題      名: 「兄弟サウロ」
氏      名: fujimoto
作成日時: 2004.10.13 - 11:06
「兄弟サウロ」

      使徒の働き9:1ー19

 人の生涯には、さまざまな出会いがあるものです。人の一生は、実に出会いでなりたっていると言っても良いでしょう。友人との出会い、先生との出会い、伴侶者との出会い、一冊の本と出会って、生き方が変わる人もいます。出会いというものは、人生に感動を与え、ときに人生を変えるものです。考えれば、考えるほど、出会いというものは不思議です。
 その中でも、人生の決定的瞬間とも言うべき、最も重要な出会いがあります。言うまでもなく、「救い主イエスキリストとの出会い」「神との出会い」です。これがなかったら、今私はここにはいません。みなさんとも、全く関係のない他人でしょう。これまでの人生を振り返っても、これからの生涯を展望しても、キリストとの出会いほど大きな出会いはないということはわかります。

●キリストとの出会い

 サウロという人物にも、この転機がやってきました。それは、非常に劇的な、ショッキングな出会いでした。使徒の働きには、この日の出来事が、その後もパウロの口から語られて、22章、26章にも出てきます。彼の生涯で、最も劇的な一日です。サウロは、ダマスコへ行く旅の途中でした。まばゆい光に、サウロは倒れます。同行のものも皆倒れます。 天からの声が聞こえてきます。
 4節「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」
   「主よ、あなたはどなたですか。」
   「私は、あなたが迫害しているイエスである」      回りのものも光を見て倒れましたが、7節に「物も言えずに立っていた」とあります。回りの者は、呆然として、その場に立ち尽くすだけでした。ようやく地面から立ち上がるのですが、何も見えませんでした。視力を失ったのです。
 この出来事が、彼にどれほどのショックを与えたかは、9節によく描かれています。「彼は3日間、目が見えず、また飲み食いもしなかった」。3日間、この出来事を咀嚼しようと務めました。自分が出会った御方はだれなのか。あの声は、何だったのか。その意味するところは。物が喉を通らないほど、彼はショックを受けた。自分の人生をどこへ向けたらいいのかわからないほど、不安だったに違いありません。
 私たちは、必ずしもパウロのような、劇的な出会いをイエス・キリストとするのではないかも知れません。しかし、パウロと同じ、劇的な意味あいがそこにはあります。その意味を簡単に咀嚼できない、消化できない。よくわからない・・・・この点においては同じでしょう。それがために、パウロは祈っていました(11節)。

●第二の出会い

 そこで、今朝みなさんとごらんいただきたいのは、パウロのために神さまが用意しておられた、2番目の出会いなのです。それは、アナニヤというクリスチャンとの出会いでした。
 10節「さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、『アナニヤよ。』と言われたので、『主よ。ここにおります。』と答えた。
 11節「すると主はこう言われた。『立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています』。
 これは、パウロが受けた大衝撃を緩和するために備えられた、もう一つの出会いです。イエスさまとのすざまじい体験を静かに受けとめ、その意味をじっくりと消化できるように、アナニヤが遣わされます。パウロの不安、パウロのためらいを、アナニヤがやわらげるのです
 イエスさまは、私たちにもアナニヤを用意してくださいます。導き手、助け手が与えられるのであって、私たちは一人ではなのです。この恵みの生涯を、ともに励まして、導いてくれる出会いを主は、他にも用意していてくださる。

●「兄弟サウロ」
 アナニヤは、最初警戒してかかります。
 13節「しかし、アナニヤはこう答えた。『主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました』」。
 しかし、イエスさまが、「大丈夫、行きなさい」と言われたとき、アナニヤは、どのように近づくでしょうか。
  17節「兄弟サウロ」
 暖かい響き。3日も目が見えず、食事が喉を通らない、人生があまりにも大きく転換していく彼に、「兄弟サウロ」と呼びかけます。暖かい響き――この温かな呼びかけで、サウロは心を開いたのではないでしょうか。
 18節「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
 19節「食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた」。
 後にガラテヤ書で、パウロは、天からの啓示を受けたとき、エルサレムに行って他の弟子たちの教えをこうことはしなかったと言っていますが、このアナニヤは別でしょう。パウロは、イエスさまについて、アナニヤから詳しく聞いたことでしょう。
 その話の内容は、まさに18節「目から鱗」のような、彼の人生を全く変えてしまうキリストの話でした。その話は、最初の質問の延長です。5節「主よ、あなたは、だれですか?」
 「イエスよ、あなたは誰なのですか?」アナニヤは、十字架と復活の話に集中したのではないでしょうか。特に彼を驚かせたのは、十字架の話ではなかったでしょうか。イエスが十字架にかかったのは、彼が罪深く、神の裁きが下ったと聞かされていたのです。十字架こそは、イエスの生涯の最大の汚点と理解してきたのです。もしかしたら、エチオピアの宦官がピリポからイザヤ書53章の説きあかしを受けたように、パウロもアナニヤから教えられたのではないでしょう。主が十字架にかかったのは、私たちの罪のためであり、その十字架こそが、私たちを神のもとへと導くことを。
 そして更に驚かされたのは、彼がダマスコの途上で聞いた声が、復活されたイエスの声だったということです。主イエスが過去の偉人ではなく、いまも私たち共におられ、いまも同じように「サウロ、サウロ」と声を掛けられたことを。すべてが耳新しく、すべてが劇的でした。二人は時間を掛けて語り合い、パウロは、信じます。そして、洗礼を受けます。サウロの人生の再出発です。
 でも、そこに至る間に、アナニヤの助けがあったのです。彼は、「立ち上がって」とありますが、それはアナニヤと共に立ち上がったのです。イエスさまは、私たち一人一人と出会ってくださる方です。パウロのような劇的な方法ではないにしても、一対一で私たちに出会ってくださる方です。イエス・キリストと出会い、この方を信じて、この方について行くには、時間が必要です。あるいは理解も必要です。決断も必要です。そのために、主はアナニヤを備えていてくださいましたす。
  キリストを知らず、教会に敵対する人はアナニヤを必要としています。同じように、教会の中でつまずいてしまう人にも、アナニヤは必要なのです。伝道が難しくて、疲れてしまう牧師にもアナニヤは必要なのです。私たちみなが、互いにアナニヤなのです。互いに「兄弟サウロ」と優しく、あたたかく、倒れているものに近づき、キリストと出会う人たちを導き、助け、生かすことを互いにさせていただく――それが教会です。
 使徒の働きの中で、ここでアナニヤがはじめて登場する。そして、今後彼の名前は出てきません。しかし10節「弟子」とあるように、彼は主の弟子です。そして彼は忠実な弟子でした。なぜなら、忠実な弟子は、主に呼ばれると、「主よ、ここにいます」と答えるからです。教会の中で、教会の外に対して、主が私たちをアナニヤとして遣わされるとき、「主よ、ここにいます」と返事をすることができますように。