「もう2度とお前の話は聞きたくない。」とは言えませんでした。パウロの話には真実があると、ペリクスは分かっていたからでもありました。しかし2度と呼び出さなかったでしょう。

先生は、大説教者ムーディーが、ある時の伝道説教を唯一悔いているという話をなさいました。
大会衆を前にして伝道の説教をして、「悔い改めて主イエスを信じなさい。」とアピールをするのが彼のスタイルです。しかし、いつもと違い「ゆっくり考えて御覧なさい。そしてまた来週おいでください。」と、その日は今までにしたことのない、一歩引いた余裕のあるアピールになったと。ムーディーは、その日の説教が唯一悔いているもので、伝道者としてこの日の説教は大きな失敗だったというものでした。
お話を聴いて、我々は神の言葉を聴く時も話す時も、この時限りに与えられたことばであることを自覚して、信者であっても、一瞬一瞬を神さまとあうんの呼吸で整えられて、祝福を自分のものとしていきたいと思いました。

それから、C.S.ルイスの「悪魔の手紙」からのお話もおもしろいものでした。悪魔がいかに我々に日常的に働きかけるかが書いてあります。
図書館で、信仰と神学、自分の心にある死、神が創造された神の国があるとしたら、自分は入れないかもしれない・・・などと考えている者に、そんな彼に無神論を吹きかけても無理だと悟った悪魔は、「そろそろおなかがすいたんじゃないの?今ランチの時間だから混雑していない内に・・・」などと日常のしなければならない事を優先するよう誘惑してくるのです。図書館で一瞬信仰的になっても、悪魔の誘惑に負けて図書館を出た時点で、すぐに現実の世界に引き戻される我々です。

ペリクスとドルシラもパウロに「そんな人生歩んでいていいのですか?」と言われた時、握っている権力や地位から来る、度の過ぎたこの世での富と快楽で満ちた自分の人生をあきらめる事はできなかった。そして引き伸ばしている内に真剣に考えているのかと言うとNOであり、ペリクスが聞いたのは「今考える必要はない。」という悪のささやきでした。悪魔は正面きって「富と快楽の人生を手放せ」とは言わない、むしろ判断を保留させるのだそうです。
もともとそれらは神の祝福の象徴でもあると思うので、手放す必要もないわけで、なるほど悪魔は巧妙ですね。(ただ、私たちは神さまから示された時には、いつでもそれを手放せるようにしておくべきで、それらに執着を持ち、自分の物と思うのが罪だとクリスチャンは教えられているのではないでしょうか?)
キリスト教に関心があり、相当詳しい知識も持っていたペリクスは、クリスチャンになる手前まで来ていても、悪魔のささやきに屈服して、遂に天の門に入る事はなかったのです。

単純にイエスを信じて受け入れさえすれば、ペリクスはこの世の総督としてよりも、もっとすばらしい神の栄光を賜って、神の子として生きられるのですが、何よりも自分の欲が優先する人間です。しかし、とりあえず先延ばしにしておいて、また後でクリスチャンの信仰に・・・というのは、我々クリスチャンでもよくあることです。自分自身を振り返っても、いかに簡単に悪の誘惑に屈服する人間かと反省させられます。

クリスチャンとして、私はこうありたいと考えている事はきっとあるはずです。主によって、このことを伸ばすようにとか、これは抑えるようにとか教えられていることがあるはずです。しかし、「それをやると、これを失う」と我々は躊躇してしまうのです。イエスさまはそんな我々をご覧になって、「それはとても残念だね。あなたの小さなこだわりを捨てると、私が与える祝福、こんなに大きな祝福をいただけるのに。」と悲しそうにおっしゃっています。

最後に引用されたお話は、とても象徴的でした。
あたり一面雪で真っ白、寒い冬の湖で一羽の鷹がウサギを見つけ、急降下して行って仕留めるのですが、ウサギの息の根は止めたものの、ウサギの腹にしっかりと食い込んでいた鷹の爪のために、ギリギリまで肉をついばんでいた鷹はいざ飛び立とうとして放そうとした時に放せなかった。そうして氷の割れた湖の中に、なすすべもなくウサギの重みでもろとも落ちていく姿は、先生のおっしゃるとおり、ペリクスと同じです。「主よ、それがゆえに放すことができないと思っているものを、放す勇気を与えてください。」と祈りにも似たことばをおっしゃった先生でした。

誰にでも第1のからだの死の後に神の審判があり、生前にイエスさまを主と告白し、もっと言えば、みこころに従って生きていなければ、霊の復活ができなくて、第2の死を味わう事になると言われていることを思い出しました。クリスチャンにはこの第2の死がありません。主イエスさまに罪から救ってもらった我々は、死後復活して永遠のいのちに平安の中で生きることが約束されています。しかし、この世でみこころを行わなかった者は、永遠の滅びへと落ちていく、そこは苦しみだけがあって、永遠に神の御顔を拝することができないところ、富と快楽と言う肉をギリギリまでついばんでいたペリクスとドルシラの、そんな光景を垣間見ることができたように思います。

お祈りは、25節を読まれ、「我々はあらゆることを先延ばしにします。現実世界の必要に足をすくわれて、一向に霊的な現実をみようとしません。しかし、霊的なことであれば、イエスキリストに対して、『おりを見て、また呼び出そう。』ということがありませんように。主が私たちにストレートに語ってくださるならば、ペテロやヤコブやヨハネのように、持てる網をそこで投げ捨てて、まっすぐに主に従って行かせて下さい。私たちを成長させてください。もっと伸ばして、あなたに近づかせてくださることを切に願います。」と、イエス・キリストの聖名によってお祈りされました。

イエスキリストの福音を伝道する先生の説教やお祈りは、今週私達が主の為になしたどんな事も、たとえうまくいかなくても失敗だと思わなくてよいと力づけられる思いでした。また、先生が私たち信徒に対しても温かい目で、成長を期待しておられることもわかり、感謝でした。