題 名: 3/16献児式・年会後説教:冷笑主義を越えていく ルカ8:40〜56 |
氏 名: T・Y |
作成日時: 2014.03.17 - 19:34 |
☆聖書箇所 ルカ8:40〜56 40さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。 41するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。 42彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。 43ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、 44イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。 45イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」と言った。 46しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われた。 47女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。 48そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」 49イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」 50これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」 51イエスは家に入られたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょに入ることをお許しにならなかった。 52人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」 53人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。 54しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」 55すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。 56両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。 ☆説教 冷笑主義を越えていく 昨日帰りの新幹線、新横浜に来る前に、ああようやく説教が終わったと思ったのですが、ちょっといろいろ迷いまして七転八倒し、そして今朝もまた礼拝ギリギリまで迷い、もしかしたら割とスッキリしない説教かも知れない。いいですか、今日はなんか、先生切れ味が悪いなぁと言われる(大笑)か、その〜ぐるぐる回るか。 と言いますのは、聖書を2箇所扱います。で、私はあまり聖書の箇所をポンポン飛びませんので、ちょっと許していただいて、実際ゆっくり考えていただきたいのは、後半の聖書の箇所だということも頭に入れながら、一緒にお付き合いいただきたいと思います。 キリスト教信仰は戦うところの二つのイズムがあると言われます。 イズムとは、「○○主義」と言われるものです。 一つは、エゴイズム(自己中心主義)です。 エゴイズムの本質は、自分を大きくすることです。 それは人との比較で自分を大きくするのみならず、神と自分との関係で自分を大きくしていきます。 ですから私のものの考え方、会話、言葉遣いの中に、いつでも私が、私は、私の、私を、私のもの、私の人生、私の家族、私の仕事、私の身体、私の幸せ、私の老後、全部にこの私がついてまわります。 私たちはあまり気がつきませんけれども、これはものすごく臭う。 臭いという字は自分を大きくすると書きます(笑・なるほど)。 そして私たちはよくわかっているように、自分で自分の臭いはわかりません。 自分で自分の臭いはわからないのですね――と、年齢を重ねて(大笑)とても実感するようになりましたと――これは年齢の問題ではないかもしれませんけれども、世の中一般ではそういう風に言われますね。 でも、人はすぐに、皆さんがよそにお宅にお邪魔しますと、そのお宅の臭いはすぐにわかりますでしょう。 人の臭いには敏感であるけれども、自分の臭いには鈍感であるという、この私たちの姿が、ついつい自分の臭さを忘れて自分をますます大きくし、そして覚えておかなければいけないのは、そのようにして大きくなってしまった自分は、神さまにとってはさらに臭いということ。 もう一つ、キリスト教が戦うイズム――それは、シニシズムです。 シニシズムというのは日本語では、冷笑主義、冷たく笑うと書きます。 今日はこっちを一緒に考えていただきたいと思います。 どういう言葉遣いかというと、 「どーせ、無理だよ」 「だって、そんなに簡単に変わらないもの」 「でも、ぼくには無理だからね」 何かをやってみる前に、実行する前に、敗北の理由と根拠が十分に自分の内側にある。 どーせやっても変わらない、だって無理は無理だから、と。 そして、周囲で何かを躍起になってがんばろうとしている人を冷たく笑うというのがシニシズムです。 「何であんなにがんばるのだろう。どうせ、駄目なのに」――この冷笑主義・シニシズムが、私たちの信仰の腰を折る。 今日は、これを少し深〜く考えてみたいと思いますので、お付き合いいただきたいと思います。 ヤイロの記事を見ていただきました。 41節を見ますと、40節からですね―― 40さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。 41するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。 42彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。 死にそうな娘のために、十二歳の娘のために父親がイエスさまに助けを求めて駆け寄っている。 会堂管理者というのは、(社会的にも)大変立場のある人物でしたけれども。 ユダヤ教の指導者たちが、こぞって批判しているイエスさまの所に走って来て、足もとにひれ伏すというのは、切羽詰まった状況なのか、少しばかりの信仰を彼が持っていたのか、でもとにもかくにも、足もとにひれ伏してイエスさまに願うのですね。 イエスさまは快く引き受けて、急いでヤイロの家に向かって行かれました。 ところが、ところがです。43節に、 43ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、 44イエスの後ろに近寄って、…… というこの出来事が間に挟まってしまうのです。 どれくらいの時間が経過したのかはわかりません。この女性と関わっている間に、49節見てください。 49イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」 もう先生を煩わすことはありません。もう亡くなってしまわれたからです。 今日の話の第一番目―― 1)もうダメですという現実が私たちの目の前にある。 これは現実ですから、嘘偽りなく、ダメな状態。 この現実に直面したときに、もしかしたら娘が癒されるかもしれないと、期待感に膨らんでいた父親の胸に、あきらめの川が注ぎ込んでいきました。 そうか、駄目だったか。間に合わなかったと、希望は絶たれるわけですね。 で、この伝令の者のことば、「……もう、先生を煩わすことはない」(に応えて)――イエスさまは50節に「いや、いや、わたしを煩わせなさい」と仰る。 50これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」 というのは、わたしを煩わせて(よい)、わたしがあなたのところへ行くと(いう意味)。そして死んだヤイロの娘を復活させるのですね。 「煩わせる」というのは、現実に敢えて立ち向かわせる、現実の不可能性に敢えてチャレンジする(ということ)。 イエスさまはこの表現をもう一回使っているのです。 ちょっとそれをルカの福音書で見ていただきたいと思うのですが、ルカの福音書の11章の5節〜9節までを交代に読んでいきたいと思います。 11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。 11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。 11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』 11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。 11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 ここに、7節に「面倒をかけないでくれ」と出て来ます。これが、煩わせないでくれということです。 でも8節に、「……あくまで頼み続けるなら……」 そして9節に、どこまでも求めろ。あくまで探し続けろ。しつこいばかりにたたけと、イエスさまはそういう風に話を持って行かれました。 人間の世界だって、しつこく諦めずに頼むなら(聞かれるのだから)、必ず天の父であるあなたがたの神はあなたがたの願いを聞いて下さる。 しつこいばかりの私たちの願いと祈りを、神が煩わしく思うはずはない。 いや、祈りと願いの世界で、神を煩わせるくらいに、しつこいと思うくらいに祈り続け、求め続けなさい。 なぜなら、諦めてしまうということは、信仰と一番矛盾する。 どうせ無理だよ。だってだめだったから。でも自分には力がないよ――これが一番厄介で、これを言い始めると、このシニシズムはあなたがたの信仰を削り取っていく。 さて、先ほどのヤイロの話に戻りたいと思います。 ルカの福音書の8章ですが、50節に――、もう一回読みますよ。 50これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」 50節の頭、「これを聞いて」――イエスさまはこの会話を聞いておられました。 マルコの福音書(***5:36)では、イエスさまは「そばで聞いて」となります。 そばで聞いては、ギリシャ語でパラクウーオー、傍らで聞いたという意味です。 パラは傍ら、クウーオーは聞く。 英語の訳ですとoverhear。 ギリシャ語のパラクウーオーも英語のoverhearも二つの意味があります。 一つは、盗み聞ぎした。思わず聞いてしまった。 もう一つの意味は、思わず聞いてしまったのだから、信用するなという意味がある。つまり無視しろ。 皆さんがoverhearという英語の単語を辞書で引きますと、傍らで聞くという言葉と無視するという言葉と、両方載っていますよ。 聖書の訳もどちらで行くかは、その聖書次第であります。 でもその二つの訳は両方とも成り立ちます。 なぜならイエスさまは、いつも私たちの傍におられて、私たちの所に届く様々なニュースに耳を傾けておられる。 そして、それが悪いニュースであるときに、私たちの心が騒ぐときに、イエスさまは傍らにあって仰います――相手にしなくて良い。恐れないで、わたしを信じていなさい。 会堂管理者のお嬢さんは息を引き取りました。 つまり信じる根拠もない、希望もない。 それでも主は、「恐れずにわたしを信じていなさい」と仰いました。 会堂管理者は恐れずに信じます。そして、一旦死んでしまった娘が復活するという喜びの奇跡を体験します。 そこには、冷笑主義(シニシズム)のかけらもありませんでした。 現実的には望みの可能性をすべて絶たれた中でも、なお信じてすがっていく信仰を彼は持っていました。 で、私たちは持っているでしょうか?と言われると、 2)「絶望の中で恐れず主を信じ続ける」信仰は、大体持っていない私たち (私たちは、そんな信仰を)大体持っていないという記事を一緒に見て、そして今日のメッセージとしたいと思います。 聖書の一番最初に創世記があります。創世記の18章を見てください。 会堂管理者のような信仰は私たちは大体持っていない、という前提で、この創世記の18章の10節から、大変興味深いので、15節までをまず交読したいと思います。 これはアブラハムとサラに子どもが生まれる、アブラハム99歳、サラ90歳の頃ですね。 18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。 18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。 18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」 18:13 そこで、【主】がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。 18:14 【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」 18:15 サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」 あのねぇ、私(藤本牧師)今回初めてこの記事をものすごく興味深く感じたのです。そのことをメインにお話しして、今までの流れを一つにまとめてみたいと思います。 アブラハムは99歳。そしてサラは90歳ですね。そして若い頃から神さまの祝福を受けて、必ず子どもができる。 「あなたの子孫を海の砂浜の砂のように、天の星のように増やす」(創世記15:5)と仰ったのに、一向に子どもは与えられず、最終的には、サラの女奴隷ハガルを夫のもとに送って、そうしてイシュマエルという子どもができた。 これでよかったのだ、このイシュマエルが自分たちの子どもになるんだ、と思ったアブラハムに対して神さまは、いやそうはならない(と仰った。17:19)。 そうはならないって、一体どうするんですか?とアブラハムは思う。それがアブラハムがもう99歳ですよ。サラが90歳の時までずっと来るわけです。 神さま、あなたがもう少し早く約束を成就してくださっていれば、私の家庭はこんなに複雑にはならなかった――アブラハムはイシュマエルとそのハガルの問題でものすごく悩むわけじゃないですか。 どうしてこんなギリギリに、しかもですよ。自分は99歳でサラは90歳だとすると、これはねぇ、笑って当然ですよ。私(藤本牧師)そう思うようになった。笑って当然。 実はアブラハムも笑ってますもの。 17章の17節をちょっと見ていただけますか? 17:17アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても九十歳の女が子を産むことができようか。」 実は笑ったのは、サラだけではなかった。それはアブラハムもで、それはね、可笑しくて笑ったのじゃない。多分。 それこそ冷笑主義的な笑いですね。――だって、私たちは99と90ですよ。どうせ、今まで何度となくお約束を私たちにくださり、どこまでもそれを、ま、成就してくださらなかったじゃないですか。そして今になって、どうしてそんな約束を持って来られるのですか?(という夫婦の積年の思いから来る笑いでしょう)。 私(藤本牧師)はときに、シニシズムが当然と思われるような世界に自分たちが住んでいるのではないかと思います。 ところが、18章の14節、15節。もうこれで終わりにしますので、ちょっと見てください。 18:14【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」 18:15サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。 「恐ろしかったからである」という言葉の中に、冷笑主義から生まれる信仰というものを私(藤本牧師)は感じました。 3)冷笑主義からでも、みことばによって全能の神への恐れを抱くなら、それも信仰といえる サラは恐ろしくなって、自分が笑ったという事実を打ち消します。 神さまの全能の力を前にして、神さまの全能という可能性を前にして、自分の苦労も自分の努力も自分の現状も全く問題にもしない神さまの約束を前にして、彼女は思わず恐ろしくなって、自分の笑いを打ち消す。 どうせ無理だろうと心の中で笑うことは、ままある。 でも私たちは聖書の中で「神さまにとって不可能なことは一つもない」というみことばを読んだ途端、自分の苦労も自分の努力も自分の現状も全く問題としない神さまの前で、思わず信仰の襟を正して、このお方に恐れを抱く――それも私(藤本牧師)は立派な信仰であると思う。 先週の年会で、米国ウェスレアン教会のライアン先生という女性の先生がいらっしゃいまして、聖会説教を一回してくださいました。 これまでずっと、私たち(インマヌエル教会)とウェスレアン教会は仲の良い関係で、総会や年会に講師が行き来するということは、実はありましたけれども、これまでアメリカにはプレジデントが三人いました。 初めての女性プレジデントを、しかも人数を一人にされた。いらっしゃってよくわかりました、あぁこの人は男性3人分の力があると(笑)。 男性3人分以上ですね。主婦であり、4人のお子さん、6人のお孫さん、博士号を持っておられて、そして教団の一人の代表で世界中を巡りですが、実はこの方の働きは、ウェスレアン・ワールドホープという小さな慈善団体から始まるのです。 ちょっとその話をしますので、聞いてください。 小さな慈善団体を立ち上げ、教会中から献金を集めて、カンボジアと関わるようになるのですね。 そして内線後、全く立ち上がる気配のないカンボジアを、ある日視察に行く。 その時点で、カンボジアにウェスレアンの宣教師を一人送っていた。 で、大体の用件が終わって帰ろうとしたときに、「一つある光景を見てくれませんか」と宣教師に頼まれて、出て行かれるわけですよ。 「以前は10名ぐらいだったんですけれども、今は何十人といるのです」 その通りに立ちますと、バラック小屋がずらっと並んでいて、バラック小屋の前に白い椅子が置かれている。 その白い椅子に子どもたちが全員座らされていて、そして椅子の前に「売り物」と書いてある。 ま、クメール・ルージュの政権の後、カンボジアの知的階層140万人が虐殺され、みんな果樹園に穴を掘って、薬品掛けられて埋められ、それがいま骸骨の仏舎利塔として――どこだっけ、クアラルンプール?じゃない、カンボジアの首都は――プノンペンにいくつもある。 カンボジアの国というのはもう二度と立ち上がることができないだろうと言われていた国です。 でも今はショッピングモールがあり、空港も新しくなり、日本企業の方々もどんどん入って行きますけれども、1970年の後半〜80年代というのは、もう空港はバラック小屋、海外との接触は一切なしですね。 それからしばらくして、宣教師がポツリポツリと入って行って、一番問題になったのが、人身売買です。 その人身売買は、労働力として、あるいは性的な産業の目的として、そして最終的には臓器移植の調達先として(なされた。) ライアン先生は町の一角で呆然として立ちすくみ、宣教師の先生と一緒に祈った。 帰国して、その時撮った写真を用いて記事を書く。 それが巡り巡って、やがて彼女は当時のブッシュ大統領から、大きな政府資金を取り付けて、最初はたった一つの机、たった一つのコンピュータしかなったオフィスが四十人ものスタッフを抱えるようになる。 そして、世界各地に神さまの愛を届け、福音を伝える責任を担うようになったという証しをしておられた。 今はその働きを後にして、教団全体の責任を負っておられますけれども、でもそのバイタリティー、信仰の活力というものは生半可ではないですね この先生が(先週年会に)メッセージに来られて、「神さまに願いなさい。大きなことを願いなさい」というタイトルで説教をされました。 つまりカンボジアの悲惨な街角で祈った祈りが、やがて大きな力となって、カンボジア宣教が始まっていく。 私(藤本牧師)は、ああ、これが私が聞かなければならないメッセージだと思いました。 つまり日本の伝道の難しさ、引退する牧師の数、献身者の現状、これがインマヌエルだけならまだいいのかもしれません。 でも、これが日本の教会すべてに当てはまるとしたならば、アブラハムが99歳になったということ、あるいは会堂管理者ヤイロの娘が既に死んだ、ということと、さして変わりがない。 年会にいらっしゃる先生方が、多くの方々が杖をついておられる。 もちろんいらっしゃることのできない先生方も沢山いらっしゃいます。 ライアン先生のメッセージを聞いて、そりゃあ私たちの心にふっとよぎるシニシズムがありますよ――ま、アメリカとカンボジアだから可能なのかなとか(笑)、ブッシュ大統領なら出すかもしれないけれども、安倍総理にどんなに話しても一銭も、びた一文も出さない(大笑)ような気がするねとかね、それはシニシズムは全身を走りますよ。 でもそのように心の中で笑う私が、聖書の中から「神にとって不可能なことは何一つありません」(創世記18:14)というみことばを見た瞬間、あるいはイエス・キリストの「恐れないで、ただわたしを信じていなさい」(ルカ8:50)というみことばを見た瞬間、心の中で笑った自分が恥ずかしくなり、神に対する恐れを感じた。 それは、全能なる神さまを侮ってはならないと(いう戒めを聞く思い)。 現状は厳しいかもしれない。そしてシニシズムは信仰の腰を折ることがよく分かっていたとしても、そして往々にして腰が折られている私たちだとしても、そのみことばを見た瞬間、私たちは心の中に何とも言えない恐れを感じてしかるべきです。 そして改めてそのみことばを読みながら、「神にとって不可能なことは一つもありません」という可能性に、いかに自分がしつこくしつこく依り頼むか、そういう恐れを抱いて、新しい年度を皆さんとともに始めたいと思います。 ☆お祈り 14【主】に不可能なことはあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。 15サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」 (創世記18章14〜15節) 「いや、確かにあなたは笑った」(創世記18:15)と(神さま、)あなたは言われる。はい、笑いました。私の心の中にあなたの愛、あなたの力を疑う思いがあり、笑う時もあり、不安のるつぼに陥れられる時もある。 なぜなら、あなたの約束がなかなか成就されず、いつの間にか、私の信仰の腰が折られ、でも「主に不可能なことがあろうか」と言われたら、そして「恐れないで、ただ信じ続けなさい」と言われたら、私たちは思わず、心の中の笑いを打ち消してでも、それでもあなたの全能にかける、という思いが確かに与えられています。 どうかその新しい思いをもって、春を迎えることができますように、私たちの教会を力づけてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。 |