題      名: 「パリサイ人と取税人の祈り」(たとえ5)
氏      名: fujimoto
作成日時: 2004.02.01 - 17:31
「パリサイ人と取税人の祈り」(たとえ5)       
    ルカ18:9−14

 神殿に祈るためにやってきた二人の人です。今朝の私たちのようです。二人はそれぞれ祈りました。心の中で、言葉には出さずに。しかし、イエスさまは、その二人の言葉を一言一句引用しておられます。その心を、その祈りを読みとっておられます。そして、パリサイ人の祈りを退け、取税人の祈りを受け入れられました。その意味で、私たち礼拝に来たひとりひとりにとって、厳粛なたとえ話です。

                                   ●神の御前に祈る二人

 一見単純に見える話しではありませんか。パリサイ人は人前には品行方正で厳格で、外見は模範的な生活を送っていながら、実は、心の汚れた偽善者であったとするなら。そして、取税人は、ローマの占領下でローマの片棒を担いで税金を取り立てるという売国奴のような仕事をしていながら、実は心の清い人であった、とするなら。そうなれば、話は簡単です。 もしもパリサイ人というのが、ねっからの偽善者で、ブリっ子で、その彼が神の御前に出たときには、本性を見破られた、となれば、パリサイ人の責めらるべきところは一目瞭然であったのです。しかしながら、実はパリサイ人は、必ずしもそのような悪人ではないのです。彼らは敬虔な宗教家です。
 また同じように、もしも取税人が、いつもこの様に膝まずいて、自分の愚かさを認め、謙遜を告白できる人物であったとすれば、話は簡単に理解できるのです。しかし、取税人とは、正にその様な人ではないのです。
 当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありました。ローマは、巧妙にも、税金徴収を自分達でやらずに、イスラエル人をやっとて徴収させました。取税人といえば、同胞を売って、ローマについたわけです。しかも、これを機会に、私腹を肥すために、税金をだまし取ります。パリサイ人が祈りの中で思わずいっているように、取税人とは「揺する者、不正をする者、姦淫する者」であったと言ってよいでしょう。人から責められることなど苦にもしない、面の皮の厚い奴らでした。そして、彼らが神殿に来ることなど滅多にないことです。
 パリサイ人は、それとは逆でした。神様に尽くすことに一生懸命でした。断食をし、生活を削って神様に仕えます。断食は何のためでしょうか?自分を遜らせ、神に祈るため出しょう。パリサイ人の祈りの中には、同胞のための祈りがあったでしょう。経験に生きることができるように祈ったでしょう。熱心に神を求めていたのがパリサイ人です。
 献金も収入の十分の一を捧げます。神に対する信仰の表れです。マラキ書にあります。神さまがイスラエルの民に信仰の挑戦を投げかけておられます。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ」。神の祝福の挑戦ですね。その挑戦に応える、ピカイチの信仰です。
 
                                     ●話しの奥深さ

 だとすると、この話には、さらに奥があると考えなければなりません。まず初めに、この二人の間にも共通点があることに目を止めましょう。パリサイ人も取税人も神殿にきました。二人とも神様の前に立っているのです。
 ところが、よく読んでみると、このパリサイ人は、神さまの御前には立っていない。パリサイ人は、神様に感謝を捧げました。神様の恵みによって、自分は情欲と利己主義から解放され、胸を張って神の御前に出ることができました。だから感謝ができるのです。しかし、実際は、彼は神さまの御前に立っていなません。彼の祈りは、神の御前に出ていながら、取税人を見て、下を見て、自分を測りました。
 11節に、二回、自分で言っています。私は「他の人々のように……」、私は「「ことにこの取税人のようではないことを……」。彼は、自分がどんな人間であるのかを考えたときに、神の前に出ていながら、下を向いて横を見て自分を測ったのでした。自分を見るとき、その基準として、隣のみすぼらし取税人を選んだのです。そうすれば、自分が明らかに神の前で浮き立って見えたのでした。私たちは、自分よりもしたの人間と比べて、「少なくとも私はあの人よりもましだ」と測ると、自分の罪深さが見えなくなっていきます。いやそれどころか、自分が大した者であるかのような自負が生まれてきます。
 伝統的なルター派の礼拝は、開会の讃美で始まり、それから礼拝の招きの言葉があり、頌栄を捧げます。そして会衆が座り、牧師が会衆に罪の告白を勧めます。「あわれみ深い全能の父なる神、私たちは不幸にも罪と不義とのうちに生まれ、あなたの聖なるみことばを信ぜず、あなたの戒めを守らなかったのみでなく、私たちの生活は罪と過失に満ちていることを、御前に告白します」。こう始まります。そしてみなで、キリエ・エレイソン、「主よ、私をあわれんでください」と唱えます。カルヴァンが考えて礼拝式文でも、礼拝の最初に、会衆全員で罪を告白し、それから「キリエ・エレイソン」をみなで唱えます。
 そういう礼拝に慣れていないと、仰天しますよ。まだ説教も聞いていないのですから。しかし、礼拝で立って讃美を歌い、頌栄を捧げて、座ったらまず、神の御前に罪深い自分を意識して、遜って、憐れみを請うのです。でも考えてみますと、これが一番、ふさわしい礼拝の心得かもしれません。

 取税人は、とんでもない人物だったに違いないのです。しかし彼は、神殿に入ったとき、そこにパリサイ人がいることさえ目にも入っていません。取税人は、どんなに礼拝にふさわしくなくても、今、この広い神殿で、「神様と一対一」です。彼は横を見てパリサイ人のことを考えることもしなかった。ましては、そこのパリサイ人を見て、「何だあいつ、あんな偽善者。生活は立派でも、心の中は俺とおんなじ真っ黒だ」とも言わなかったのです。そう言ったとしても、嘘にはならなかったでしょう。
 彼は、下を向いていました。隣りを見て自分を測ろうとはしませんでした。彼は上を見て測ったのです。この取税人の基準は神様でした。いま彼は、神をひたすら見つめて立っています。この光のような方の前に、ひたすら自分の破れと罪を照らされて立っています。神様の御前にたった一人で出て、一対一となって、神様を基準に自分を見つめたとき、自分がいかに汚れた存在であることか分かるのです。

 アメリカのクリスチャンのジャーナリスト、フィリップ・ヤンシーが「深夜の教会」という題で、コラムを書いています。それは、彼が通っているシカゴの教会のことです。毎週火曜日の夜、教会は地下室を「AA」に解放しています。AAとは、アルコホーリック・アナニマス(聖公会の牧師サムエル・シューメーカーによって始められた、匿名を原則にアルコール依存症を直すためのサポートグループです。
 ヤンシーの通っている教会では、日曜日の朝ふつうのクリスチャンが集まって礼拝をし、そして火曜日の夜、依存症の方々が集まって、たばこの煙がもうもうとする中、教会の地下室で繰り広げられる活動に、共通性を見ているのです。なぜなら、AAには二つの大きな原則があります。それは、極端なまでの正直と極端なまでの依存です。
 極端なまでの正直とは、依存症のグループに課せられた原則です。AAでは、言ってはならないことがあります。「はい、トム。以前はアルコール依存症だけど、いまは直ったよ」とは絶対に言わせない。たとえ、10年口にしていないとしても、なお自分はアルコール依存症だと認めなければならない。なぜなら、自分の弱さを否定すると、再び餌食になる可能性が強いからです。ましてやAAにおいては、「ぼくはアルコール依存症かもしれないけど、そこにいるベティーほどひどくはない。彼女はドラッグ依存症だから」と言うことは決してないのです。みんな、同じ地平に立っているのです。だれも他の人を馬鹿にしません。なぜなら、みんな人生をめちゃくちゃにしてしまったという自覚があるからです。
 同時に、AAは教会のように極端なまでの依存の原則があります。神に依存するのです。自分にはできない、自分の力ではだめだ、だから神に極端なまでに依存し、また仲間のサポートに依存するのです。参加者は、素直に赦しと力を神に求め、周囲の友人にサポートしてもらいます。ヤンシーは言います。これこそ真夜中の教会だと。
 私たちは、徹底的に正直です。私たちは何度も救われる前の、あるいは自分の失敗の、過去の罪の証しをします。たとえ、10年、20年、その罪を犯してなかったとしても、依然として同じ過ちをする可能性が自分にあるのを知っているからです。極端なまでの正直が、私たちの特色です。それを主に告白します。同時に、私たちは極端なまでに主に依存します。この方こそ、私の救い主です。取税人は、「遠く離れて立っていた」と書かれています。しかし、主は彼の傍らに近付いてきて、手を差し伸べられました。「親愛なる神様」と祈ることもできない、ただ「こんな罪深い私を哀れんでください。」とうつむくだけの男の顔に手を当てて、優しく声をかけられました。「私の愛する子よ」――14節「あなたがたにいうが、この人が義と認められていえに帰りました。パリサイ人ではありません」とは、そういうことです。