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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/10 ペテロの信仰    ルカ5:1〜11
☆聖書個所       ルカ5:1〜11

1群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
2岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
3イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
4話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
6そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
7そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
8これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
9それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
10シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
11彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

☆説教        ペテロの信仰

先ほど紹介しなかったのですが、奥畑さん、マッサージに行ってくださってありがとうございました。ちょっと立っていただいて、拍手したいと思います(拍手)。奥畑さんは何回いらっしゃいました?「今回で4回目」4回目ですか!おめでとう!(拍手)。

ルカの福音書の5章を開いていただきました。私は、受難週に入る前の3回の聖日、それにイースターの聖日を、ペテロという人物に目を留めて、ペテロの信仰、ペテロの十字架、そしてペテロが味わった復活という流れでお話をしたいという風に願っています。

1節をご覧いただきますとこういう風に始まります。

1群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
2岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
3イエスは、そのうちの一つの、シモンの(というのはペテロのですね)持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
4話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。

こういう風に展開されていきます。ゲネサレの湖というのはガリラヤの湖です。イエスさまはペテロの持ち舟に乗って、湖から群衆を教えられたと、場面は展開しますが、話が終わりますと、主はペテロに命じられました。
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(と4節で言われますが)、この「深みに漕ぎ出して」ということばは信仰生活の中で限りないです。

皆さんが慣れ親しんだ所から全然違う所へ出ていかれる時、あるいは自分がこれまで体験したことのないチャレンジに立ち向かう時に、それは当然「深みに漕ぎ出す」のです。
深みには浅瀬にはない危険があります。しかし深みには浅瀬にはない獲物がいるわけです。
ペテロだけでなく、私たち皆どこかで、人生の浅瀬で、まぁ、チャポチャポやっている。それで満足しているということが多々ある。
しかし生きるということは、どこかでいつでも深みに導かれる、時に深みに足を取られる、勇気をもって「深みに漕ぎ出して」行く(という側面があります)。

イギリスの文学者、オスカー・ワイルド(1854年〜1900年)は、「生きるということは、世界において類まれなことだ」と言いました。有名なことばです。
「生きるというのは、世界において類まれなことだ」――私たちはそんなことは思ってません。生きるというのは日常の中でごく当然なことだと(思っています)。

しかしよく考えてみますと、この「深みに漕ぎ出す」人生、新しいチャレンジが展開しているこの世界において、私たちはいつも類まれなことをしているのです。
している自分というのを、少しは労らなければいけないなと思います。

時に無理をして、あるいは時に自分の限界を超えて、何かに挑んでいる自分をもう少し大事にしなければいけないなぁと思いますが、私たちも確かに生きているには違いない。しかし今朝このようにして、イエスさまの「深みに漕ぎ出せ」というチャレンジのことばを聞いてみたいと思います。

短く3つのポイントでお話をします。

1)チャレンジに食いついたペテロ

漁師たちはイエスさまの指示にまともに取り合うことができたのか?そんなことはないと思いますね。
漁師たちはイエスさまに向かって、「素人に何が分かるか」――それが正直な気持ちで――「ひと晩中やっても魚がとれなかったのだから、いま深みに漕ぎ出して真昼間に魚がとれるはずがない」。

しかしここで、ペテロという人物が言います。5節――

5「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

これは訳には出てはいませんが、正確に元のギリシャ語を読んでいきますと、「私たちは夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。でもおことばどおりに」――(次に)『私は』ということばが入るのです――「『私は』網をおろしてみましょう」(となるのです)。

夜通し働いて何一つ取れなかったのは、『私たち』なのです。全員なのです。でもそこから主語を一人称単数に変えて、「でも私、ペテロは――(イエスさま、あなたがおっしゃるのですから)あなたの呼びかけに答えて――(網を)おろしてみたい」と思います。なぜペテロは、『私たち』から『私』に変えているのか?

それはだれもが網を降ろしても無駄だと思っているわけです。だれもが。漁師の経験から言えば、陽が昇ってしまった後で魚は離れてしまいます。みんなはだめだと判断しているけれども、私は試してみたい――そこにペテロの信仰があったと考えられますね。

そしてその信仰はこのイエスさまのおことばに対する信頼で、この5節のおことばですが、原文を読みますと、「おことばどおりに」というのが一番最初に出て来ます。ということは、一番それが強調されています。
チャレンジに食いついたと言いましたけれども、ペテロが食いついたのはイエスさまのみことばであった。聖書のことばに彼は食いついて、チャレンジを受けて立つのですね。

ペテロはイエスさまに出会ったのは、これが初めてではなかった。4章をちょっと見ていただきたいのですが、頁をめくって4章の38(節)と39(節)。私が38を読みますので皆さんが39を読んでください。

4:38イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。
39イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。

ここで一度は、ペテロはイエスに出会っています。イエスさまはペテロのしゅうとめの熱を癒すことをされました。でももしかしたら、この奇跡はペテロの信仰を大きく変えることにはならなかったかもしれない。なぜなら、この個所にペテロの反応については何も記されていない。ですから一つの奇跡が行われ、それ甲斐もあったのかもしれない。でもそれが信仰に繋がることなくその場が過ぎていったということです。

しかしここで、5章でペテロはイエスさまが言われたことばに信頼をかけて、みことばどおりにするという行動に出ます。
皆さんは聖書を読まれる方も、聖書を日曜日だけに開く方も、あるいは心に留まったことばも、それをノートに書く方もいらっしゃいますけれども、みことばに自分の人生をかけるということがございます?あると思いますね?

それがその場に与えられたみことばで、例えば自分が新しいステージに、新しいチャレンジに(向かう時)――自分の家族の者が病み、自分が就活を始め、何かそういう時に、たらりたらりと聖書を読み、いいことばを拾い上げているというよりも――『神さまは私に読むように導いてくださっているのではないか』と思えるほど、今の状況にぴったりだというみことばが目に留まり、そのみことばに人生をかけてみる、自分の状況をかけてみる――ペテロはそれをしたということです。

イエスさまのことばは単なる思い付きでも、何かの流れで発せられた言葉ではなく、私の人生、私を引き出すために、私を深みへと導くためのチャレンジであった。(ペテロは)それを受けた。

2)イエスさまのことばと出会ったペテロは、イエスさまを礼拝いたします。

ちょっと見ていただきたいと思いますが、5章の6節(〜9節読まれて)――

6そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
7そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
8これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
9それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。

「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(8節)――5節の段階では、ペテロはイエスさまのことを「先生」と言った。でもみことばの力に出会って、ここ8節では「主よ」と置き換えている。
つまり、ペテロは人間以上の天来の存在をイエス・キリストに感じたということです。そしてその上で、彼は主のもとにひざまずき、この方を神のように礼拝しているということがわかります。
つまりこれをもって、本当のイエスさまと出会ったということが言えるのです。

ペテロが信仰を持ったというのは、いくつかの段階がありました。
*最初はガリラヤのほとりで声をかけられ、「わたしに従って来なさい」(マタイ4:19.マルコ1:17)(というみことばにすぐに従った)。
*2番目の段階では、ペテロはしゅうとめの熱病がその場で癒されるのを見る(ルカ4:38〜39)(が、イエスさまの一つの奇跡を見ただけに留まる)。
*しかし、ここでは(ルカ5:1〜8)イエスさまのみことばに自分の信仰をかけて実行したところ、とんでもない結果が出て来た時に、彼は不思議にも自分の罪深さを感じた。――これがキリスト教の独特な展開です。

いろんな願いを持って困窮した人は、いろんな宗教の門を叩くかもしれない。それはキリスト教にあっても変わりはないですね。そしてもしその問題が解決するならば、感謝して多くの人が教会を一回立ち去って行くでしょう。事実、いい教会にいらっしゃる方もいるでしょう。

でもイエス・キリストの天来の存在に触れたときに、どういう反応をするのかというのは、これはもう典型的ですね。
旧約聖書で預言者イザヤという人が神を見た時の反応(イザヤ6:5)、典型的に同じです。
人はみな神に触れた時に、何とも言えない恐れを抱くとともに、自分自身の罪深さを痛感する。
逆に言うと、自分自身の罪深さを痛感している人は、すでに神に出会っている。

「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ5:8)――ペテロは自分の罪を知らなかったわけではないです。日頃の振る舞いの中に、自分のことばに、思いに、後ろめたさを感じたことはいくらでもあったに違いない。
でも、ペテロも私たちも同じですよ。それは大抵は言い訳をしたり、開き直ったり、無視したりして、自分の罪を認めようとしない。

以前TVでペットのビデオを観ていましたら、こんなシーンがありました。
6歳ぐらいの男の子が家で飼っている猫の尻尾を掴んでいる映像です。掴まれると猫は逃げようとします。逃げようとした途端に、男の子はピッと尻尾を掴んで、掴まれて猫は逃げられないのです。
しばらくすると、また猫は頃合いを見計らって逃げようとし、すると、男の子はギュッと掴んで逃げられなくする。
それで、お母さんは、(子どもを叱ります。)
「大ちゃん、いい加減に猫の尻尾を引っ張るのは止めなさい!」
「お母さん、僕じゃないよ。引っ張ってるのはこいつだよ。僕は掴んでいるだけだよ」(大笑)

大体私たちは、こうやって生きているのですね。私たちはきっと何か、大変迷惑なことをしているに違いない。私たちのおかげで、事態は難しくなるに違いない。でもそれが自分の責任だとは思いませんし、ましてそこに自分の罪深さがかかっているとは思えない。状況はこうだし、相手もこうだし、こういう状況から逃げられないし、「お母さん、僕じゃないよ。引っ張っているのはこの猫だよ。僕はただ掴んでいるだけだよ」と言って、その場をやり過ごしていくわけです。

そんな私たちの前に、弁解を一切封じてしまうイエス・キリストが立たれたら、イエスさまの中心に触れてしまったら、その時ペテロはありのままの自分、神の前に汚れた自分を認めて、この方の前にひれ伏した。
ペテロはイエスさまに出会った。出会いはちょっと連続であったのですね。私たちが見たのは、一番最後の部分ですけれども、この時からペテロはイエスさまに接する態度を変えた。
単なる道徳的な教師ではない。単なる霊的な力を持ってるお方でもない、この方の前で私は罪深い存在だということに彼は気が付いた。そして、この方を初めて礼拝した。

3)すると、イエスさまは彼の礼拝を受け取ってくださいました。

5章の10節をご一緒に読みたいと思います。

10シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

自分の罪深さを感じて、そしてひれ伏すことに対して、主は「恐がらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとる漁師になる」(と言われる)。
他の聖書の個所を見ますと、言い方はちょっと違います。「わたしはあなたを人間をすなどる漁師にする」(フランシスコ会訳)

ペテロが勝手になるのではない。でもペテロがイエスさまを拝してイエスさまについて行ったら、「これから先、わたしはあなたを人間をとる漁師にする」ということは――別に職業を変えるという意味ではない――これから先、わたしはあなたを捕え、あなたを成長させ、あなたを導き、あなたを神の栄光のために用いると(いう意味です)。

仰天するほどの奇跡を起こし、自分たちが罪深さに恐れを感じるほど、そういうイエスさまのことばは今度は温かく、ペテロとみんなを迎えます。
「子よ。安心しなさい。あなたの罪は赦された」(マタイ9:2、マルコ2:5、ルカ5:20)ということばも聖書に出て来ますね。
「恐れることはない。わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)ということばも聖書にあります。

すると、私たちは礼拝の度ごとに何をしているのか?イエスさまとの出会いのレベルは人様々です。まだ真の意味で出会っていない場合もあるでしょう。しかしどこかでこの方の聖なる臨在に触れたときに、私たちにはとてつもない大きな罪深さを感じます。十字架に向かって私たちはますます罪深さを感じていくでしょう。
でも最後に私たちは、いつでもそんな私を迎えてくださる、イエス・キリストの温かい恵みを体験するのです。

教会に来た時に初めて来た人でも「安心して帰ら」なければいけない。ようやく解放された、で安心して帰る(笑)と言うでしょうけれども、しかし、「安心して帰る」とはそういう意味ではないです。どんな人に対してでも「安心しなさい。わたしがあなたの面倒を見、わたしはあなたが今日礼拝に来たことを忘れない。あなたの一週間をわたしは祝福する。」

ペテロの礼拝は受け入れられただけではない。彼は神の国に受け入れられました。私たちとイエスさまとの出会いはこの場面と同じです。
「先生」と言ってイエスさまに憧れ、いつの間にか他の人々から一歩抜け出し、(みなはやらなくても、)「私は(おことばどおり)網を降ろしてみます」(と言っていました)。
「先生」が「主よ」となり、みことばを信じるようになり、みことばに信頼を寄せるようになり、どこかで仰天して、この方を前にひざまずき、そして覚えるのですね。いつも捧げていた礼拝が、こんなにもキリストの愛に満ちていたのかということを感じますね。

☆お祈り

「恐れることはない。わたしはあなたを受け入れる。わたしのことばはあなたの罪を赦す。さぁ、わたしについて来なさい」とばかりに、あなたはペテロとその一行を、ご自身の交わりの中に入れてくださいました。

イースターに向かって行くのは、被災地の教会も同じです。特に先週の礼拝は、私たちの愛する兄弟姉妹たちが、被災地の教会で賛美し、メッセージを取り次ぎ、証しをし、多くの方々を励ましたというご報告をいただきました。一番復活の力付けを必要としているのは、先ずは被災地の教会でありましょう。どうか、主よ、憐れんでください。

小柳姉が今朝賛美をいたしました、復興礼拝の上にあなたが豊かな恵みを注ぎ、そこにいらっしゃった方々が、この春の日差しとともに、よみがえりの力をほんの少しでも味わっていくことができるように、決して絶望は絶望に終わらず必ず希望に変わる、ということを知ることができるように、あなたが導いてください。

復活の主と出会わなければいけないのは、私たちもまた同じです。そして主よ。できることなら、復活の力を求めるだけでなく、私たち自身の罪のために十字架にかかってくださった、イエス・キリストに先ず出会うことができるように、この方の温かな愛、同時に私たちの罪深さを少しでも知ることができるように、受難の季節を恵んで下さい。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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DATE: 2013.03.11 - 17:33

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