☆聖書箇所 ルカ1:13〜20 13御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。 14その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。 15その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、 16イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。 17彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」 18ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」 19御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。 20見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
☆説教 アドベントU:圧倒的な神の介入
アドベントという、待降節と言いますけれども、降りて来られるのを待つ、キリストがやって来られるのを待つ、この季節。 アドベントと同じ意味で、同じ語源の言葉でアドベンチャーというのがあります。 それは何か特別なことが起こって来る。ある出来事がやって来る。その思いがけないことが自分の前に立ち現れる。 そういう意味の動詞がアドベンチャーです。 非常に期待感溢れると同時に、信仰と勇気が必要な時期がアドベントであります。
私たちの外側から私たちのところにやって来る出来事というのは、別に良いことばかりではありません。期待などできないことの方がむしろ多いです。 旧約聖書で言えば、敵が攻めて来る。飢饉が訪れる。国々が滅びて、そしてまた新しい国が誕生していく。新しい環境へと投げ込まれると。 思いもかけない不測の事態で、アドベントは存在しているんだ、ということも心に留めなければいけないと思います。 その不測の事態にもがきながら、私たちは何とか神の力に手を伸ばしていく、というのがクリスマスでありまして、
クリスマスを担った人々――今日はザカリヤを見ていただきますけれども――みな驚きと恐れおののきに溢れています。 ザカリヤだけではない、妻のエリサベツも、マリアもヨセフも、羊飼いも東方の博士もみな驚きと戸惑いに溢れています。
1)ザカリヤを見ていただきますけれど、彼の心の中には願いがありました。
ちょっと聖書を映しますね。(ルカ1章)13節にこうありますでしょう。 【画面:ルカ1章13節「あなたの願いが聞き入れられたのです」にピンクのハイライト】
その前にこうありますよね。 12これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。 13御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
このヨハネがバプテスマのヨハネとなって、先週の安藤先生の説教にありましたように、悔い改めの道を開いていきます。 そのお父さんにあたるザカリヤに一番最初、ルカの福音書の1章ですよね、クリスマスの訪れがやってまいりました。「怖がることはない」と。
天使がザカリヤに伝えた言葉は「怖がることはない。あなたの願いは聞き入れられた」とあります。 その願いが何であったのかということは書いてありませんけれども、察するに、ず〜っと前にこの夫婦が持っていた、「子どもが欲しい」ということなんでしょう。 ですからその願いが聞き入れられて、おおよそ子どもを産むのにふさわしくない年齢になって突然子どもが生まれることになった、ということになるんだろうと思います。 そんな昔の願いを、一体誰が覚えているんだろうか?と思います。 ザカリヤ自身でさえ、その自分の心の内にある願いが分からなくなってしまうということもありますでしょう。
天使が私たちの前に現れて、「一つだけあなたの願いを叶えてあげる」って言うと、皆さんは一体何と答えるんでしょう? 一日二日考えても、多分分からないと思いますね。 私が一体何を願っているんだろうか?って言われますと、分からないです。 そして天使は、もしかしたら、私たちの心の深〜いところに眠っている――一般の人も知らない、自分も忘れてしまった願いを――掘り起こして来るのかも分かりません。
私(藤本牧師)は以前クリント・イーストウッド主演、監督の「ミリオンダラー・ベイビー」という映画を紹介したことがあります。 この老齢な彼が、ボクシングジムを経営してトレーナーになっているんですよね。 おおよそ人生の苦しみ、悩み、矛盾を全部味わって来たというような彼が、ま、ボクシングジムをやっている。
その彼がよくカトリック教会のミサに行きます。 ミサで時々司祭と顔が合いますと、必ず司祭に声をかけて呼び止めて、奇妙な質問をします。 「マリアは男の人を知らないのに子どもが生まれたと言うけれども、そのことをあんたは本気で信じているのか?」ですね。 カトリック教会、キリスト教会には三位一体という教理があるけれども、みんなほんとにそんなことを信じているのか?どう考えても私には分からん。あんたが説明してくれ。」 司祭様にも分かりません。 一体なぜ彼が教会に来るのか?どうしてそんな質問をするのか? しかし徐々に、彼の心の中に願いがあるのが分かるようになる。
ある日彼は家に帰って、ポストボックスから郵便物の束を取るんですね。 そしてそれを全部調べて、ほとんどごみ箱行きなんですけれど1通取り上げて、 自分のクローゼットの一番上にある段ボール箱に入れようとした時に、その箱がバサッと床に落ちる。 み〜んな同じような封筒で、みんなその封筒にスタンプが押してある。 「引越先不明」というスタンプが押してある。 彼の心の中には、人生どこかで心がすれ違ってしまった娘に会いたい。離婚しているんですよね。 どうしてもその娘に会いたい。でも会えない。 で、彼は時折手紙を出すんですけれども、その手紙はことごとく「宛先不明」で戻って来るわけですよね。
その願いをもって、彼は教会に行く。 でも教会に行くと、自分のような老人、自分のような教会に似つかわしくない人物と、 そして向こうにいる神学校出立ての、人生の難しさをほとんど何にも知らないような青白〜いような司祭。 そのギャップを感じてしまって、思わずこの司祭に毒づくんですよ。 彼は自分の心の中にある、何とも言えない人生の願いを、司祭には言わないですね。
私たちは教会に来る時に、様々な願いを持って教会にやって来ます。 でも神さまが現れて、あなたの願いは何か?と言われると、思わず口をつぐんで、「別にございません」と言ってしまう程、 私たち自身にも、その願いの明確さは分からなくなってしまう位、直ぐに叶えられない、人生の中でず〜っとくすぶっている願いというのがあるんでしょうね。
天の使いはザカリヤに現れて、「恐れることはない。あなたの願いは聞かれた」という言葉を語りかけます。 クリスマスっていうのは、やっぱりこういう気持ちから始めたいと思います。 私たちの心の奥底の悩みも、矛盾も苦悩も、苦労も心配も、焦りも願いも受け止めていてくださる方がおられる。 神のみが私を信じていてくださる。
私にはできないかも知れない。私には無理かもしれない。 そういう思いがいっぱい入っている私の人生の中で、神さまは私を信頼していてくださる。 助けてくださる。なぜなら、ザカリヤという名前は、「主はあなたを覚えておられる」という名前です。 彼の名前のそもそもの意味が「神はあなたを覚えていてくださる」。 そしてその名の通りのことを彼は体験するわけです。
2)神さまは、ザカリヤの日常に現れます。
6節をちょっと見ていただきますね。ここにエリサベツとザカリヤが出てまいりますでしょう?
【画面:ルカ1章5〜6節あたり。6節全文にピンクのハイライト】 6二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
「落度なく」というのは、言い方を変えると、完璧に守っていたということになりますでしょう。 これが、この場面に出て来る彼の人生の評価であります。 彼は真面目で真実な人であった。
アドベントというのは、「悔い改め」に関わる。 安藤先生(先週2022/11/27)話してくださいましたよね? ですから(※手前に下がっている紫の布を左手で触って見せて)講壇布は紫色になっているわけです。 私たちは《信仰と期待を持ちながら、悔い改めの心をもって、何とかこの飼葉桶のような自分の人生を綺麗にし、信仰に満たされてキリストをお迎えしよう》という思いで、クリスマスの前はアドベントの期間なんですね。
ちょっとそれに関わって、スコット・ペックという精神科医の言葉を引用しますね。 ザカリヤは、神の御前で真面目で真実な人物であったと書いてあり、落度なくそれを守っていたと書いてありますけれども、精神科医のスコット・ペックはこんなことを言います。 【スコット・ペック「愛と心理療法」、彼はその中で真実な人生とは?を記しています。】 ――ここから読み始め―― 「あくまで真実に忠実な生活とはどんなものだろうか。第一にそれは、終わることのない厳しい自省の伴う生活である。我々は、世界を自分との関係を通してしか知ることができない。従って、世界を知るためには、世界と同時に調べ手でもある自分を調べる必要がある。精神科医を含めて、多くの人が外の世界は厳密に調べるけれども、自分自身についてはさほど厳密に調べない。
あくまで真実に忠実な生活とは、自分に対する挑戦を進んで引き受ける生活でもある。現実に関する自分の地図がまともかどうか確かめる唯一の方法は、他からの批判と挑戦にさらすことである。 私たちは、自分の地図の正しさを脅かすものはすべて避けようとする。そこで子どもたちには、「口答えするんじゃないよ。私は親なんだからね」と言い、配偶者には「好きにやらせてよ。あれこれ言うとだめな女になっちゃうわよ。そしたらあなたも後悔するでしょう」などと言う。 今までのやり方を脅かすものを避ける傾向は、人類あまねく存在している。 ――ここまで読み終わり――
だから精神科医の所に来なさい(笑)ということなんですよね、話はね(笑)。 つまり、人は誰でも外の世界のことは厳密に精査し、そしてああだこうだと批判する。 だけど自分自身を、人はおおよそ見ようとしない。 でも精神科医の所へ行けば、心理療法士の所に行けば、彼らがあなたを診てくれる。 その時に、彼らは違う地図を出してくれる。 それが自分の書いた地図と違う時に、それを拒否してはいけない。 《真実な人生というのは、批判された新しい地図に照らして、自分の地図をもう一回修正する謙虚さを持っている》と言うのですよね。
「神の御前を正しく歩む」ためには、「悔い改め」ということをするためには―― 私たちは自分の地図、自分の物差しを、他の地図が差し出され、神さまの物差しが差し出された時に、謙虚にそれに倣って自分自身を反省する――それが「悔い改め」ということではないでしょうか?
神さまがザカリヤを特別に選ばれた理由は、他には書いてありません。 ですからザカリヤは、《神さまが差し出して来るところの、全く新しい現実を受け止められるような人物であったんだろう》と思いますけれども、 実はそうではありませんでした。
3)ザカリヤは信じることができなかった。
実際、ザカリヤに天使が現れ、 「あなたの願いが聞かれ、年齢は行ってるけれども、あなたがたが昔抱いた[子どもができるように]という願いは聞かれることになる」と言われた時に、 その《日常の地道な、正しい、真実な生き方を越える所の信仰》というものが求められたのです。 しかしザカリヤには、その信仰は絞っても出てまいりませんでした。
祭司の家系に育ち、伝統を受け継いできたザカリヤ、 「主は覚えておられる」という名前をず〜っと自分の名前にして来た。 夫婦共に主に仕え、真実に生きて来た。 その彼が、神さまが語りかけたその時間帯というのは、彼が祭壇で香を焚いている時ですから、(※ルカ1:8〜11) そこに天使が現れて何の不思議もないのかもしれない。 人生初めての経験でしょうけれども、ある意味で、とてつもない言葉を天使が語りかけて来るんですけれども、 それを受け取るだけの準備がザカリヤにあってもおかしくはなかった。 なにも川で沐浴している時に天使が現れたわけではないです。 まさに彼が祭壇に香を焚こうとしている時に、天の使いが現れたのですから。 しかし、彼の信仰は働きませんでした。
それがもう一言で言って、この言葉になりますね。聖書を見ていただいて、 【画面:ルカ1章18節「この私は〜年をとっています」にピンクのハイライト】
18ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
彼は(今日の)一番最後、20節を見ていただけます。こうなってしまうんですね。 【画面:ルカ1章20節「口がきけなくなり、話せなくなります」「あなたが信じなかったからです」にピンクのハイライト】
20見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。(***それがしるしなんですね、と説明)その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
で、話はここで終わるんですよ。 そうすると、見たら分かるように、「あなたが信じなかったからです」という、 信仰ではなく、不信仰の結果で話は閉じられています。
さて、これが今日の簡単な説教の課題です。 説教のタイトルは、「神の圧倒的な介入」です。 私が言いたかったことはすべて、これからの話に関わります。 「彼は信じなかったからです」で終わっているんですけれども、 「彼が信じなかった」で閉じられていますけれども、 結局のところ、《彼が信じようが信じまいが、神さまの介入はやって来る》ということなんです。 バプテスマのヨハネは、彼が信じようが信じまいが生まれることになります。 彼が信じなかったから、天の使いは「この話はなかったことにしよう」(笑)とは言わなかったんです。 「あなたが信じなかったがゆえに、しばらくあなたは口がきけなくなる。でもあなたが信じようが信じまいが、エリサベツは妊娠し、子どもが生まれるようになる。」
私(藤本牧師)はね、「神の介入」っていうのは、こういうものだろうと思うんですよ。 私たちの信仰の有無に関わらず、その信仰の質に関わらず、(神は)圧倒的に介入して来る。
クリスマスに洗礼をお受けになった方々は、子どもを含めても沢山多いと思います。 その時の自分の信仰の有無を、改めて振り返ってみてください。 或いはその時の自分の信仰の質を、改めて考えてみてください。 その質のゆえに、その信仰の有無のゆえに、神さまは、 「あなたは洗礼は授かったかもしれないけれども、わたしは洗礼の恵みをあなたには授けない」とは仰ってないですよね。 小さな子どもの洗礼であっても、ぐしゃぐしゃの大人の洗礼であっても、 《その信仰の質に関わらず、神さまは圧倒的に救いの事実を私たちに示すことができる》ということに、心を留めておいてください。
日本ルーテル教会の牧師・神学校の教師で、牧会カウンセリングを専門としておられる賀来周一(かく・しゅういち)先生という先生がいらっしゃいます。 賀来(かく)というのは、年賀葉書の「賀」に「来たる」と書くんですが、こんなことを記しておられます。 私(藤本牧師)はこの話にとっても感動して、この話をここからしようと思いました。いいですか?
教会に敬虔なご婦人がおられた。 その方が洗礼を受けた経緯について、賀来先生は書いておられるんですけれども、 若〜い頃に結核になって結核病棟にず〜っと入院しておられた。 そこにフィンランドから宣教師がいらっしゃいます。 彼は若い先生で、熱心で、まだ日本語が十分ではありませんでしたけれども、 一生懸命、結核病棟を一人一人回って、伝道されたそうです。
あるとき、そのご婦人のところに来て、先生は洗礼を受けるように勧めました。 しかし、まだ夫人としては知り合って時間も経っていない、よく分からない先生のお勧めでしたので、「結構です」と一言仰いました。 ところが日本語が十分でない先生は、「結構です」という言葉を「OK」という風に勘違いしたんですよね。(笑) 「結構なことでございます」というような(意味にとって)、「ああ、いいんだ」と。 そして、急いで洗礼の準備を始められました。 ご婦人はその宣教師の先生の姿を見ながら、もう断るに断れずに、病床で洗礼を受けてしまいました。 「それでよかった」と、後に振り返ってみて、ご婦人は思うんですよね。 つまり自分の信仰の有無、自分の信仰の質ではなかった。 あの場面で、圧倒的に神さまが介入された。 洗礼の恵みはあの時、私を包んだ。
私(藤本牧師)はね、洗礼をお受けになった、小さな子どもたちから大人の方々に至るまで、それから始まったクリスチャン生活というものを、良く思い出していただきたい。 「あの時自分の学びが十分でうんと信仰の質が高かったから、洗礼の恵みにあずかることができた。今の自分なら、それは無理だ」 と、もしお考えになる方がいらっしゃいましたなら、いやいや、そうではない。 《神の恵みはいつも突然現れ、そして皆さんの人生に介入し、圧倒的な力で皆さんを包み、そして今日のこの日に至るまで、皆さんを祝福で包んでくださった。これから以降も包んでくださる》。 その最も象徴となるべき存在が、ザカリヤ。 「そうか、そんなに信じないなら、わたしは他の人を捜す」(笑)と、天使は去って行かなかった。 信じないなら、信じないでいい。 ただし、わたしの奇跡のしるしは、あなたが言葉を話せなくなるという側面で現れて来るだけの話で、ザカリヤは、そしてエリサベツは子どもを産み育てることになる。 神さまの恵みはそれでも私たちを包んでくださる。
☆お祈りして終わりにいたしましょう――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、私たちは自分の信仰の質を大事にします。また信仰の有無も大切にいたします。しかし、おおよそそれに合わせてあなたの恵みが来るのではなく、あなたの恵みは、あなたの祝福は、あなたの導きは、いつも私たちの信仰の質を圧倒して、私たちのところにやって来る。まさにクリスマスがそうであったということを覚えます。
もし私たちの心の願いがありましたら、その心の願いを素直にあなたにお知らせすることができるように。もし私たちに間違ったことがあるならば、謙虚にそれを認めることができるように助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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