題      名: ヨナの祈り(1)――魚の腹の中で
氏      名: fujimoto
作成日時: 2004.07.16 - 12:59
ヨナの祈り(1)――魚の腹の中で    2004.7.11
    ヨナ2章全

 聖書の中には、いろいろな祈りが登場しますが、これが最も奇妙な場所で祈られた祈りでしょう。場所は魚のおなかの中です。祈っている人は、主人公は、預言者ヨナです。
 ある時、神は彼に御心を示されました。それは常識では理解しにくい命令で、罪に染まる大国アッシリアの首都ニネベに行って悔い改めを説け、というのです。場所は今のイラクの中心です。イスラエルから見ればニネベは敵国であり、大国であり、ヨナの頭をよぎったのはまず、おそれではなかったでしょうか。ヨナはニネベとは反対方向へ逃亡をはかります。ヨッパから舟で、タルシシュに向かいます。
 「しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした」(一・三)。
 ここに「御顔を避け」という表現が二回出てきます。ヨナは神に従わず、背を向けました。彼は、ニネベの人々のように道徳的に堕落した生活をおくっていたわけではありません。しかし、同じように、神の御顔を避け、自己中心に自分の道を行くのです。
 やがて、台風のような大風が彼と彼が乗り込んだ船を飲み込もうとします。「そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた」(四節)。
 ヨナには、その原因がよくわかっていました。大風の原因は、自分の罪です。そしてこの大風は、神によるものでした。彼は、神から逃げられないこともわかっていました。
 自分の罪が、周りの人たちを巻き込んでいることもわかりました。罪というものは、周りを巻き込むものですが、せめて、周囲の人々にこれほどの迷惑を掛けることは出来ないという良識は彼にありました。「私を海に投げ込んでください」と訴えます。そして主は、予想さえしなかった方法で、ヨナをとらえられました。
 「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた」(一七節)。

  そして、この魚の腹の中で祈りが始まります。
  ・・・この祈りを3つの点に分けて、考えてみましょう。

1)魚の腹の中

 この祈りに特徴があるとしたら、まずそれが魚の腹の中で祈りだと言うことです。三日間、ヨブを飲み込んだ魚は、じっとしていたのか、相変わらず泳ぎ回ったのか、わかりません。胃袋の消化酵素をどうしたのでしょうか? 三日間、魚が食べた餌の魚を食べて生きていたのでしょうか? しかしヨブは体験した苦しみははっきりしています。
 「水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました」(五節)。
 先週、高橋兄の病の話をしましたが、その連続した手術の中で印象に残っている一週間があります。胃の手術の後、胃からの出血が止まらないということがありました。胃の縫合がうまくいっていないのか、傷が癒えるのを待つべきなのか、兄弟は医者の指示で、出血を止めるために、手術の後に一週間の絶食に堪えました。私がお見舞いに行きましたとき、彼はペットボトルの水を少しだけ、ストローでなめるように飲んでいました。それ以外はだめなのです。
 必要な栄養と水分は点滴で入っていきますが、しかしじーっと堪えている兄弟にを身ながら、改めて気がつきました。私は、牧師としてよく病院をおたずねします。病院の見舞いは実に奇妙です。外の世界は元気な人であふれています。おなかをすかして、おいしいものをたらふく食べる人であふれています。一歩病院を出れば、レストランが並んでいるのです。病院は、私たちの日常のまっただ中にあります。しかし、いったん病気になれば、ヨブが魚の腹に飲まれたように、三日三晩、じーっと苦痛に耐えるだけ、というような体験はいくらでもあるのです。魚の腹の中から祈られた祈りは実に奇妙なのですが、しかし本当は魚の腹はどこでにもでもあるのです。

2)心の動き

 彼は、魚の腹の中で「主を思い出した」(七節)とあります。「主を思い出した」というのは、「苦しい時の神頼み」とは違います。アメリカの言い回しで、フラットタイヤ・クリスチャンというのがあります。フラットタイヤというのは、パンクです。パンクしたらみんなあわてます。そして、パンクしたときだけ、クリスチャンに変身するということです。これが、「苦しいときの神頼み」です。
 しかし、ヨナが主を思い出したというのは、御顔を避けて、背を向けていた彼が、主の御顔を求めた、ということです。ヨナは、おおもとの問題を解決したくて、神に祈りました。魚の腹から救い出してくださいという祈りではなく、神様は私はあなたから離れていました、御心に逆らって、自分かってな生き方をしていました、という祈りです。その気持ちが、四節の「もう一度、主の聖なる宮を仰ぎ見たいのです」という願いに現れているのではないでしょうか。
 あなたのところに帰りたいのです。しかし、そう思ったとき、同時に不安もありました。「帰ることが出来るのでしょうか? こんな私が。」それが同じ四節に現れています。
 「私はあなたの目の前から追われました」
  彼は、神さまから追われていたのではありません、自分の意志で神さまに反発して、意図的に神さまのところから逃げたのです。しかし、いまはそれが、「あなたの 目の前から追われました」という気持ちを抱いていています。この表現は、考えさせられます。自分が少しでも正しいと思えているうちは、「自分は逃げている」と思えるのでしょう。自分の決断で、自分の意志で、逃げているのだ、と。ところが、自分の罪深さがわかったとき、こんなに神に背いて、これほど遠くまで来てしまった自分を、神は再び受け入れてくださるだろうか、と不安に思うのです。
 ヨブは、深い真っ暗な闇の中で、自分の罪に思いを馳せたとき、自分は帰れない、戻れない、神からもう遮断されていると思ったのではないでしょうか。私はあなたのところから逃げたのです、でもそれはあなたのところから追われたのと同じで、もう戻れない、もう無理ですね――そういう思いになっているのです。

3)祈りは届いた

 しかし、七節に「私の祈りは、あなたの聖なる宮に届きました」とあります。つまり、「届くのでしょうか、もう無理ではないでしょうか」との不安を覆して、主はヨナの祈りを聞かれました。
 そもそも、主はヨナをあきらめたことはなかったのです。ヨナが預言者の仕事を放棄して、タルシュシュへと逃げた時点で、神は他の預言者を使うこともできたはずです。その時点で、ヨナから離れて、ヨナを見捨てることもできました。ところが、主は、タルシュシュに向かう彼を追いかけて来られます。嵐を起こし、海に投げ込ませ、大きな魚を備えて、腹の中に閉じこめ、ヨナが主を思い出すようにされました。ヨナがどん底に落ちる一歩手前で、ヨナが主をもう一度思い出すように、その御手をもってヨナを支えておられました。
 この恵みがなければ、悔い改めはありません。これを、先行的恵みといいます。神の恵みは、いつも私たちの先へ行って、逃げていく私たちの先でさえも行かれて、私たちをとらえてくださるのです。
 三章一節に「再び」主はヨナに声を掛けてくださったと記されています。ヨナを責めることもなく、とがめることもなく、神はヨナに今ひとたび預言者としての仕事を与えてくださいました。「再び」というのは、二回目という意味ではないでしょう。二回目でも、三回目でも、何度でも、神は声をかけてくださるのです。

 インマヌエル賛美歌の五三六番に「いのちの泉にましますイエスよ」というロバートロビンソンの作詞した賛美歌があります。彼は、一七三〇年、四〇年代に活躍したイギリスの伝道者でした。幼いころ、父親と死に別れ、お母さんと一緒にロンドンで住み、奴隷売買の暗い仕事に関わるようになります。彼は、ある日、ウェスレーの後輩でありました、ホイットフィールドの説教に触れ、悔い改めて、福音を信じ、救われます。まもなく、神学校へ行き、牧師になります。
 二五歳で、ロバート・ロビンソンは、ケンブリッジにありますバプテスト教会の牧師に就任しました。とても人気のある牧師でした。しかし、人気に潰れたとでも言いましょうか、徐々に初期の新鮮な信仰から離れてしまいます
 ある日、彼はロンドンへ行くために、乗合馬車に座っていました。隣には、老婦人が一冊の本を熱心に読んでいました。その本の中の、ある頁が好きで、何度もめくって、くり返し読んでいました。おばあさんは、隣に座っていた、見知らぬロビンソンに声を掛けて、その本を開いて言いました。
  「ねえ、この、この詩を読んでご覧なさい。すばらしいでしょう。私は、このところが大好きなんです」
 差し出された頁には、最初の部分にこうありました。
 「いのちのいずみにましますイエスよ、豊かに流れて、うるおしたまえ
  まことのことばにかわきしわれも、いとをば整え、恵みを歌わん」
 彼は、それ以上読むことができませんでした。おばあさんに、その本をさっと返して、外の風景に目を向け、話を逸らしました。
 ところが、おばあさんは、またその本に目をやって言いました。
  「私は、この賛美の歌詞を読むたびに、恵みが心の底からみちあふれてくるのです。ねえ、すばらしいと思いますでしょう」
 ロビンソンは、答えます。
 「おばあさん、私は哀れな、不幸な男です。何年も前に、この賛美を書いたのは私なんです。この心に、同じ気持ちが、同じ信仰が再び戻ってくるなら、全財産も惜しくない」
  彼の賛美歌の第二節は、何とも実感がこもっています。
 「さまよいがちなこの心、愛するあなたから離れそうになるこの心を、主よ、どうか握りしめて、天の御国に封印してください」 
 この心、あなたの愛から再びさまようかもしれない、不確かな心を、主よ、あなたが握りしめて、天の御国に封印してください、という祈りです。
 その後、ロビンソンは正統的なキリスト教から離れて、ユニタリアンという異端の教会に走っていきます。やっぱり、残念だと思います。さまよいがちな私の心をしっかりと握りしめるために、主は何度も私たちの人生に魚の腹のような試練を用意してくださいます。そのとき、本当に主を思い出すなら、本当に聖なる宮を仰ぎ見るなら、主は顧みて、このさまよいがちな心を捕らえてくださるのです。
 主よ、私はあなたを仰ぎます。魚の腹の中から。