☆聖書個所 出エジプト32:1〜6
1民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」 2それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」 3そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。 4彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。 5アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは【主】への祭りである。」 6そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。
☆説教 神の人モーセ(33)不安の中で
ごめんなさい、私(藤本牧師)週報に書くのを忘れました。教会HPが少し変わりまして、これまでの全部の説教と、牧会報告と、それから牧会祈祷を読むためには、IDとパスワードが必要です。説教だけ読むのでしたならばなくても見れますが、ちょっと来週の週報に書きますが、つまり高津教会家族専用のページができています。そこに入るためのIDとパスは……です。
どうかそのことを覚えていただいて、みなさんに知らせてください。この際ですから、一度もHPにいらっしゃったことのない方もおいででしょう(笑)。PCがあれば一度お越しいただきたいと思います。 自慢ではありませんが、あのHPのおかげで日本に名の轟く教会になっています(??大笑)。それで実はあのHPのおかげで、世界にいる日本人キリスト者にもよく知られた教会です。それはひとえに時空を超えるあのHPがあるからです。説教があれほど毎週更新されているのはうちの教会ぐらいなものですから、是非ご覧いただければと思います。
さて、モーセの生涯から見てまいりましたが、出エジプト記の32章にいきなり飛んでいますが、ずっと24章から十戒の話を見てまいりました。(十戒は)20章からですね。十戒が終わった場面が32章ですが、ちょっと31章の18節を一緒に読んでおきましょう。
31:18こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。
(この節)で、シナイ山における神の十戒の板の話が閉じられるのですね。 そこで32章の1節に――
32:1民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」
クリスチャンの精神科医で田中哲(さとし)先生という方がいらっしゃいますが、有名な『見えますか、子どもの心』という本を書いておられます。 その中で田中先生が(言っておられるのは)、人間というものはいろんな不安を持っているけれども、生まれて初めて抱く不安というのがある。生まれて初めて人間誰しもが抱く不安というのは――もしかしたらお母さんがいなくなってしまうことがあるかもしれない――そういう不安だというのですね。
幼稚園生から小学校3年位までのこども、その登園拒否、登校拒否に陥る原因には、多くの場合学校ではなく、母親と自分との絆が切れてしまうという不安が子どもの中にある時に、往々にして登校拒否になるのだと先生はおっしゃっておられます。――自分が学校に行っているうちに、お母さんがいなくなってしまったらどうしよう(、という不安です)。
子どもはお金のことは心配しません。お金のことで不安な子どもって見たことない(笑)。生活のことも普通子どもは呑気ですね。食べ物のこともそうですよ。洋服のことも心配しません。同じものを年がら年中、まぁ着たきりすずめのように着せられていても、子どもっていうのはそのことによってあんまり心配しないです。
でももしお母さんがいなくなったら、ものすごい心配だそうです。なるほど、それこそ人間が初めて味わう不安なのだろうなぁと思います。 直樹がまだ小さかった頃、私たちはアメリカの教会にいたのですけれども、大きな所は午前二回礼拝があり、その間に交替できるように婦人会の方が、ベビーシッターをしておられる。最初はよかったのですね。最初は手を振ってバイバーイで、私たちは礼拝に行き、赤ちゃんはベビーシッターで済んだのですが、ある時からものすごく泣くようになりました。
あるイースターの礼拝、礼拝から戻ってまいりましたら、そこにいたのは、ボロボロに泣いた息子と、なんとその息子を抱っこしていた、きれいなドレスを着ておられた若いお母さんの胸元でゲボ(大笑)をして、とんでもない事になっているその姿を私たちは発見しまして、その日以来、もう直樹はベビーシッターのところに行けなくなってしまいました。
こちらにしてみれば、必ず戻ってくるのです。戻ってくるからね、と言うのですが、その日本語が通じているかどうかはわかりません。でもそこに何らかの形で心理的なズレが生じて、子どもはなかなかその不安を乗り越えられない。
今日読んでいただいた聖書の個所をじっくり考えてみますと、ここに描かれているのは私たちそのものだなぁと思います。ちょっと説明しましょう。 前回まで神の民となったイスラエルの人々が、これから先、神の民にふさわしく生きていくために、その信仰生活の基本となる十の戒めを神さまからいただきます。 それを受け取るために、モーセがシナイ山に上って行った場面をずっと私たちは見てまいりました。
31章の18節に「こうして主は……」と、このシナイ山の場面が終わろうとしているのですが、その間の40日、民が何をしていたのかというのが、32章に記されているわけです。 40日間、モーセの顔を見ることもなく、声も聞くこともなく、ふもとに残された民は、だんだん不安に陥っていきます。 モーセは山からなかなか降りて来ない。アロンのところに詰め寄って言いました。アロンはモーセの兄さんですね。モーセとアロンは神によって遣わされた使者ですけれども、そのアロンに向かってこう言います。(1節――)
1「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」
まぁ確かにそうなのです。それは山は雲に包まれ、神さまが降りて来られた時に雷鳴が鳴り渡り、その中にモーセは入って行った(***24章)のですから、その後40日間音沙汰がないとしたならば、あの時モーセは死んだに違いないと思われても何ら不思議はないでしょう。 一週間で遅いな、まだかなぁですね。二週間で、何を手間取っているのだろうとイライラしますよね。そしてしばらくしますと、モーセは死んだに違いないという、この事態の異様さに不安を抱くようになるわけですよね。
この場面というのは、何だ、薄情な民だなぁ、と読んでしまったら終わりです。決して民は薄情ではない。そしてその信仰が翻ったわけでもない。ここに記されていることばは、私たちが往々にして言うことばなのだと思いながら、1節をちょっと中心に今朝は見ていただきたいと思います。
モーセがいないというよりも、民が思っているのは、神がおられない、神は答えてくださらない、神さまはおられないのじゃないかという、そういう思いが蔓延していくのです。 私たちも物事がうまくいかないと、神さまの答えがなかなか返って来ないと、神さまが隠れてしまったような気がする、自分だけが置き去りになってしまったような気がする、そういう不安に陥ってしまうものです。 さてそんな時に、人はどうなるのか?どういう状況が展開されていくのか?(ということを、今日は2つのポイントで話します)。
1) 人間的な弱さが露呈します
1節の後半部分、ちょっとよく聖書を見てください。
1私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからない(から)。
これは独特な表現です。聖書の中に、「イスラエルの人をエジプトの地から連れ上ったのはモーセである」と書いてあるのは、ここだけです。そんな表現、出て来ないです。 民も、私たちもそうですが、一貫して聞かされて来たのは、「人々をエジプトの奴隷から解放し、紅海を二つに分け、乾いた地を渡らせ、エジプトの軍隊を全滅させ、荒野で水を湧かせ、天からマナを降らせ、人々をエジプトの地から連れ上ったのは神さま」です。
ずーっとそう言われて来て、そう記されて来て、そう聞かされて来たにもかかわらず、ここで初めて神さまを忘れて、「モーセが私たちを連れ上った」と、そういう表現が出て来るわけです。 神がイスラエルの人々をエジプトの地から連れ上ったにもかかわらず、急に人々の目は、神さまではなく、モーセの方に向いてしまったということです。
いいですか、これをよ〜く覚えておいてください。物事がうまくいかなくなると、あるいは事態が変わりますと、私たちの人間的な弱さが露呈します。 その時に、私たちは神さまではなく、途端に人間に目が行くようになる。 確かにモーセはカリスマ的な指導者だったに違いない。そのモーセは一貫して神さまを指して、この方こそ神であるということを教え、民もそのように信じて、ふるまって来ました。 しかしモーセがいなくなりますと、神さまが見えなくなってしまう。自分たちをエジプトから連れ上ったのはまるでモーセであるかのように、人間的なことを言い始める。
これは教会に当てはめると、ものすごくよくわかりますね。 ひとりの牧師のもとに、例えば教会は成長するかもしれませんね。その牧師の信仰によって、教会は引き上げられるかもしれませんね。でもその牧師が一貫して教えて来たことは、「ひたすらキリストを見上げて」ということですね。
ところがその先生が天に召されたり、転任したりしますね。その先生が見えなくなると、あたかも教会はその先生を軸に、それまで存在して来たかのような論理がまかり通るようになる。その先生の素晴らしい思い出が、教会の伝説に変わってしまう。
生きていた時には、そこにおられた時には、その先生を通して教会員はまっすぐキリストを見ていたのです。ところがその先生が取られた途端に、まっすぐにキリストが見えなくなってしまうという人間的な弱さを、私たちは誰もが抱えているのです。抱えていない人はいない。 でも気を付けなければいけないのは、それはどこかで、その先生に信仰が依存していたという、人間的な弱さだったのだという自覚を持たなければいけない。
モーセは常に語っていた、常に――わたしたちをエジプトの地から連れ上ったのは、私ではない、神ご自身なのだ(申命記4:37、6:21,10:22,15:15,16:1,20:1.4,24:18、26:8〜9)。 モーセの表現を借りれば、父親がその腕に息子を抱くように(申命記1:31)、あなたがたをエジプトの地から連れ上り、親鳥が雛鳥を翼の中心に載せたかのように(***詩篇91)、神があなたを運んで来られたと、モーセは何度も言って、そして人々も何度もそれを納得してきた(申命記32:10〜11など)。 にもかかわらず、モーセがいなくなった途端、私たちを連れ上ってくれたのはモーセだと、そしてそのモーセがいなくなったら、私たちは終わりだというような話をし始める。
確かに神さまは目に見える具体的な人間を通して私たちに語りかけ、私たちを助けてくださる。私たちはそのような人間的な交わりを大切にします。ですからそのような指導的な役割を果たす人物の存在は神さまの恵みに他ならないのです。でも決してそれが信仰の対象となってはならない。信仰の対象はどこまでも神さまですね。
この小さなインマヌエルという群れの歴史は戦後に始まりました。そして、戦後3年間東京拘置所に、国家によって弾圧されていた蔦田二雄という牧師が、新しくインマヌエルという群れを起こしました。蔦田先生は若くして弾圧を受け、迫害の中を生き抜いた信仰を持っておられましたから、それはそれは霊的な巨人で、戦後の日本の教会を引っ張っていった人物の一人です。
その先生は60代で心筋梗塞で召されました。その時日本の回りの教会の先生方は、蔦田が召されたらインマヌエルはおしまいだと、みなさんそう思っておられたようです。しかし私たちは必ずしもそうではありませんでした。
確かに人間的な弱さを私たちも持っています。ですからどこまでも、どこかで蔦田先生の事を出しては、蔦田先生の声を待ってみたり、蔦田先生のスピリットはこうだったと言ってみたり(することもあります)。 でもどこかで「インマヌエルは蔦田二雄ではなく、私たちの信仰の創始者であり、完成者であるお方はイエス・キリストのみだ」という所に、気がついていくのです。気がついていきませんと、単なる人間的な集団に陥ってしまう。
私たちは順調な時は割とまっすぐに神さまを見上げることができる。そしてその間に存在している人間を、真っ直ぐに突き抜けて神さまに目を向けることができる。 ところがその人間という媒体が取り去られた途端、妙な愛着がその人間に生じて、逆に神さまを見なくなるというのが、往々にしてあるということですね。
2) 神さまが見えなくなると、人は偶像を造る。
不安に耐えきれず、他のものを神としますね。母さんはいない。モーセはいない。神さまはいない。お母さんはぼくを独りにしてどこかに行ってしまった。神さまは私の手の届かないところに、それは事実ではないのです。しかし、見えない、触れない、よくわからないとなって行きますと、私たちは他に、頼りになるものを造るのです。 民はアロンに願います。1節の後半を見てください。
1……「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。」
その時アロンは独特なことを提案しますね。2節(から4節まで読まれる。)
2それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」 3そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。 4彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。
偶像を造るなら高い方がいい(笑)ですよね。金を持って来い。偶像を造るなら、それだけの犠牲、金を持って来させます。犠牲が大きければ大きいほど、それらしい神ができるというのでしょう。これがご利益宗教の考え方ですね。ご利益宗教というのは――これだけ捧げたのだから、神さまも自分の願いを聞いてくださるに違いない――そういう発想で、金の子牛の偶像を造るのです。
さて、ここで聖書に興味深い記述があります。それが4節の後半にある。
4……彼らは「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。
金の子牛ができて、「これこそがあなたの神だ」と言った。いったいだれが言ったのか? よく見たらわかりますように、アロンではないです。彼らというのはイスラエルの人々です。イスラエルの民が、自分たちを救い出してくださった神さまに対抗して、金の子牛の偶像を造るのですね。 出来上がった像に向かって、「私たちをエジプトの国から導き上った神だ」と、自分自身に対して宣言している。 あたかも自分に言い聞かせるかのように、不安の中で新しい拠り所を造ろうとする人間の愚かさです。 私たちは拠り所なしに生きていけない。不安の中で、私たちは往々にして、神以外の拠り所を見つけようとするのです。
まことの神さまに対する信頼が怪しくなる、自分で新しく造り上げた頼り所に心を傾けていく――これは、神さまが一番悲しまれることですね。 お母さんにしてみれば、時に情けなく思うことがありますでしょう? あんなにいつも一緒にいるのに、生まれた日から腕に抱いてミルクを上げて、母と子の絆がちょっと見えなくなったぐらいで、ちょっと買い物に行ったぐらいで、失われるはずはない。これほど堅い確かな愛情を持っているのに、この子はそれが解らないのだろうかと(情けなく思いますが)、小さな子どもには解らないのです。
同じように信仰が幼いと、ちょっとした試練で、自分を愛し、自分のために十字架にかかってくださったイエス・キリストの愛というのが、完全に分からなくなってしまう。 そもそも、あれ(***イエスを信じ神の子とされたこと)はいったい何だったのだろうかと(思うことになる)。 これは誰しも当てはまる。やがて私たちには解って来ます。
20世紀の初め、イギリスの有名な説教者が面白いたとえを引いています。ちょっと読んでいきます。
あなたが汽車に初めて乗ったとします。汽車ってすごいなぁ、こんなにすごい勢いで、これだけの人を引っ張って行くのか(と感動します)。 その汽車が突然トンネルに入った。当時ですから、灯りがついている訳ではないですよね。蒸気機関車がトンネルに入ったら、現代の私たちは、あ、トンネルだな、で済むんですけれども、当時の人は初めて汽車に乗るだけでもびっくり。それが初めてトンネルに入ったら、もううろたえてしまう。真っ暗で何にも見えない。そして異様な音が響いて来る。トンネルの長さも解らない。
その時、驚いたり、わめいたり、騒いだりしてはいけない。初めてだったらびっくりでしょう。でもそれが二度目、三度目なら違いますよね。トンネルに入ったからと言って、列車から飛び降りる愚か者はいないでしょう。なぜか? なぜなら、必ず列車はトンネルから出るからです。 列車から飛び降りるよりも、列車にしがみついている方がはるかに安全なのだということが分かるのに、何度かトンネルを出たり入ったりする経験を通過してみないと解らないものだと(いうのです)。
私たちの信仰は、イエス・キリストに引っ張られている蒸気機関車のようなものです。それが何度か何度か、トンネルの中に入ります。 イスラエルの人々は、この時、焦ってモーセがいないというだけで、列車から降りたのです。 あれほどの奇跡を体験しておきながら、いとも簡単に偶像を造ってしまう。いとも簡単に新しい拠り所を設けてしまう。それがどんなに愚かで、しかしどんなにか、私たちの姿を象徴しているかということを考えさせられます。 列車から飛び降りるよりも、列車にしがみついている方がはるかに安全だと知っているのが私たちです。
3日前に、50を超えた牧師先生からメールをいただきました。それは、体調が悪いからエコーを取って病院に行ったら、肝臓に腫瘍がある。精密検査をしなくてはいけないとの連絡でした。 私は「ともかく、早く検査に行ってください」(と勧めまして)、それで検査の結果を、昨晩遅く知らせていただきました。
結果はあまりかんばしくありませんでした。肝臓ガンで、しかもそれは原発ではなく、転移であろうと。手術はできなくて、抗がん剤治療が始まります。 それで、教団的な責任を降ろしてほしいとのお願いが記されていました。とっても悲痛な思いがしました。しかし、この先生のメールの最後は、こんなことばで締めくくられていました。それは、とても感動的で胸をうつものがありました。
そこは、きちんとみなさんに紹介したいと思います。
「主のみ許しの中のすべてですので、平安のうちに受け止めております。あまりの急展開に驚いている状況でもありますが、どのくらいの年月が赦されているかもわかりませんが、一キリスト者として(伝道者という肩書よりも)主と人々を愛して仕えさせていただききたく願っています。病気よりもこちらの方が緊張します。」
病気よりも、これから先どれくらいの年月が赦されるかわからないけれども、私は牧師という肩書に生きるのではない。一キリスト者として、改めて自分は主と人々を愛して仕えていく事を願っている。こちらの方が緊張する――これが信仰者の姿ですね。
私たちにしてみれば、普通は病気のことの方が心配でしょう。 だけど、この先生が緊張しているのは病気なんかのことではない。 その病気を抱えながらも、立派にイエス・キリストという蒸気機関車にしがみついていける、そのしがみついて生きていく姿、それを自分のどれほど残されているかわからない生涯の中で、全うできるかどうか、むしろそちらの方が緊張しますと(おっしゃっている潔く健気な信仰に感動を覚えたのです)。
私はイスラエルの人々は、そういう意味では、幼い信仰だったのだなと思います。 モーセがいなくなってしまえば、不安のるつぼの中から、ともあれ、新しい神さまを造らなければいけない。 新しい拠り所を求めるほど、神さまとの交わりが希薄で、そして所詮その神さまとの交わりも、(直にではなく)モーセを介在として初めて存在していた程度の交わりだった。 そんな信仰、吹けば飛ぶような信仰です。
私たちはそんな信仰かもしれない。 でも大丈夫です。神さまが私たちの信仰を鍛えてくださる。そして何度かトンネルを通らせてくださる。 そして、私たちは気がつきます――列車から飛び降りるよりも、列車にしがみついていた方がはるかに安全なのだ――ということが解るようになると思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、最後にお話したこの先生の健康を支え、まずは検査でしょうけれども、一番良い最善の治療法に辿り着くことができるように、あなたが医療機関、従事者すべてを祝福して導いてください。
私たちもまた、いろんなトンネルの中を通過するに違いありません。人ではなくイエス・キリストだということを、本当に心から理解して実践することができるように、あなたが送ってくださる様々な助けに私たちは頼ります。でもあくまでも自分の信仰のいかりはイエス・キリストだけに降りているということを、しっかりと心に留めることができるように導いてください。
明日から始まりますキリスト者学生会の働きの上に、全国大会の上に、全国各地から集まって来ますが、皆元気で過ごすことができるように、その実行委員の役を負っておられる伊藤兄の上に、あなたが豊かな恵みを注いでください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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LAST UPDATE: 2013.03.12 - 12:32 |
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