題 名: 7/10 アブラハムの生涯(18)御子といっしょにすべてのものを 創世記22:6〜19 |
氏 名: T・Y |
作成日時: 2016.07.11 - 19:36 |
☆聖書箇所 創世記22:6〜19、 ロマ8:32 <創世記22:6〜19> 6アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子に負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。 7イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえにための羊は、どこにあるのですか。」 8アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。 9ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。 10アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。 11そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」 12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。 14そうしてアブラハムは、その場所をアドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。 15それから【主】の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、 16仰せられた。「これは【主】の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、 17わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。 18あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 19こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。 <ロマ書8:32> 32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 ☆説教 アブラハムの生涯(18) 御子といっしょにすべてのものを 前回、アブラハムとイサクのこの物語を学びました。 約束の子・ひとり子イサクを捧げるように言われたアブラハムです。 一瞬にして大きな試練がアブラハムを包み込んでしまいます。 その分厚い試練の雲を、従順な信仰、それから沈黙とともに耐えて行く信仰を持って、突き抜けて行ったアブラハムの姿を前回学びました。 そして今回は、そこで語ることができなかった、この物語のもう一つの味わいについて、触れておきたいと思います。 そのもう一つの味わいというのは、神さまが2度アブラハムにかけられた言葉です。 (創世記22章)12節を見てください。 12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。(***その次です、と強調する藤本牧師)あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。 同じ言葉がもう一回16節に出て来ます。15節から――(読んでいかれる) 15それから【主】の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、 16仰せられた。「これは【主】の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、 17わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を(云々ですね……) ここにも「あなたのひとり子を惜しまなかったから」(創世記22:16) 「あなたのひとり子を惜しまず」という言葉は、12節にも16節にも出てまいります。 この言葉の中に、実に鋭くアブラハムの信仰が描き出されています。 アブラハムが神さまに捧げた信仰は超一級でありました。 それは自分のひとり子さえ惜しまず、注ぎ出した信仰――それほどまでの信仰、それほどまでの信頼を、アブラハムは神さまに傾けていた、ということですね。 それほどまでの信仰――それは「あなたのひとり子さえ惜しまなかった」という信仰ですね。 この表現の中に、それほどまでの信頼を神に傾けていたという言葉が、意味が含まれているわけです。 さて、この表現が私たちの心に響いてくるのは、ロマ書の8章の32節です。 こちらもご一緒に読んでみたいと思います。 創世記に何かを週報を挟んでおくとよいと思います。 <ロマ書8:32> 32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 使徒パウロの言葉です――「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」 もちろん、<ヨハネの福音書3章16節>――「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」というのもあります。これは同じ表現です。 神は私たちを愛してくださった、その愛の度合いを語る時に、「その独り子をお与えになった」という表現が、<ヨハネの3:16>。 <ローマの8:32>は「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」という表現です。 アブラハムの神に対する信頼のゆえに――アブラハムの出来事では、それほどまでにアブラハムは神を信頼しました。 「それほどまでに」というのは、ひとり子イサクを捧げるまで、捧げるほどに、です。 キリストの出来事では、それほどまでに神は私たちを愛していてくださる。 「それほどまでに」とは、ひとり子イエス・キリストを十字架にかけるほどに、私たちを愛してくださった。 表現の使い方が、意識していると言わんばかりに重なっているんですね。 今日はそのことを一緒に見ていただきたいと思います。 創世記22章に戻っていただいて、先ず1番目に、 ストーリーがそもそも重なっているように思えますが、押しつけがましく重ねていると言われればそれまでですけれども―― 1)そもそも重なっているのです。 ▼創世記22章の6節を一緒に読んでみようではありませんか。 6アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。 「アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ」です。 イサクはたきぎを背負って歩いた。3日間歩いた。 イエス・キリストは木の十字架を、自分が磔(はりつけ)となる十字架を背負ってエルサレムからゴルゴタの丘と歩きます。 何度も転んで、最後は通りがかりのクレネ人シモンの背を借りて、イエスは十字架を背負って歩きますね(***マタイ27:32、ルカ23:26)。 ▼それから無言です。イサクはほとんど言葉を発しません。これはヨーロッパの哲学者が様々に論じるところですね。 アブラハムの信仰も見事です。でもイサクはなぜ言葉を発しないのか? 有名なのは心理学者のユングの解説ですけれども、それは、アブラハムの、非常に父親の権威の強い家庭に育ったイサクは、可愛がられ、叱られ、権威を押し付けられ、子どもの頃からなかなか上手に自分の気持ちを表現することができなかったのではないか、と言われています。 そういう分析に耳を傾けるつもりは私(藤本牧師)はありません。 でも事実は注目すべきで、その事実は「イサクはほとんど言葉を発しない」という事実です。 それと同じように、キリストは屠られる小羊が口を閉ざしたまま引かれて行くように(***イザヤ53:7、使徒8:32)、キリストもまた無言でピラトの官邸(から)ゴルゴタの丘へと向かって行きます。 ▼それから、(創世記)22章の今度は3節をちょっと見てください。3節から4節を私(藤本牧師)の方で読みますね。 3翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。 4三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。 「三日目」という日数は、キリストの場合は特殊です。 福音書の中で何回も出て来ます――イエス・キリストは十字架にかけられ、死んで、3日目によみがえる、というこの「三日」という日数が妙に重なります。 ▼もうひとつありますね。創世記22章、一番最後で、13節ですね。 13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。…… キリストは「世の罪を取り去る小羊」(***ヨハネ1:29)として十字架にかかりますが、キリストの頭の上には茨の冠が載せられていました。 ここで見つかるのは、角を、頭をやぶのなかにひっかけた一頭の雄羊でありました。 犠牲となるイサク、犠牲となるキリストというのは、両方、旧約聖書・新約聖書で、妙にかぶる。 ▼そして一番かぶるのは、「ひとり子を惜しまずに」という父親の思いですね。 さて、かぶればかぶるほど、2番目に―― 2)そうなると大きな違いがあります。 大きな違い、それは言うまでもないですね。11節、12節―― 11そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」 12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。…… というこの場面の絵をレンブラントが描いています。 皆さん、あとでインターネットに繋がっていれば、パソコンでもスマートフォンでも、レンブラントの「イサクの犠牲」で検索すればすぐに見事な絵が出て来ます。 真ん中にアブラハムで、アブラハムの膝の上にイサク、そして振り上げた刀を持ったそのアブラハムの手を、力強い御使いがぐっと手首を捕まえた、その瞬間の絵をレンブラントが描いています。 (御使いが)手を掴んだ瞬間に、アブラハムが持っていた刀が宙を飛んでいるという絵ですね。 しかし、神は、ひとり子イエス・キリストを惜しまずに死に渡されたのですから、イサクの時には「待った」という声がかかりましたけれども、キリストの時にはかかりませんでした。 いやむしろ、主イエスは十字架を前にして祈ります。 「アバ、父よ。あなたにおできにならないことは何一つありません。どうそ、この杯をわたしから取りのけてください(***マルコ14:36、ルカ22:42、マタイ26:39) しかし父の心は、その杯を飲め、ということでありました。 主イエスは十字架の上で叫びます。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と(***マタイ27:46、詩篇22:1)。 先週の聖餐式礼拝でも学びました(***聖書箇所へブル10:19〜25)。 キリストは私たちの罪を担い、いや担い切るわけですね。 そうして、私たちが神の御前に立つことができる、「新しい生ける道」を備えてくださいました。 神は愛するひとり子をお与えになったほどに、この世を、私たちを愛された(***ヨハネ3:16)。 アブラハムのケースでは、アブラハムの信仰、見事な様は描かれていますが、最後の最後で、天の使いはアブラハムの手を止めたんです。 しかし、最後の最後で、神は御子を死に渡す、十字架に渡すというのがイエス・キリストの出来事ですね。 ヨーロッパの教会で語られて来た「ドナウの跳ね橋」という話があります。 私(藤本牧師)はクリスマスで話をしたことがあります。 ドナウ川にかかる跳ね橋――下に船が通りますから、橋がこう跳ね上がるわけですね――それを管理をしていた男の話です。 橋桁は低いのですけれども、両側から橋が二つに割れて、ハの字に持ちあがり、その間を船が通って行く。 ま、ヨーロッパの絵を見ていますと、ヨーロッパは跳ね橋が非常に多いですよね。 この男は毎日船の運航を見ながら、橋を上げていました。また橋を降ろして、そういう責任ある仕事をしていたんです。 彼の家は、橋のたもとにあって、脇にあって、そこに小さな息子と二人で住んで、毎日仕事に当たっていました。 船が近づいて来ますと、橋の交通を遮断します。そしてレバーを引いて、太い鉄のワイヤーを巻き上げて、橋を跳ね上げて、船を通します。 船がゆっくりと近づいて来ました。 大きな回転音を立てて、ワイヤーが巻かれて行きます。 彼が船を確認しているすきに、なんと息子がそのワイヤーボックスの上に乗っているではありませんか! 慌てて、父親はレバーを止めようとします。 でも、もしいま止めたら、確実に船が橋に衝突します。 そして、乗船している人の顔が、もうそこに見えて来ました。 跳ね橋の動きを止めたら衝突して大参事という中で、父親は息子のいのちを犠牲にします。 私は(藤本牧師)は、この「ドナウの跳ね橋」という話が実話なのか、その詳細は知りません。 しかしそういう出来事があっても不思議ではないと思います。 仮に本当の話だとすると、非常に興味が深い。 なぜなら、船に乗っている人は橋が跳ね上がって行くのは見えます。でも、犠牲になる息子は見ていない。 跳ね橋の醍醐味を見ながら、楽しそうに歓声を上げ手を振るでしょう。 何も知らずに、川を下って行きます。 でも父親の思いを何にも知らずに、船はいつものように、何事もなかったように下って行きます。 しかし、そうあってはならない、というのが、ヨハネの言葉(***ヨハネ3:16)です。 そうあってはならないというのが、十字架の出来事を読む私たちの思いです。 十字架を見ていた当時の人々は、「おまえが神の子なら自分を救って他人を救え」とののしるほど、この見世物を喜んでいたにすぎない。 彼らは御子イエス・キリストを十字架に送った父なる神の気持ちは、さっぱりわからなかった。 御子イエス・キリストを十字架に送るほどに、私たちを愛されるという、その愛を知らずにただ生きていた、という「父の涙」を私たちはよく(***讃美グループと一緒に)歌うではありませんか。 神は私たちを愛された。愛してくださっている。どれほど愛されているのか? アブラハムの手は止められた。しかしご自身の手は止めなかった。 ひとり子イエスの身に私たちの罪を背負わせ、犠牲にするほど愛される。 さて、そこから、パウロの(明言する)第3のポイントをお話して終わりにいたします。 3)それがもう一度、ロマ書の8章32節です。 第3のポイントというのは、後半に出て来ます。 ロマ書の8章32節、この言葉をぜひ刻んでいただきたいと思います。32節―― <ロマ書8章32節> 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 第3番目のポイントは、32節の後半です。 この十字架の愛を知っているとしたら、どうして、「御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださる」ということを疑うのですか?という意味です。 十字架の愛というものを知っているなら、アブラハムの場合は御使いを遣わして、アブラハムの手を止めたかも。 しかし、イエス・キリストの場合は――イエス・キリストは大祭司カヤパの前で言ってますでしょう? 「あなたは神の子,キリストか?」と言われた時に、「はい、わたしはそれだ」「あなたは天の軍勢を連れて、人の子が雲に乗って降りて来るのを見る」と。 (***マタイ26:63〜64)。 ――イエス・キリストとその背後にある父なる神の権威というものを、よくよく知っておられ、それを宣言しておきながら、最後に父なる神は(イエス・キリストを)助けない。 (神は)私たちの罪を(イエス・キリストに)担わせ、その贖いのわざを完了するために、キリストは息を閉じるんですね。 それを知っているあなたがたは、(神は)御子といっしょにすべてのものを、惜しまずに与えてくださるということを疑ってはならない、というのがパウロの(言いたい)ポイントです。 そのポイントはここに来て(ロマ8:32)初めて出て来る。 「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された神が、父が、どうして、御子といっしょにすべてのものを私たちにくださらないことがありましょうか?」 今日の説教のタイトルは「御子をさえ惜しまず」、(週報では)「ひとり子さえ惜しまず」ですが、多分「御子といっしょにすべてのものを」というのが、正しいタイトルなんだろうと思います。 御子といっしょにすべてのものを―― 十字架の事実、十字架に表された神の愛は、今も少しも変わりません。今も同じです。それは私たち、よく解っています。 それほどまでに私たちを愛された神は、十字架で死に渡された同じ愛をもって、つまり「御子と一緒に」、 「すべてのものを」というのは、私たちの必要なものを――私たちの平安、私たちの力、私たちの導き、私たちの助け、私たちの癒し、私たちの楽しみ、慰め、励まし、永遠のいのち、天国の相続――御子と一緒に、御子を信じるなら、御子と一緒にすべてのものをあなたに与える。 パウロのこれほど力強いみことばはないです。 私たちが十字架を眺める度に、十字架を仰ぐ度に神の愛を感じる――当然のことです。 しかし、その時このみことばを思い出していただきたい――「御子をさえ十字架に惜しまずに送られた神は、御子といっしょにすべてのものをあなたに与える」と。 御子をさえ惜しまずに与えたんだと、他のすべてのものをあなたに与えないわけがない、というこの聖書のみことばを深〜く私たちは心に刻まなければいけない。 そして刻む時に、「すべてのもの」に力点がいくのではないです。いいですか。「御子といっしょに」という所に力点が来るのです。 十字架を仰いで、すべてのものが私たちに与えられる、ではない。 十字架を仰いで、すべてのものは御子と一緒に与えられる。 御子イエス・キリストを信じる信仰、御子イエス・キリストの愛を信じる信仰と共に、すべてのものが与えられる。 さて、申し訳ないですが、私(藤本牧師)の大好きな話をして締めくくろうと思います。 これをするかしまいか、昨日散々悩みましたが、ここまで話したらこの話をする以外にない(笑)。 ま、この話をするだろうなと想像していらっしゃる方も多分一人ぐらいはおられるだろうと思いますが、私は調べてみました。 2001年、2007年、2011年に礼拝ですでに3回話をしています。今日で4回目ですが許していただきたい。 実話ではないと思いますが、こんなによくできた話はない。それは「息子」と題された話です。 ある所に、非常に裕福な大金持ちと息子がいて、二人とも絵画の収集に情熱を燃やしていて、もうその財の限りを尽くして、ピカソからモネからレンブラントから、幅広く豪邸に飾るんですね。 二人はよく一緒に座って、家の壁に、あらゆる壁に飾られた名画の数々を堪能していました。 そして戦争が始まります。息子の方は戦争に取られてしまいます。 彼は勇敢で、仲間の兵士を助けるために、いのちを投げ打って戦死します。 お父さんはその死を嘆き悲しみます。何しろ一人息子ですから。 戦死して一か月後、この家のドアを叩く者がいました。 お父さんが出てみますと、若い男がドアの所に立っていて、大きな紙包みを下げていました。男は言います。 「初めてお目にかかります。お父さんでいらっしゃいますよね?私は、戦争であなたの御子息に助けていただいた男です。 彼はいのちを賭けて、私を助けてくれました。 あの日、私は戦場で倒れて、私を助けようと私を背負って引きずり出した、彼の背中に銃弾が当たって彼は即死でした。 戦場でよく、彼はお父さん、あなたの話をしていましたよ。そしてあなたがどんなにか、絵が好きかということも」 そして青年は、パッケージを出して開けて言います。 「私は大したことはできないんですけれども、私は名のある画家ではありませんが……」 と言って、出されたパッケージを開けてみますと、 なんと描かれていたのは、息子さんでした。 そしてそれを描いたのは、この青年ですね。 父は、その絵に感動しました。無名の画家が、よくぞここまで自分の息子の人格を、その息子のありようを、キャンパスに描いてくれたものだと。 「ありがとう。ぜひお礼をさせてください」 「いやいや、とんでもないです。彼はいのちを私に与えてくれたのですから」 その無名の画家は去って行きます。 父親は、その絵を応接間の真ん中に掲げて、お客さんが来る度に、嬉しそうにその絵を見せては息子の話をしました。 そしてしばらくして、その父も他界します。 さて、それから開催されたのが、世界中が注目する絵画のオークションでありました。 この家にあった絵すべてが売りに出されます。 そして世界中から、それを落札するためにブローカーが集まって来ます。 オークションが始まり、「先ずこれから行きます」と、掲げられたその絵。 一番最初に出てきたのは、戦争で亡くなった息子の肖像画でした。 「さて、これを落札される方?」と言うんですが、会場はずっと沈黙。 だれも手を挙げないんですね。 主催者は、その絵を降ろさない。 「100ドル?200ドル?」 声が上がります。「私たちは、レンブラントやゴッホを買い付けに来たんです。ちゃんとやってください。その絵は誰の絵ですか?」 主催者は全く無視ですね。 いつまでもこの「息子」と題された絵を上げたままで、 「さあ、いかがでしょうか?どなたか落札される方はいらっしゃいませんか?」 とうとうフロアの後ろから、手が上ります。 長〜い間、この家の庭師をしていた男と息子がそこに座っていました。 彼は「100ドル」(と言う)。 貧しい男にはそれで精一杯ですね。 「どなたか、200ドル、どなたか300ドルはいませんか?」 会場から声が上がります。「100ドルでいいんじゃないの?」 「よし、では100ドルで落札です」 で、フロアが声を上げます。「それでいい。いよいよ、始まりだな」 と言った途端に、主催者がこう言うんです。 「これにて、すべてのオークションは終了です。これにてすべてのオークションは終了しました。これが故人の遺言です。それを今の今まで誰にも漏らしてはならない、というのも遺言です。 実は、今日オークションにかかっていたのは、息子さんの肖像画だけです。この一点(笑)。 遺言によりますと、残りの絵すべて、そして財産のすべては、息子さんの肖像画を落札した人が譲り受ける、となっています」 そして、遺言書のコピー、写しが皆さんに配られていくんです。 今日オークションに出ていたのは、「息子」とすべての絵ではない(笑)。 オークションに出ていたのは、「息子」だけ。そして「息子」を落札する者は、他のすべての絵も自分のものにするということを、パウロは言っているんです。 パウロが(***ロマ書8:32で)言っているのはそういうことですね。 「御子といっしょにすべてのものを、あなたがたに」という時に、すべてのものが私たちに来るわけではない。 御子を私たちにお与えになられるんだから、御子と一緒にすべてのものがついてくる。 だから私たちはすべてのものを追い求める必要はない。 私たちはただキリストを追い求める。 神のご計画は一つです――ご自身のひとり子イエス・キリストを信じる者は、天の御国のすべてを相続する。神の祝福のすべてをそれらの者が相続する。 「御子を信じる者」が――それが私たちですよ。 ☆お祈り 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 (ローマ人への手紙8:32) 恵み深い天の父なる神さま、私たちはそもそも自分の人生がよくわかりません。そして自分の人生がとんでもない混迷の中を通る時に、ますますもって自分が生きている意味さえわからなくなります。 しかし十字架を見上げた時に、こんなみじめな私をも、主よ、あなたは愛してくださっているのですね、ということを私たちは信じます(アーメン)。それを信じるから、私たちは教会に来ています。 ……「御子といっしょにすべてのものを」と言ってくださるあなたの愛を、深く捉えることができますように(アーメン)。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。 |