題 名: 6/7 Tペテロの手紙(29)神にゆだねる Tペテロ5:5〜7 |
氏 名: T・Y |
作成日時: 2015.06.08 - 15:45 |
☆聖書箇所 Tペテロ5:5〜7 5同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。 6ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。 7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。 ☆説教 神にゆだねる ペテロの手紙を学んで来まして、もう29回目、よく皆さんつきあってくださいました。 私(藤本牧師)も少し時間をかけすぎたなぁと思いますが、短い手紙なんですが、読めば読むほど一つ一つの聖句の重みと深みと言いますか、それを感じまして、私には到底この箇所から説教するのはちょっと早かったかなと思うほど、深みのある聖書だなぁという風に思います。 5章に入りまして、ちょっと聖書を読む角度を変えて来ました。 5章の2節に「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい」ということばです。 しかも2節の続きは、「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、心を込めてそれをなし」、 そして3節には「群れの模範となりなさい。」 この箇所からお話したときに、私(藤本牧師)の聖句を読んだ最終的な方向はこうでした。 おおよそそのような牧者になることはできない。なれるものではない。 ですから、4節にある「大牧者」という、イエス・キリストが大牧者、羊飼いとなりますが、 この大牧者であるイエスさまが私たちを憐れんでくださり、私たちを赦してくださり、忍耐してくださり、牧していただいてはじめて、この大牧者の憐れみに倣うことができる、自分も少しはだれかを養い、だれかを牧することができる――そういう話をいたしました。 前回は5節の「みな互いに謙遜を身に着けなさい」――これを読んだ時も同じような角度で読んでいました。 謙遜でもない自分が謙遜を身に着けるってどういうことなんだろうか? 第一番目に5節の後半にありますように、「神さまは高ぶる者に敵対し」とあるように、神さまは高ぶる者を嫌われるお方なんだ。 二番目にお話したことは、アルコール依存症の自助グループ、AAと呼ばれますが、その原則にありますように、「自分は依存症から解放された」とは一生言わない。 それと同じように、「傲慢に関して、高ぶりに関して、自分は治りました」とは一生言わないことです。 私たちは限りなく謙遜な者であるというふりをすることはできます。 でも実際、宗教心のある人であればあるほど、「実は高ぶりの方が近い、自分は限りなく傲慢である」ということを認識しておいて初めて、謙遜を身に着けることができるというお話をしました。 今回は1点、7節だけお話します。7節、ちょっとご一緒に読んでいただきたいと思います。 7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。 これほど平安な言葉は聖書にないかもしれません。 あなたがたの思い煩いを、一切神にゆだねなさい。すると神があなたがたのことを、あなたがたのために、あなたがたに代わって、心配してくださる。 心配事があれば神に託しなさい。ゆだねなさい。神さまが私たちに代わって、私たちのために心配してくださる。 このすばらしい聖書のことばがどのようなものなのか、ちょっとお話してみますね。 わかっているんですけれど、このすばらしさが。でもそれをなかなか私たちは自覚できない。なかなかゆだねない。ゆだねられない。 「謙遜を身に着けなさい」と言われれば、謙遜な素振りをしていて、実は傲慢が自分のたましいを占領する。 「ゆだねなさい」と言われたら、委ねますとお祈りして、なかなかゆだねられない自分を考える。 それをどういう風に解っていただけるか、いくつか、ま、2つ話をして、共に理解できたらなぁと思います。 <一つ目・タイの空港での教訓> 私(藤本牧師)は今から10年前に、これまで焦ったことがないほどあせった出来事がありました。 いま思い出しても汗をかきますけれども、インドの神学校に出席するために途中バンコクに一泊することにしました。 私はバンコクに行ったらもうマッサージ漬けになるんですが、ま、全身2時間タイ式マッサージを受けて1000円ですから、一年の疲れをほぐすように着いた夜と翌日の朝と4時間マッサージしてもらって、午後2時の飛行機に乗るために空港に行ったんですね。 そして空港でクレジットカードで電話をしようと思ったんですが、それがなかなか通じない。何回やっても通じない。仕方がないので、そのままゲートに(足を)向けて歩いて3分ほどして持っていたバッグがないことに気がついたんです。 帰りの航空券があのバッグの中に入っている。神学校への献金の小切手もあのバッグの中に入っている。もうさまざまですね、搭乗券とパスポートはポケットに入っているんですが、一切の物はあの中に入っている。 私はすぐに周りにいた空港関係者の方に聞いて、「どこに行くべきか?」その方は、「サービスカウンターに行け」と。 私は走って、サービスカウンターに行きました。そしたら、「そんなものは来ていない。そういうものは遺失物拾得所へ行くべきだ」と。 「それはいったいどこにあるんだ?」「それは搭乗口の外だ」。 外といったら、もうパスポート・コントロールを通過して、その外にある。 私はあの時ほど広い空港を恨んだことはないです。もう走った、走った。 汗はだくだく、のどはカラカラ。あと40分で飛行機は出てしまうんですよ。 そのとき迷いましたね。乗ってしまおうか。でも乗ったら、帰りの航空券はないです。でももしかしたら、乗らなくても、航空券は出て来ないかもしれない――これはもう究極の選択ですね。 ともかく走りました。 焦って走っている私を見て、ある男性が心配してこう言いました。 「その捜している荷物というのは、航空会社のカウンターにチェックインしたのか?」と。 「いや、チェックインしていない。手荷物のことだ」 すると彼は、こうあっさり言うんですね。 「それは残念だねぇ。航空会社にチェックインしていたら、航空会社は世界中を捜してでも、君の荷物を見つけて来る。でもチェックインしていなければ、君の責任だね」 「バカを言っちゃいけないよ。そんなことぐらい百も承知だよ(大笑)。だから走り回っているんだろう」 私はもうイライラして飛びつきそうになりましたけれども(笑)、最終的に荷物は出て来ました。 電話機の前の店の主人が――誰かがそこへ届けたんでしょう――バッグを持っていてくれまして、私が最後「どうしようか」と聞いたら、「あ、このバッグですね」と出して来てくださった。 そこからあと7分で発車(離陸)という飛行機にまた走ったのを覚えています。 走りながらあの男性のあほらしい言葉(笑)を考えましたが、ほんとだなと。 チェックインしていなければ、どうしようもない。自分の人生の重荷も課題もみんなこんな感じだなと――神さまにゆだねていなければ、全部自己責任。 でも神さまにゆだねていれば世界中を捜してでも、神さまは見つけて来てくださる。 何しろ神さまの責任で何とかしてくださるからだ。 7節の「あなたがたの思い煩いを神にゆだねなさい」――どうしてこれがそんなに難しいのか? この話が、この7節がスッと心に入る人は委ねることができる人です。 この中にはそんなに多くはいらっしゃらない。むしろ私のようになかなかゆだねられない人がいる。 じゃ、なぜゆだねられないのかというその心理を、少しいつも考えていますので、ご紹介したいと思うんです。 <二つ目・藤掛先生の本から考察> 私の友人で聖学院大学で心理学を教えている、藤掛明先生がいます。 藤掛先生は高津教会にも来て講演をしてくださったことがありますが、この先生の本に、『雨降りの心理学』という本があります。皆さんも買って読まれると非常に勉強になります。 先生は「日本の映画や小説には、雨がさまざまな場面で出て来る。『羅生門』とか。いろんな場面で出てきて、雨が上がるとか、雨に降られたとか、土砂降りだというその言葉の中に、人間の心理模様が実に上手に描かれている」(と仰ってます。) いくつもの小説が出て来ます。その中で、昭和10年代の船山薫という小説家の書いた『風雨図』(ふううず)という、短編小説があります。 風雨というのは風に雨です。『風雨図』です。 そこに出てくる主人公と、私たちを重ねるように、藤掛先生は人間の心理を説明しておられます。 ちょっと紹介しますね。 主人公の「私」は、新宿から電車に乗って2時間、そこから人力車で温泉に行こうとしているわけです。 静かな旅館で、気楽に温泉に浸かり、小説を書こうと、そう思っているわけですね。 この小説は、こういう書き出しで始まります。 「しっとりと湿気を含んで白っぽく濁っていた空が、国分寺の駅を通過する頃から急に暗くなったと思うと、やがて針のように細かいしずくが電車の窓ガラスに横筋を引いて散り始めた」 主人公は、その日の新聞記事で、夜半には暴風雨が来るかもしれないという天気予報を知っているんですね。少し早くそれが 降り始めました。 でも彼は新聞記事を読んだんですけれども、雨具のような手荷物は面倒くさいから持って来ていない。 それでも、何とかなるに違いない、いや何とかなってほしい、と駅に降り立ちます。 藤掛先生は、こういう状況というのは誰にでもやって来る(と言います)。 いや、小さなものも含めれば、私たちはこういう状況に毎日遭遇している。 駅の傍の人力車の車屋のおかみさんは、主人公を諭します。 「いま一台も人力車はないけれども、ちょっと待っていたらいいんじゃないですか。じきに人力車は戻ってきますから」 さて、皆さんならどうします?待ってます? 主人公は、「いつまでもぼんやりとそこにたたずんでいるわけにもゆかない」と考えて、歩いて目的の旅館に行き始めます。 これを藤掛先生は、「強行突破型の人生」(と呼びます)。 おかみさんは、背後から声をかけます。 「ほんとに間が悪くてお気の毒で」――これは、主人公の気持ちでもあります。 小説にはこう書いてあるんですね。 「せっかくの休暇にこんな山の中を、身体の弱い私が雨に叩かれて走り回っているなんて、いったいどうしたということなのだろう」 いったい、どうしたことなんだろう?って、要するに、強行突破型なんですよ。 新聞には雨が降ると書いてあるのに、どうにかなるだろうと思って、雨具を持って来なかった。 おかみさんは、少し待っていたらいいというのに、「ぼんやり待ってても仕方がない」と言って強行に突破しようとするのですけれども、うまくいかない。 皆さんの人生はどうです? 主人公は、だんだん腹立たしくなっていきます。 人生、なんて間が悪いんだろう。いつものことだ。 そして強行突破して、うまくいかないことに、腹立たしい――なんで、こんなことになるんだと思うんですね。 最初は雨の中を懸命に走るのですけれども、じきに息切れが始まります――疲れてしまい、やがて土砂降りの中をトボトボ歩く間の悪さ。 そもそも計画に無理がありました。やるしかない、と。 それでいて、間が悪い、運が悪い、あいつが悪い、人力車がそこにいないのが悪い、としきりに周囲のことに対して悔しがります。 さて、しばらくしますと、東屋風の小屋が見えて、そこに入ってみますと、野菜かごを背負ったおばあさんが雨宿りをしているんですね。 おばあさんは主人公に親切にいろいろこう話しかけます。彼は面白くもなんともない。だからぶっきらぼうに返事をするだけです。 おばあさんは、偶然、主人公と同じ旅館を目指しているんですけれども、おばあさんがこう言うんですね。 「さあ、もうゆっくり休んだでしょう。ここにいても雨が止むわけではないし、もしかしたらもっとひどくなるから」とおばあさんに促されて、また主人公は歩き始めます。 でもせっかくそこで出会ったおばあさんなんですけど、おばあさんのことなんかどうでもいいんです。 彼はサッサカサッサカ先を歩いて行きます。ちょっと先に行って心配して振り向いて、おばあさんのことを見るんですけれども、またタッタカタッタカ先を歩いて行きます。 藤掛先生はこう記しています。 「考えてみると、人は、強行突破するときには、どこか自己万能感に浸っている。だから、不思議なほどがむしゃらな気持ちがこみ上げてくる。なせばなる、自分も他人も見えなくなり、現状の辛さにも鈍感になれる。そして非常に生産的になる(***いろんなことをこなしちゃうんですねと説明)。 同時に、情緒的には他者との深いかかわりには煩わしさを感じるだけになる。(***こんな奴と付き合っているだけで無駄だ。強行突破せねばという気持ちになるんですねと説明)。 強行突破というのは、一人だけで前進するイメージがある。人の援助もあてにせず、自分の力を出し切る生き方である。周囲の援助を受けるほど自分は弱い存在ではないと言い聞かせるからこそ、先を進む元気が出るのである。」(38頁) で、この短編小説は、最終的に主人公は山を登って、思いのほか見栄えのしない旅館に着くんですね(笑)。 山を登って、そして床を見たら、「俺はこんなしょぼい旅館をめざしていたのか」(笑)とがっかりするんです。 ずぶ濡れで到着するんですね。 そして、冷え切ったた身体を温めようとお風呂場に急ぐんです。でもちょっと早めに着いたせいか、まだ湯船には、半分もお湯が入っていなかった(大笑)。 それで小説は終わるんです。 皆さん、解るでしょう――強行突破して、目的地にたどり着いても、ハッピー・エンドが待っているわけではない。それが人生だと。 さて、皆さんねぇ、なぜ私(藤本牧師)が――藤掛先生の本の中には、沢山の雨にまつわる話があるんですけれども――なんでこれを引用したかおわかりだと思うんですね。 この「風雨図」に出てくる、強行突破型の主人公は、私(藤本牧師)に似ていると思いませんか?(笑) 私はこういう人間だなぁと思いますよ。 もしかしたら、皆さんにも似たところがあるかもしれませんが。 そもそも新聞には暴風雨の警報が出ていた。 でも雨具なんていうものは、そもそも面倒くさい。なくてもどうにかなるだろう、こう思うんですね。 駅に人力車なんて沢山ない。でも着いたら一番先に人力車の所に走って行って、なんとか捕まるだろうと思うんですね。 おかみさんは「しばらくそこに立っていなさい。そしたら戻って来るから」(と言うんです。) そして、彼は思うんですね。いや、何時間ここで待つか解らない。さっさとここで出かけた方がよっぽど早く着くかわからない。 土砂降りになりながら、東屋で、野菜かごを背負ったおばあさんがたまたま同じ旅館を目指している人物に出会うんですよね。 でもその人との関わりをうっとうしく感じる。 むしろ自分は一時でも早く、旅館についてしまった方がいいように感じる。 「雨具も持たずに、人力車を期待し、目的地には風情のある旅館があるに違いないと思い、でも着いてみたら思いのほかに侘しい旅館で、そして風呂にはまだ半分も湯が張られていあい――そういう人生はあなたの人生だ」と言われれば「はい、私の人生です」と言わざるを得ないです。 皆さん、こういう人は神さまにゆだねることをしないです。ゆだねることができないですね。 人力車のおかみさんも、東屋で出会ったおばあさんも、もしかしたら神さまがそこに送ってくださった助けかもしれないでしょう? でもその神さまの助けをみんな振り切ってしまうんです。そして、自分の力で何とかなると思って、自分の力を出し切るのです。 出し切れると思って、不思議な程がむしゃらに頑張る割には、不平不満の連続で、なんでこんな日に雨が降り、なんでこんな日に人力車がなくて、なんでこんな日にこんなおばあさんと出会うんだ、ということだけで自分の人生を過ごしていくんです。 神さまが送ってくださる助け手をみんな振り払って、妙な自己万能感に浸っているから――ここですね――神さまにゆだねることができないです。 「ゆだねる」という動詞はね、自分が掴んでいるあるものを、何かに向かって「投げつける」という意味があります。 自分が掴んでいる何かを神さまの手に向かって、投げ放つと言いますか、(神さまの手の中に)きっぱりと手放すと言いますか 自分の弱さや愚かさを認めて、所詮、暴風雨は自分ではどうしようもないということを認めて、自分では抱えていないで、その事柄をそこにおかれている状況ごと、神さまの手の中に放り投げる――というのが、神さまにゆだねる(ということ)。 そして、神さまが送ってくださる助けと対話しているうちに、自分は助言を受け、自分は癒され、その助け手であるイエス・キリストに寄り添っていただけるという体験を全部かなぐり捨て、ひたすら自分で走り続ける。 そこでゆっくり座っていれば、神さまが送って来てくださった助け手が、実はイエスさまご自身で、イエスさまは私たちに寄り添ってくださり、雨は止まないかもしれない、でも小説の種、小説の最初の部分、いくらでも神さまが教えてくださるかもしれない――そんなことは考えもしないですね。 頭の中にあるのは、いかにしたら一時でも早くあの旅館にたどり着くか、しか考えていない。 そういう人は、7節の「あなた方の思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのこと心配してくださるからです」というみことばが、日常に何のインパクトも与えないですね。 やがてそういう人は病気して山に登れなくなったら、自分の力ではどうしようもなくなったら、ようやく7節のみことばが解るようになる。 そして振り返ってみたら、考えてみたら、あの時もイエスさまはそこにおられた。あの時もイエスさまは少し休むように私たちに仰った。 あの時もイエスさまは私たちを助けてくださろうと、助け手を送っていてくださった。 自分はなんと頑張りつつ、一生懸命走り過ぎて、つまらない人生を送ってしまったかなぁということを改めて考えた。 いいですか、皆さん。強行突破型のクリスチャンは多いんですよ。 そのことを止めて、そう簡単に、ゆだねる、ゆだねなさい。ゆだねられたら、と言わない方がいいです(笑)。 なかなかゆだねられない自分を意識しながら、「委ねよ」という讃美歌を歌うんですよ(大笑)。ね。 もう自分は本当に委ねられてます、みたいなそんな気持ちになって「ゆだねよ」という讃美歌を歌わない。 ほんとに委ねられない愚か者ですという気持ちで「ゆだねなさい」という讃美歌を歌うと、とっても意味があると思います。 ☆お祈り 恵み深い天の父なる神さま、様々なことがあると何とかなるものだと、強行に突破していく私たちを天からご覧になり、あなたは笑っておられることでありましょう。 それでもあなたは、所々に助け手を送ってくださり、いや、イエスさまご自身が私たちを待っていてくださり、さぁ、一緒に目的の旅館まで行こうじゃないかと。 でもそんなイエスさまを振り切って、先へ先へ急ごうとする私たちを憐れみ、ほんの一息ついた時に、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださる」(Tペテロ5:7)というこのみことばを、私たちの心に届けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。 |