題 名: 2010.10.24 「患難さえも喜ぶ」 藤本栄造先生 |
氏 名: DiceK |
作成日時: 2011.03.27 - 00:45 |
「患難さえも喜ぶ」 2010.10.24 藤本栄造先生 ローマ人への手紙5:1−11 ★今回のポイント 3節:そればかりではなく・・・ 5節:なぜなら・・・ この接続詞が分かるとメッセージは終わると言っても良いほど重要な言葉です。 ○1、2節からも分かるように私たちは救われた! 救われたことが分かることほど感謝なことはない。 ★何とも言えない光栄がある。 ★イエスキリストの恵みを預かった者である。 これが根本。イエス様が救ってくださったのです。⇔感謝(喜び) @そればかりではなく、 聖書は、「そればかりではなく」と現実の信仰生活についても描いています。(もちろん、救われたということも現実の信仰生活ですが・・・。) クリスチャンになり救われれば、どんな時も喜ぶことができるか? →患難も現実の生活には出てくるのです。 ★患難とは・・・。 圧迫、圧縮、押さえつけられる。⇔試練の時 これがこの世の中にはあるのです。 患難は現実⇔患難も喜ぶ。 イエス様の平和、愛を持っていれば、もう患難なんかないのではないでしょうか。うまくゆくのではないでしょうか。 もちろん、患難の中でも喜べます。しかし、患難はつらいのです。 例えば、自分は大丈夫でも家族、兄弟、友人がなんとも言えない圧迫の中にいることがあるかもしれない。 そんなときでもイエス様の平和を持っているんだ。 どんな場合でも。 とはいっても・・。入院、受験、リストラ・・・。⇔厳しい。 この中には喜ぶことは何もありません。 ★でもイエス様と平和があると患難の質が変わるのです★ 患難は自分を喜ばすことはできないかもしれない。(つらいし、厳しいから)しかし、神様を喜ばすことはできるのです。 そして、それこそが「信仰」なのです。 私たちがどうなったとしても神様。私たちの落ち着くところは決まっている。 それが分かっているなら、信じているなら大丈夫! 主イエスを喜ぶということは私たちの「誇り」であるということ。 それは、まさに神様との平和を持っているという喜びなのです。 あがないによって生かされているということは私たちの宝物です。 ゲーテは、次のようなことを言われたことがありました。 「先生の生涯は喜びに満ちあふれていますよね。才能もあったし・・。」 しかし、ゲーテの答えは83年間生きていて喜ばしいと思ったことはそうありませんというものでした。何週間かしかないでしょうと答えたそうです。 ○はたから見たら幸せそうなのに当人に言わせるとそうではないときがある。 私たちの生活は似たり寄ったりなのです。隣の芝は良く見えるものです。 お金を持っている人はなくなったら怖いですよね。 しかし、なければ、なくなったときのことを考える心配はありません。(もちろん、経済的に困ることはあります。だから、似たり寄ったり。) ⇔私たちには患難というものが必ずどんな人にもあるということです。 ★患難さえ喜ぶ。 ○患難は何をもたらすか。 ⇔忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。(3節、4節) ○生み出す ⇔悲しみばっかりではありません。患難の中で何かを生み出すのですから。つまり、患難がなければ生み出せないということです。 何を生み出すか。忍耐です。 忍耐するということは難しいことでありながら、人間に一番欠けているところです。 特に、現代社会においては忍耐が欠けていると思われる場面がたくさんある。気が合わないから、転職・・・・。 ★忍耐を身につけるためにはどこにいけばいいのか。 患難です。 そして、患難によって練鍛される。患難の中では自分が探られる。 その中で、 ○なんて自分はわがままなんだ。 ○なんて自分は自己中心的だったんだ。 ○なんて自分は思いやりがないんだ。 ○なんて欲深いんだ。 ★主イエスとの平和があるなら、患難で探られるのです。★ 患難は純粋にしてくれる。 こういうことはお祝いの席では身に付かないのです。 ○なぜ、自分はこんなに背負うんだ。患難ほど、自分のことを振り返ることはないでしょう。 しかし、患難を通過した時に、自分に気付くのです。 ○忍耐、練られた品性、そして希望 5節:「希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 ⇔希望は失望に終わりません。希望と失望は面白い組み合わせです。 希望があれば失望はないのですから。 しかし、人は、「たかが希望だろ・・・。」と言うでしょう。 (ここで、糸井さんの幼い頃の夢であったNHKのアナウンサーになるという夢が今、現実になった!というお話が織り交ぜられました。) 私たちの希望は失望には終わらないのです。 では、そこで問題 Q:なぜ終わらないのですか。 Aなぜなら、私たちに与えられた聖霊によって神の愛が注がれているからです。 ★神の愛が注がれている。★ 神の愛は、世の中の愛とは違い、あなたを生かす愛であり、導く愛です。 その確かさが聖書に記されています。 ○クリスチャンなら、聖霊によって神の愛が注がれている。 星野富弘さんは、患難を次のように表現しています。 ★患難によって、神様を知った。愛を知った。 母親は薄暗い存在だった。(と思っていた。) ⇔でも最後まで、一人こつこつと看病してくれた。生命の危険の中にいなかったなら、その母親のイメージは変わらなかったはず。しかし、それを通して母親の愛が良く分かった。 そんな愛は今も注がれているのです。患難をたくさん抱えていてもイエス様を信じているなら、道が開かれます。 ★聖霊によって神の愛が注がれている。(5節) 第一ヨハネ4:13 「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」 ★御霊を与えてくれる⇔私たちのうちにおられる⇔信仰によって義と認められた。⇔聖霊によって神の愛が注がれている。★ 全部、神の御業なのです。 努力ではありません。 聖霊によっての神の愛なのです。 賢い人だけが成功するわけではない。 信仰によって平和を得ている者が全部(生きる指針も含めて)神の恵みによって支えられた。 こんな者を贖ってくれた神に感謝する。 ⇔それを信じているなら、聖霊によって愛が注がれることを実感できるはずなのです。 |