題 名: 6/2 ピリピ(14)目標をめざして ピリピ3:12〜16 |
氏 名: T・Y |
作成日時: 2019.06.03 - 20:22 |
☆聖書箇所 ピリピ3:12〜16 12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。 13兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、 14キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。 15ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。 16ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。 ☆説教 ピリピ(14)目標を目指して 来週は6月の9日、ペンテコステになります。 ぜひペンテコステのことを覚えて礼拝にお越しください。 ペンテコステ前後して、聖霊のメッセージと思ったのですが、 ずっと元旦からピリピをやっておりますので、今年はちょっと淡々とこのピリピの手紙をご一緒に学んでいきたいと思うんですが―― 前回と今回は、ま、一番の山になっています。 私たちが好きなみことばがとても集中しています。 前回は、7節―― 7しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。 8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、…… このすばらしさのゆえに、人生の見方が変わったという話をいたしました。 そんなパウロには、そんな私たちには、人生のゴールがあります。 私たちは目標を目指して走っています。 1)パウロにとって、この世の人生は、天国を目指して走る人生です。 その目標を、パウロは8節の終わりに――「私がキリストを得ること」 9節には――「キリストにある者と認められるようになること」 それから10節には――「キリストとその復活の力を知ること」 10節の後半にありますように――たとえ「キリストの苦難にもあずかり、キリストの死と同じ状態になった」としても、 11節――「必ず死者の復活に達すること」 これらが、彼の人生の目標であります。 私たちは普段、この崇高なゴール、崇高な目標というものを考えることはいたしません。 例えば皆さんが、自分のモットーとする言葉を手帳に書いたり、あるいはスマホのメモ帳に「今週のやるべきこと」というのは、沢山あると思います。 最近は“to do List”と言いますか、やるべきリストというのがあって、そしてそれをこなしていくことに一つの目標があるわけですけれども、 そのリストの中に、「天国を目指して走る」なんて一言も書いてないでしょう(笑)。 まだ書くには早い、というところもありますよね(笑)。 でも、「私たちは天国を目指して走っているようなものなんだ」という意識を、日常生活の中に埋め込むために、 例えば“to do List”の中に、「祈る」というのを入れてもいいんじゃないでしょうか? “to do List”の中に、「聖書のみことばを読む」というのを入れてもいいんじゃないでしょうかね? “to do List” の中に、「時間を聖別して、祈祷会に来る」とか、あるいは「礼拝に来る」という意識があってもいいのではないか? と思う位、私たちは日常の出来事に埋もれてしまう傾向があります。 さて、そうなるとどうなるか? 死に瀕した時でさえ、「死」という最悪の事態を前にして足がすくみ、「自分は最期に、人生のこのゴールのテープを切ろうとしている」ということがイメージできないんですね。 私(藤本牧師)は牧師になるために神学校に行きました。 神学生の時代に実習がありまして、私の実習というのは、末期がんの病棟に行って、 午前中は病院のチャプレンがやる礼拝を手伝い、午後は末期の病棟を回って、一緒にお祈りをするという実習でありました。 神学校二年生で、ろくろく英語もできないのに、できるんだろうか?ま、できました。 それは、話すことが目的ではない。その方の話を聞いて上げるのが目的です。 別にアドバイスはありません でもその方が自分の人生の様々な事を語ることによって、「自分は人生の最後のテープをもうすぐ切ろうとしているんだ」というイメージ、その方がイメージできるようなお助けができれば。 あ、病室に牧師が来た。その牧師に自分の人生を話すことによって、 「自分はこの人生に別れを告げようとしているんだ。そしてこれから先、私を待っているのは天の御国なんだ」 と、このゴールの瞬間をいかにイメージできるか、なんです。 しかし思い出すんですけれども、なかなか簡単にこのイメージはできないですね。 病室を訪ねて、出会う方々に 「神学生なんですけれども、一緒にお祈りできることはありますか?」 って、これを尋ねることが先ず鉄則なんです。 勿論、寝ている方、それから苦しみの中にある方には声をかけませんが、 家族がいらっしゃいましたならば、同じことを言うというのが実習の目的なんですね。 2/3の方々は起きていても無言です。そして話しかけても無気力に、例えばテレビを観ている、こちらを向こうともしません。 関心がないというのではなくして、力がないのか、あるいは苦しいという以上に、自分が直面している局面に向き合うことができない。 私たちだって、そうです。もし定期検査に行って、 「あなたには癌があります。その癌がステージ4のAです」 って言われたら、これからどうやって向き合ったらいいんだろうかということに、頭が一杯ですよね。 色んな方法を考えますよね?やがてその色んな方法が尽きていった時に、間違いなく私たちは「死」というものに直面するんですけれども、 その時に、自分はどういうイメージでこの出来事に直面できるんだろうか?というと、そんなに簡単ではないですね。 1/3ぐらいの方々が、聖書を読んでほしいとか、先生の好きな聖書を読んでほしいとか、ご自分の方で詩篇23篇を読んでください、と仰る方もおられますし、ま、話を聞いてほしいと、それからおもむろに仰いますよね。 私たちは、死に際してゴールを見ることを嫌がります。 でもパウロは、元気な時であっても、信仰者はゴールを見て走ろうと(励ましているのです)。 THさんのようなマラソン・ランナーだったら、いかにゴールをイメージできるか? 記録も大事なんでしょうけれども、完走するということが最大のゴールですよね? そのゴールを見失うようなキリスト者になってはいけない。 一日の為すべきことは沢山ある。 一週間の計画はびっしりあるかもしれない。 当面の目標はこれかもしれない。 でも最終的に、私たちは皆、この人生というゴールを終わりまで行く。 ▼ピリピの手紙で、元旦礼拝で見ました1章の6節に―― <ピリピ1:6> あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。 これはもう覚えた方がいいですね。 「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださいます。」 キリスト・イエスの日が来る時に、私たちの人生はゴールを迎えるんですね。 それは一人ひとりの人生が完成に至る。 ▼(ピリピ)3章の14節をちょっと見ていただきます?―― 14キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。 賞をいただくというのは、ゴールの地点で、キリスト・イエスが賞を持って待っているということです。 ▼あなたが来るのを待っている――これが第二テモテですと、勝利の「栄冠」(***Uテモテ2:5。3:8では義の栄冠)という言葉になっている。 私たちの人生の先には、勝利の「栄冠」が待っているんだと。 この人生で栄冠というものにほとんど縁がない人生、私(藤本牧師)は栄冠なんて被ったことがない。 小学生の時に、せめて徒競走で一等であれば、なんかこんなものを付けてくれたりする学校もあるようですが、そんなものもつけてもらったこともない。 でも私たちの小さな努力、大きな努力も含めて、最終的にゴールでイエス・キリストは私たちに栄冠を被せてくださる。 ▼しかもですよ、(ピリピ3章)12節の終わり、ちょっと見てください。一番最後です。 12……そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。 この言葉は大きいですね。 自分で自分の力によって走っているだけではない。 キリスト・イエスが私を捕らえてその道を行き、そしてやがて勝利の栄冠を被ることができるように、主は私を導いてくださっている。 私たちの人生は色んな山坂があり、色んな苦労があります。色んな幸せもあります。 私たちの人生の目標はどっぷりとこの世のこと、この世界のことに浸かっています。 でも、たまには聖書を開いて、「実はこの人生はこのゴールに向かっているんだ」ということを思い出すということが今日の第一番目のポイントです。 二番目のポイントは―― 2)そうなりますと、この言葉は非常に大事になります。 (ピリピ3章)13節は途中で切れますが、13節を一緒に読んでみたいと思います。 13兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、 ゴールに向かう人生というのは、うしろのものを忘れる人生。 「うしろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって」とはいったいどういうことなのだろうか? うしろのものって、なかなか忘れられないですよね? うしろっていうのは、これまでの自分の人生って思ったらいいです。 良きにつけ、悪しきにつけ、自分が犯した過ち、自分が築き上げて来た成功、霊的なものも日常的なことも、自分は様々な培われて来た自分を持っているわけです。 60年、70年の生涯の中で培われて来た自分がある。 それを忘れるというのは、それに執着しないということです。 これまでの自分の人生に執着せず――それは信仰人生も含めてです――私は明日に向かって開かれている。 パウロが言う――「私は明日に向かって開かれている」。 その明日に待ち受けている更なる試練もあるでしょう。でも更なる恵みもあるでしょう。 それに向かって、私は開かれている。 ですから、これまでず〜っと自分が歩んで来た人生に執着せず、捕われることをせず――それができない限り、私たちは所詮前向きにはなれないですね。 先日、ノートルダムの大聖堂が焼けたという、あの火事の出来事がありました。 私のような世代の人間は、もしかしたら思い出したかもしれない。 それは日本の思想家に森有正(もり・ありまさ1911〜1976)という人がいますが、その人が書いた本に「遥かなるノートルダム」という本があります。 火事とは全然関係ないんですけれども、私はふとその本を思い出しました。 森有正というのは、洗礼を受けていた人ですが、戦後まもなく東京大学で教鞭を執っていたそれを、彼は辞めます。 フランスに国費で留学をします。そのままパリに住みフランス人の女性と結婚し、そして家庭を持ちます。 多くの著作を残し、いつも日本人に向けてパリからメッセージを発していました。 その著作の一つが「遥かなるノートルダム」ですけれども。 この書物を出して様々な文学賞を取った彼は、帰国して講演をいたします。 その講演の中で一番有名なのが、国際キリスト教大学でなされた「冒険と方向」という講演なのですが―― 彼は大学生に向かって語りました。 「真の冒険というのは、別に南極体験、北極体験だけではない。 新しいものに触れて、自分自身も新しい者になる――そういう生き方が冒険なのだ。」 新しいものに触れて、自分自身も新しい者となる。 例えば新しい聖書のことばに触れることによって、自分自身の信仰が新しくなる、というのは冒険です。 でも、自分の好きな聖書の言葉ばっかり読んでいて、自分流の解釈しか受け入れられない人は、自分のうしろを決して離さないんですね。 森有正は言いました。 「人は普通自分の回りで起きたことを、そのまんま受け入れることができない。 ですから、その中で自分が気に入ったことだけ、自分に適合するものだけを取って、自分に当てはめる。そして残りのものは捨ててしまう。 自分に都合の良いものだけを取り入れて、自分に合わないものは大体人は捨ててしまう――それは冒険とは反対だ。」 言い換えれば、取り入れるものがもし何もないとすれば、その体験というのは苦痛、苦難にしか過ぎませんよね? 何も学ぶ事なく、何も味わえず、苦虫を噛み潰したようにその暗いトンネルを通り過ぎる以外に方法はないですよね? この森有正とものすごく比較される、有名な留学した人物がいます。 それは森有正よりも100年も前に、イギリスに留学した夏目漱石です。 夏目漱石は留学先のイギリスに親しめませんでした。 彼は段々自分の部屋から出なくなります。 そして非常に鬱的な人生を送るようになって、早々に日本に帰って来ます。 よく言われることは、私たちが全然違う環境に飛び込み、予想もしない出来事に出会った時に、私たちは自分の内側に閉じこもるようなタイプになるのか? その中から20%自分に適合するものだけを取り入れて、あとは全部捨ててしまうのか? 冒険的な信仰を持っている人は、うしろのものを忘れ、前のものに向かって、今の現状の中から100%向き合うと。 森有正は、そういう人物は冒険的な人だと。 パウロが言うには、そういう人は、最終的に、(ピリピ3章)13節を見ていただけます? 13節の一番最後に「前のものに向かって、身を伸ばし」。 前のものに向かって、ひたすら身を伸ばす。 うしろのもの、自分が積み上げて来たこと、良くも悪くも「これが自分の信仰であり、自分の人生だ」というものに執着せず、 神さまがなおも与えてくださる私たちの信仰の『伸びしろ』というのがある。 「あなたの信仰はまだ伸びる」「あなたの信仰はまだ成長できる」 そういう風にして、私たちは前のものに向かって手を伸ばす。 これ、若い人には簡単でも歳をとったら難しい――いや、必ずしもそうではない。 若い人でも難しいでしょう。 私(藤本牧師)は、姉(高津のオルガン奏者TMさん)と一緒に協力して、 93で骨折をして、人工股関節を入れた父をほぼ見舞っているうちに、 自分が病気になるんじゃないかと思う程(大笑)。 姉はよく山とか登りますので、色々行くのは得意なんでしょうけれども、 私(藤本牧師)は出不精で、人生溝口だけで十分だ(大笑)、と考えている人間ですから、 もう二子玉川に行ったら冒険ですね(大笑)。 新横浜で新幹線に乗った段階で人生の終わり(大笑)って位、私はこの世界だけでもう十分なのですね。 父が、ま、本当に努力して、どういう風にしたら、ベッドの上で寝返りを打てるようになるか? どういう風にしたら、ベッドの中で位置を変えられるか? どういう風にしたら、別にリハビリの時間が来なくても、握力を鍛え、そしてひざをおへそに引き付けて腹筋、大腰筋を鍛えていくか? それを教えますと、忠実にそのメニューをこなし、何とか歩いて帰りたいとしているっていうのは、93になってもまだ『伸びしろ』があるということですよね? それをお医者さんは普通に信じているから、手術をするわけでしょう? で、手術が終わった後に、父は言われていました。 「手術は成功ですよ。あとは藤本さん次第です」と。 そりゃ、本人も疑っているでしょうね? 「手術は成功したとはいえ、10日間寝た切りだったら、あとは私にかかっていると言われても、果たしてそれができるんだろうか?」 と、本人は疑っていると思うんですよね。 だから私たちが行って、「できる、できる」と(励ます)――私たちも疑っているんですけれどね(大笑)。 私たちも本当は出来るのかな?と思いながらも、 でも神さまの力によって、一歩一歩できている姿を見ると、あ、『伸びしろ』って人それぞれにあるんだと。 それは『信仰の伸びしろ』っていうのもあるんだと。 神さまは様々な試練を与えて、前のものに向かって身を伸ばすという姿勢を、うしろのものに捕われないだけではない。 でも天のゴールに至るまで、私はもうすでに捕らえた、なんて思っていない。 いつでもその『伸びしろ』っていうのは、私の前にあるんだ――ということが二番目です。 三番目に―― 3)ゴールに向かって走っている (ピリピ3章)14節の最後ですが、 14キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。 パウロは敢えて言うなら、一人で走っているのではないです。 一緒に学びましたよね。テモテと共に走っている。エパフロディトと共に走っている。ピリピの教会の信仰者と共に走っている。 この信仰レースはパウロのものだけではないです。 パウロが捕らえたかったのは、他に福音を伝える者もいる。 かつて自分が挫折した時に、彼はダマスコの途上で(復活の)イエス・キリストと出会い、その後しばらく郷里に帰ります。 当然ですよね。今まで教会を迫害していた彼を誰も用いてくれないです。 でもそんなパウロを、郷里から表舞台に引き出したのは、バルナバでした。 アンテオケに大きな働きが始まります。よし、パウロの助けを借りて来よう。 やがて、このパウロとバルナバが小アジア地域の伝道に出かけて行きます。 その時一緒に連れて行った青年マルコが、挫折して途中で帰ってしまいます。 マルコはその時のことを反省して、二回目の伝道旅行でも「私を連れて行ってくれ」と言った時に、パウロは「いやいや、君には無理だろう」と。 でもバルナバはマルコを連れて行きますね。別の地方に行きます。 そしてやがてマルコは成長して、マルコの福音書を記すようになるわけですよね。 目標を目指して一心に走っているんですけれども、私たちは皆どこかで挫折し、どこかで助けられ、そしてどこかで助ける――これが信仰者のレースです。 どこかで挫折し、どこかで助けられ、そしてどこかで助ける。 十数年前のトリノのオリンピック、女子のクロスカントリーの話で、皆さんもテレビで見たことがあるでしょう。女子のクロスカントリー。 最後の一周で、四人の選手がトップを走ります。トップ集団を形成します。 トップにいたカナダの女子の選手のストックが折れてしまいました。 その瞬間に、彼女は4位に落ちてしまいます。 ところが沿道から、代わりのストックが差し出されるんですね。 カナダの選手はその代わりのストックを受け取って、奮闘してなんと2位。銀メダルを取るんですよ。 一番メダルを期待されていたノルウェーは、四位に落ちてメダルを逃してしまったんですね。 すると、競技が終わって一番話題になったのは、誰がカナダの選手に代わりのストックを差し出したのか? 一生懸命皆さん映像で確かめながら、いったい誰が差し出したんだ? なんとそれはノルウェーのチームのコーチでした。 ストックをカナダの選手に渡したおかげで、ノルウェーの選手は4位に落ちるんですね。 そしてカナダの選手が、受け取ったストックを使って2位に入るんですね。 ノルウェーのコーチは当然注目を浴びるようになります。 そして彼は語りました。ノルディック競技の精神というものをね。 「そもそもクロスカントリーというのは、雪国では交通手段、生活手段、移動手段。 それは競技ではない。 そもそも走る者みんなが無事にゴールするということが、この競技の精神なのだ。 私はお祖父ちゃんからも、お父さんからもそれを学んで来た。 それが競技となった今になっても、互いに助け合って初めて、クロスカントリーというもの(雪上のマラソン)は成り立っている。」 皆が、走る者皆が無事にゴールする。 挫折する者があれば、助ける者もいる。 時に助けられる。 そのように考えますと、パウロが人生を「目標に向かって走る競技」に例えた時に、 私(藤本牧師)は、それはクロスカントリーだろうなぁという風に思いました。 誰かのストックが折れていたら、ストックを差し出してあげる。 そして必ずストックは折れる。でも諦めない。高津教会家族全員がゴールに到達する。 そして主が用意してくださっている賞を受ける。 これが私たちの教会の姿であろうと思います。 お祈りをして終わりにいたします。 ☆お祈り――藤本牧師 12……そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。 13兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、 (ピリピ3章12節後半と13節) 恵み深い天の父なる神さま、今日学びました天国を目指しての究極のゴール、そんなことを私たちは恐らく、今週一度も考えることはないのかも知れません。でもこの究極のゴールが自分の人生の最後に必ずやって来る。やって来た時に、いや、それを意識した時に、それでもうしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばすほどの『信仰の伸びしろ』が自分自身にある。 新しく訪れた状況は、自分の喜ぶべきものではないのかもしれません。しかしそれをそのまんま引き受ける時に、私たちの内側に勇気が与えられ、励ましが与えられ、私たちは必ず前のものに向かって身を伸ばすことになる――あなたのこのお約束を心から感謝いたします。 どうかいつでも、互いにストックを渡す教会でありますように。よく祈り、よく励ます教会でありますように。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。 |