題      名: 冒険的信仰
氏      名: fujimoto
作成日時: 2004.10.01 - 15:28
冒険ある信仰
          ヘブル11:8−16

 日本で有数な思想家の一人に、キリスト教信仰を持った森有正がいます。フランス哲学を中心として、膨大な著作を残していますが、彼がある大学で、アブラハムと結びつけて冒険について講演をしています。真の冒険とは、何も北極探検とか南極探検だけではない。新しいものに触れて、自分もまた新しくされていく、そういう中に踏み込んでいくこと、そういう生き方が冒険だというのです。
 そして彼は冒険を説明するために、冒険と対立する言葉として、「自分のものにする」「自分に同化する」ことだというのです。そういう生き方は、冒険的ではないというのです。どういうことかというと、自分の回りで起こったことをそのまま引き受けずに、その中で自分の欲望、あるいは自分の判断に適合したものだけをとって、自分のものにして、あとを捨てる。つまり、自分に都合の良いものだけを取り入れ、都合に合わないものは排除してしまう、そういう自分中心で、自分を変えようとしない生き方は、冒険の反対だというのです。
 全く新しいことに出会っても、固い自分がそこにいて、都合が良い部分だけを取り入れて、気に入らないものは捨ててしまう――つまり、人生に起こる様々な出来事で、自分というものは多少広がりはしますが、基本的には全然変わらないのです。結局、固い自分がすべてで、新しくならないというわけです。
 それに対して、冒険は、思いがけない出来事によって、特に神さまがくださる思いがけない出会いや出来事や考えや試練によって、自分の外にだけでなく、自分の中に新しいものが生まれてくる。それが生き生きとしたクリスチャンを作るのです。そう考えますと、森有正が言いましたように、北極探検だけが冒険ではない、大学生活も冒険、人生も冒険、そして礼拝も冒険であるという姿勢を崩したくない。
 神さまがくださる思いがけない出来事や語りかけによって、自分が崩されて、新しくされることを期待するような姿勢です。信仰姿勢とは、まさにそのようなもので、そして冒険的な信仰姿勢がもっとも特徴的に現れているのがアブラハムでしょう。そして、その冒険的信仰姿勢とは、なんでしょう? 3つのポイントから学んでみましょう。

●6節「どこへ行くのかを知らずして」

 創世記12章で、神さまがアブラハムを召されたとき、声を掛けられました。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」。その示された地は、カナンの地方と漠然としていましたが、それでもアブラハムはその地方を見たこともありません。行き先知らずして、神さまが召されるところへ、旅を続けます。まさに冒険的としか言えません。
 信仰生活の行き先は、自分で決定するものではないのです。私たちは普通に「人生設計」と言います。人生に計画があって当然です。しかしそれでも、人生の主は、あなたを想像され、あなたを愛して、救ってくださるイエス・キリストです。ですから、私たちは自分の損得勘定で生きるのではありません。自分の計画にしがみつくということもしません。
 なぜなら、神さまが約束してくださったからです。「わたしは、あなたを祝福する。あなたから、周囲の人へと祝福は流れる」。この神さまによる約束をアブラハムは信じました。11節には、アブラハムの妻サラの信仰も出てきます。「約束してくださった方を真実な方だと考えた」。神は真実な方である:それが冒険的信仰姿勢の柱です。どうして、自分の人生設計をあきらめることができるのか。どうして、行き先を知らずして出て行くことができるのか。どうして、突然起こる出来事に自分を開いて向かっていけるのか。それは、神さまが何よりも真実な方だからです。
 ブレナン・マニングという牧師が、本の中で、ある火事の出来事を記しています。二階建ての家から夜中に出火して、家族は急いで家の外に逃げるのですが、一番下の小さな坊やが火を恐れて、二階に逃げて取り残されてしまいます。外からお父さんが息子の名前を呼びます。もうもうと煙が窓から拭きだしてくる中、息子がそこにいるのがわかります。
 お父さんは叫びました。
 「飛び降りるんだ。がんばって飛び降りるんだ。お父さんが受け止めるから」
 坊やは泣き叫びます。「飛び降りるって、何にも見えない。お父さんも見えない」
 お父さんは言います。「大丈夫。お父さんはおまえが見えているから」
 そうなんです。アブラハムには、行き先が見えていません。それどころか、神さまさえ明確に見えていません。しかし神さまは、アブラハムに約束されました。「だいじょう。わたしには見えているから、行き先も、おまえのことも」。それを信じて、アブラハムは飛んだのです。

●冒険的信仰姿勢は、地上のいまある生活にしがみつくこ とをしません。

  13節に「寄留者」とあります。オランダのクリスチャン女性で、第二次世界大戦中にナチスドイツの迫害を受け、ラベンズブルック刑務所で生き延びたコーリー・テン・ブームがかつて、こんなことを記しています。
 「私は、この世界のものを握るとき、ぎゅーっと握らないことを学びました。それは、この世界のものを握っている私の手の指を解きほぐそうとするとき、痛みをそれほど感じないようにするためです」
  ぎゅーっと握っていればいるほど、主がそれを話しなさいと言われたときに、痛みを感じると言うことなのでしょう。そして、寄留者とは、まさにそのようにこの世界のものを握りしめいない人のことです。そう、「告白していた」とあります。この言葉には、二つの意味があります。口語訳では「自ら言い聞かせていた」。新共同訳では「公言していた」。まさにその両方。冒険的な信仰姿勢を保つために、自分はあくまでも、地上にあって寄留者だと、自ら言い聞かせ、それを公言していたと言うことでしょう。
  
●冒険的な信仰姿勢を持つ人は、何よりも16節「天の故郷にあこがれる」人です。

 寄留者だったアブラハムですが、じつは一度だけ自分の土地を持ったことがあります。それは、妻サラが死んだときでした。創世記の23章にそのときのことが記されていますが、アブラハムは妻サラを埋葬するため、その墓となる土地をエフロンという人物から、銀400シェケルで購入しました。
 やがて、アブラハムが死んだとき、彼自身もこの土地に葬られています。何とも象徴的ではありませんか。アブラハムは、地上にあっては寄留者、しかし自分のものとして所有した土地は、なんと墓だけなのです。そして、その墓に自分もやがてっほうむられるのですが、その唯一の所有地から、アブラハムの信仰が声を上げるのです。
  19節「神には人を死者の中からよみがえらせることができる」
 地上にあっては寄留者で、何一つしっかりと握りしめ、これは自分の所有だとしていなかったアブラハムですが、永遠の世界につながるその墓をきちんと所有していたかのように理解することができます。
 私たちクリスチャンは、地上にあっては寄留者であって、あまり地上の事柄にしがみつくことはしません。しかし、その寄留者が地上にあってきちんと掌握し、所有し、大切にし、守っていかなければならないのは、永遠につながっている教会生活です。私たちは、天の故郷へのあこがれを、礼拝に置いて、教会生活において確かに握りしめていくのです。