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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/4 Tペテロの手紙(6)聖なる者とされなさい Tペテロ1:13〜16
5/4 Tペテロの手紙(6)聖なる者とされなさい Tペテロ1:13〜16

☆聖書箇所    Tペテロ1:13〜16

13ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
14従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、
15あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。
16それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」と書いてあるからです。

☆説教      Tペテロの手紙(6)聖なる者とされなさい

ペテロの手紙第一を学び始めて今日で6回目になります。私(藤本牧師)は時どき思うんですけれども、先週、説教した後のO兄の最後のお祈りは「今日の話は難しかった」という一言があって(大笑)、O兄の素直なお祈りに私も胸を打たれ、家に帰ってから圭子(先生)に「今日の話は難しかったわねぇ」と言われ、あ、確かに難しいなぁと思うのですが、皆さんがもし(拳に力を込める藤本牧師)聖書に張り付いて聴いてくださったら、これは絶対わかると思うのですよ。

それで、あの「アブラハムの物語」とか「モーセの生涯」とかやっている時には、聖書を見なくても大体話を聞いているだけで、なんとなくわかってくださると思うのです。でもこういう短い書簡をやるときには、びっしり目を聖書に張り付けないと、この論理を理解するのはちょっと難しいと思うのですね。

それで今日も難しい話をします(大笑)。導入しないと、多分聴いてくれないんじゃないかなと思いますから、ちょっと、13節から短いですから――

13ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
14従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、
15あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。
16それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」と書いてあるからです。

ペテロの話が「〜しなさい」という風に始まりますよね。13節からそう始まります。
心を引き締めなさい。身を慎みなさい。キリストの現れをひたすら待ち望みなさい。従順な子どもとなりなさい。欲望に従わないように。召してくださった聖なる方にならって、聖なる者とされなさい。

急に〜せよという話がが〜っとこう始まりますと、私たちは大体一歩身を引くのです。そして所詮、聖なる者にはなれないからという風に一歩身を引くのです。
でも実は今日のこの箇所がペテロの手紙第一で、最も大切です。
最も大切な箇所の、最も大切な言葉というのは、実は13節の頭に出て来る「ですから」です。

「ですから」(13節)というのは、そういうわけですから、ということです。
「〜しなさい」と言った時に、私たちの目は「〜しなさい」という方向に奪われてしまうのです。
でも聖書は必ず、「〜しなさい」というときの、動機づけになる「ですから」という部分があるのです。
つまり「〜しなさい」というような、命題的な命令ではなくして、「なぜそうするべきなのか」という論理の方が実ははるかに大切で、それが「ですから」なのですね。

1)「ですから」「そういうわけですから」

ちょっと一緒に「ですから」を見ていただきたいと思います。
「ですから」という限りには、実はそれ以前のことを復習しなければなりませんが、既にじっくり学んで来ましたので、簡単に復讐するだけでいいと思いますが。2節を見てください。

2父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。

「予知に従って選ばれた人々へ」(2節)――これは最初に学びましたね。
書いているのはペテロです。ペテロはイエスさまの一番弟子でありながら、十字架を前にしたイエスさまを、あんな奴は知らないと、周囲の目を気にして、イエスさまとの関わりを三度否定した人物です。

彼のそもそもの名前はシモンでありました。でもイエスさまがシモンを弟子とした時に、「わたしはこれから先あなたをペテロ(岩)と呼ぶ」(***マタイ16:18)と新しい名前を授けました。

ペテロには弟子としてイエスさまについて行く時に、気持ちばかり焦って、実質は伴いませんでした。ましてその大きな失敗をした後に、全く自信を失ってしまったに違いありません。
そんなペテロの中に、岩のような信仰の可能性を神さまは見ていた――だから「予知に従って」です。
そんなペテロが失敗を超えて従順になおも従ってくる可能性を、イエスさまはご覧になっていた。
だからイエスさまは、「あなたはわたしの弟子となります。転んでも立ち上がって、最後までついて来ます」とペテロを選ばれたわけですね。

同じようにイエスさまは、小アジアのこの世界に寄留している教会の人々――「寄留している」という言葉は(Tペテロ)1章の1節に出て来ます。「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している」ような――世の中の端に追いやられたようなあなたがたを、神さまは選んでおられる。
その可能性を信頼して、信じて、選んでおられるというのが、私たちに対するメッセージですね。

3節の最後をご覧ください。そんな私たちを、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」
「してくださいました」というのは、完了形です。つまり、私たちはそのようにされている。
その、してくださったことを受けて、「ですから」なのです。

あなたがたは神さまの予知に従い、神さまはあなたがたの内にある可能性を信じて選ばれた。
そしてあなたがたは、新しく生まれさせられて、生ける望みを持つようにしてくださった。
「ですから、あなたがたは」という風に13節で始まっていきます。

つまり、13節以降に出て来る一つ一つの事柄は、神さまがしてくださったことに対する応答ですね。
「心を引き締め、身を慎み、聖くありなさい」(13〜16節)というのは、選ばれ、新しく生まれさせられ、生きる望みを持つようにしていただいて、救いをいただいている私たちの応答です。

あるいはもうひとつの論理でこう考えることができます。
9節を見てください。

9これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

それは、8節のことを受けているのですね――「イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いまは見てはいないけれども信じており」。
なぜそうなのか?それは「たましいの救い」を得ているからですね。

で、その「たましいの救い」というのは、先週学びました。
10節の後半に、「預言者たちも熱心に尋ね、細かく調べていた」(とあります)。
預言者たちも熱心に尋ね、細かく調べていても、なおそれを突き詰めることはできなかった。それを手にすることはできなかった。
そんなすばらしい「たましいの救い」をあなたがたは得ている。

あるいは12節の最後に「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていること」なのだと。
御使いたちでさえ、その救いをはっきり見たいと願っている、そんな救いを、あなたがたはいま、既に得ている。「ですから、あなたがたは」(13節)――この論法はね、神さまがしてくださったことに対する応答だけではない。

既にあなたがたは神の子どもとされ、既にあなたがたは救いを得ている、としたならば、その霊的な現実を生きてご覧なさい。――それがペテロの論法ですね。
つまり、神の子どもなら、神さまが聖であるように、聖なる者として生きてご覧なさい。
救いを得た神の子どもとして、それにふさわしく生活するということを考えてご覧なさい。――これはとっても単純で当然なことなのです。

以前娘がアメリカの大学にいました時に、確か大学三年生ぐらいだったと思うのですけれども、ある日、裁判所から手紙が来たのですね。で、開けてみたら、「この度あなたは陪審員に選定されることになりました」という手紙なのですよ。
陪審員というのは、日本で言えば、裁判員制度の裁判員になることですね。「つきましては、インタビューがありますから、裁判所に来てください。」

(アメリカでは)、20歳になりましたら市民には陪審員になる、という義務が必ずやって来る。向こうは、くじ引きで引くように、陪審員を選んでその住所に送りつけるわけですけれども、義務ですから、これやらないと大変なことになってしまう。

行ってみますと、50人ぐらいの人が集められて、一人ひとり裁判官と面接して今回誰が陪審員になるのか見るわけです。
当然娘はそんな仕事はやりたくない。大体法律用語がわからないですもの、英語で。
そして義務ですから、交通費程度のお手当しか出ない。
なのに、裁判がある度に呼び出されて、ありとあらゆる書類に目を通して、そしてみんなで陪審員が評決を考えなきゃいけないわけでしょう?

娘は一生懸命断る理由を頭で考えた――いちばんいいのは、英語がよくわからないというのがいいんじゃないか。
で、これはまだアメリカに行って2年目ぐらいですから、全然英語がわかりませんって、そう言えばいちばんいいんじゃないの?と。

自分の一人前に裁判官と面接したのは、中国系のアメリカ人なのです。そしてその子が出した理由がまさに「英語がよくわかりません」だったのです。
すると裁判官は、彼女に厳しく一言ですね――
「は〜?アメリカに住んでいて英語がわからない――それは君の問題だよ。ちゃんと勉強するのが、君の責任じゃない?」とこっぴどく叱られている。
娘はそれを見て、あ、この理由はマズイな(大笑)。この理由は通用しないんだな(と考えた)。
それで娘が出したのが、「大学の勉強が忙しくて(笑)、いまゼミに入っていて忙しくて今は無理です。またの機会にしてください」。
それでまたの機会にしましょうね、で、免れたわけですよ。

この裁判官の論理というのは、通用するでしょう?
「あなたがアメリカの市民で、市民としての特権を味わっていながら、英語がよくわかりません、ではすまないよ。それは君の問題だよ。
だったら、これを機会に陪審員になって、一生懸命法律用語を勉強した方がいいんじゃない?」とこう言われるわけです。

私たちはもちろん洗礼を受けて、あるいは初めて教会に来て間もない時に、聖書のことがよくわかりません。キリスト教の用語もよくわかりません。
いきなり第一ペテロの手紙を開いて講解されても、それはよくわかりませんよね。

「それはよくわかりませんよ」と言われたら、きっと神さまは、
「いや、今はよくわからない。でもあなたが聖書を読み続け、教会の礼拝に来ていると、だんだんわかるようになるよ。でもそれだけじゃない。ほんの少しでも努力をはらってわかるようになろうね」と神さまは仰いますでしょう。

ペテロはそれと同じ論理を使っているわけですよ。
自分がどこの国の市民か、よく理解してみなさい。あなたの国籍は天にあり、と言ったら、あなたは神さまの御旨がどこにあるのか、そして神の子どもとして生きるということはどういうことなのか、その国の言葉や習慣を積極的に――消極的にではなくて積極的に――身につけなさいと言っているのが、この13節からの箇所ですね。

さて、その時に、2番目のポイントとして改めて考えて欲しいのですが、

2)逆風にあることを意識しましょう

そうとはわかっていても、そう簡単にはいかないということを言い訳にせず、逆風を意識するってことが大切です。
だからペテロは、(13節で)「心を引き締め」という言葉を使うのです。
「心を引き締め」という言葉は、旧約聖書では、「腰の帯を引き締め」と出て来ますよね。(***U列王4:29、箴言31:17、イザヤ5:27、エレミヤ1:17など)

それは中近東の当時の洋服が一枚で、そして「腰に帯をする」ということは、日本で言うならば、「たすきをかける」。
以前のああいう和服ですと、仕事をするのに邪魔ですね。
そこで、たすきをかけて、たもとを縛って、さあやるぞ、という姿勢で心を引き締めなさい(という意味です)。
「身を慎みなさい」というのは、酔っ払うな、泥酔するな、という意味です。
泥酔すると、前後不覚になって、自分が何を言ったのか、どうあったのか、あなたは忘れてしまう。

逆風を感じなさいというのは、さぁこれから逆風に立ち向かうぞ、と心を整えなさい。
逆風に向かっていくのなら、せめて身を慎んで覚悟しなさい。
逆風は世の中だけでない。逆風は自分の内側の罪や弱さもあるんですね。

かつて宗教改革者のマルチン・ルター(1483~1546・ドイツ)はこんなことを言いました。
「私たちは、イエス・キリストを信じる以前、罪と戦ってはいません。私たちはむしろ、罪の奴隷です。」
なかなかいい言葉ですね。
「罪と戦いながら、疲れ果ててイエス・キリストのもとに来た」と、私たちはそう考えがちですが、ルターは、
「いやいや、そんなことはない。私たちはキリストを信じる以前は、罪とはまともに戦っていない。むしろ、どこかでいつも罪の奴隷だ。罪と戦う力もなく、むしろ流れに任せて生きて来た事の方が多いでしょう」と(言っているのです)。

ペテロは14節で同じ言葉を使いますね。14節で――

14従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

ということは、以前は従っていたのです――ということは、以前は様々な欲望の奴隷であったということでしょう。
しかしキリストにあって新しく生まれた私たちは、罪を意識するようになる。
ルターは、そういう言い方をしますね。
罪を意識するようになるとはどういうことか?――それは逆風を意識するようになる。
逆風は、自分の外の世界と自分の内の世界、自分の心の中にも、この世界にも、世の中にもある。

ペテロはこの逆風に、一瞬にして足をすくわれた人です。
イエスさまが十字架に向かわれる中で、「たとえ死んでもあなたを知らないとは私は言わない。たとえほかの弟子たちが転んだとしても、私は絶対に転ばない」と(妄語したペテロ)。
しかしながら、逆風を意識していなかった彼は一瞬にして転んでしまうのです。
ですから彼は、「身を慎んでいなさい。目を覚ましていなさい。泥酔した状態であってはいけない。しっかりと祈り、しっかりと信仰によって歩み、しっかりと主について行こうではありませんか」と言って(警告して)いるのです。

14節をもう一回見てください。

14従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

無知であったというのは、神さまのことについて何にも知らなかった。
ということは、自分の好きなように生きて来た。
それは自分のさまざまな欲望の奴隷になって生きて来た(ということ)。
心して、心を引き締め、身を慎み、ひたすら主の道を行くことを心がけようではないか。

3)倣う(神に倣う、キリストに倣う)

15節と16節ですが、ちょっと読んでいきますね。

15あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。
16それは、【――これはレビ記(21:8)の引用ですが――】「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。

ここ(15節)に「ならう」という言葉が書いてあります。
神に倣う、キリストに倣う――倣うという言葉。
ラテン語では「イミタツィオ」です。
有名なトーマス・ア・ケンピス(1380〜1471・ドイツ生まれの神秘思想家)の「キリストに倣いて」という中世の本がありますが、「イミタツィオ・クリスティ」で、日本語にもいくつも翻訳されていますが。

旧約聖書の人々はどうやって聖なる神に倣ったのだろうか?と思いますね。
これは難しいです、神さまは見えないわけですから。
旧約の人々はどうやって、神さまの「聖さ」というものを体験したのか?
それは祭司が細心の注意を払って、人々の罪のために贖いの生贄を捧げるという儀式を通して、神さまの聖さというものを、なんとなく人々は実感していったのですね。

あるいは「聖い」という概念には、人間の世界から「かけ離れている」という意味があります。全くかけ離れているという概念があります。
だから人々は神さまがモーセを通してなされたあの紅海を二つに分けるという恐ろしいばかりの奇跡を見て、神さまの「聖さ」、人間の力をはるかに超えた神さまの「聖さ」を前に、恐れおののく体験をした。
あるいは、十戒に表されたような神さまの御思いに従うことによって、神に倣うことを学んだのでしょうね。

しかしペテロにとって、また私たちにとって、神さまの聖さに倣うということは、イエスさまに倣うことです。
それは儀式の崇高さや、奇跡のとんでもなさや、もちろん神さまの御旨に添って歩くということもありますけれども、でも第一番目に「神に倣う」という言葉が出て来た時に、それはイコール「イエス・キリストに倣う」。
その憐れみに倣い、そのへりくだった姿勢に倣い、その愛に倣う。
倣って(も)倣えるものなのか?と思いますね。

ちょっと聖書を一箇所開いていただいて、それを読んで終わりにしたいと思いますが、コリントの手紙の第Uはだいぶ前になります。Uコリントの3章の16〜18節を交代に読んでみたいと思います。

3:16しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
3:17主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
3:18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

倣うどころか、18節にあるように、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」という。
それにしては、短気は変わらないし、それにしては頑固な性格は変わらないし、ということもあるのかもしれませんけれども、それでも私たちは変えられて行くのですよ。
なぜなら、18節の最後に「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と(約束されているからです)。

以前は、自分の人生が幸せであればそれで良いと考えていた。でも教会に来るようになったら、そうは考えないですよね。
以前は、自分の都合をまず第一に考えていた。でも聖書を読み始めたら、もうそういう風には考えないですよね。
少しずつでも、主と同じ姿に変えられて行くのですよ――それが「御霊なる主の働きです」(18節)というのは、私たちの努力によるのではない。
それは聖霊の働きであり、私たちは少しでもキリストの心がわかるようになり、キリストの憐れみを理解するようになり、キリストの遜った様を自分も真似るようになる。
それは単に真似をしているのではない。それは倣っている(ことで)、倣う力を与えられている。

すると、一番大切な言葉は実は16節の頭に来ます。もう一回16節を読んでみたいと思います。ご一緒に。

16しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

「人が主に向くなら」と始まって行きます。
もしあなたの心を、あなたの人生を、キリストに向けるなら、とこう始まって行きます。

こんな話があります。
ある国の王様が、長〜い間息子の誕生を待ち焦がれていました。何年もして祈りが答えられ、そして息子が生まれるのですが、国中は大喜びです。健やかで活発で、王子を見ているだけで周囲が幸せになるほどでした。

ところが六歳になった時に、王子は馬から落ちて、王子はひどい骨折をします。それ以来、大変な不自由を抱えることになります。国中が王子の姿を見て、失意の底に沈んでいます。

しばらくして、王様は変わった行動に出ます。
有名な彫刻家を招いて、実像を作らせます。
それは宮殿の真ん中に据えられていて、ひとりの男性がたくましく前を向いて立っているというだけの像なのです。
王様は、その凛々しい像が立っている中庭に、毎日、王子を連れて行くのですね。
そして二人で、ただ立っているだけの像の前で――でもたくましく前を向いて立っている像の前で――しばらく息子と話をするのです。

少年は徐々にその像に惹きつけられ、背筋を伸ばすようになる。
まるでいのちを吹き込まれ、そこに立って招いているような像を前にして、少年は徐々にその像と自分を重ね、少年は自分の足で歩くようになり、だんだんしっかり歩くようになります。

キリストのお姿には程遠いような私たちです。でもそんな私たちが、鏡に自分の姿を映して、あるいは様々な質問に自分の性格をチェックして――
あ、自分はなるほど頑固だ、あ、自分はなるほど短気だ。そしてもう諦めてしまって、鏡に自分を映し出し、最近めっきり老いたなぁ(大笑)、で話が終わってしまったら、それだけじゃないですか。それだけですよ(笑)。

「キリストに向くなら」というのは、自分の心の思い、自分の信仰、自分の生き様、それをキリストに向けなさい。
すると、「顔のおおいが取り除かれて、聖霊なる神の働きによって、私たちは栄光から栄光へと姿が変えられて行く」(18節)というのは――自分の有様や自分の限界ではなく――キリストを見上げ、キリストを仰ぐと、私たちは自然に背筋を伸ばし、わがままな自分を捨て去り、そしてキリストの如くに変えられて行く――それが聖霊の働きですと(聖書は言う)。

だからこそ私たちは聖書を読み、だからこそ私たちはキリストの十字架の讃美歌を歌い、だからこそ私たちはイエス・キリストに向くために、キリストに祈るのです。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、「神に倣う」などおおよそ私たちに不可能かと思いますが、でもあなたが、天地万物を創造されたあなたが、こんな私を愛してくださり、こんな私を選んでくださり、こんな私に救いを得させてくださり、既に天国の国民としてくださっていることを心から感謝いたします。
ですから、今朝礼拝に參りました。キリストを仰ぎ見るために礼拝に参りました。
どうか御霊の働きによって、内に秘めている苦々しい思いがあれば、あるいは頑固なこだわりがあれば、すっと心を緩めて、柔和で優しいあなたを見つめることができますように。
そしてあなたの心を私の心とすることができますように、導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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