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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/8 ペンテコステ:ペンテコステと教会   使徒の働き2:1〜13
☆聖書箇所      使徒の働き2:1〜13

1五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
4すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
 5さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
6この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
7彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
8それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
9私たちは、バルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
10フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
11ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
12人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。
13しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。

☆説教      ペンテコステと教会

今日はペンテコステでございますので、使徒の働きの2章を開いていただきました。もう一度、最初の部分を読んでいきます。

1五旬節の日になって(――というのは、これはイエス・キリストの復活された日から数えて50日目です――)、みなが一つ所に集まっていた。
2すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
4すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

と、使徒の働き(2章)は始まります。使徒の働きの前にあるのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書です。福音書はイエス・キリストの生涯を伝えています。
その次の「使徒の働き」の一番冒頭にある1章では、よみがえられたイエス・キリストはオリーブ山から天に昇られたという記事が書いてあります。
そしてイエスさまの最後のことばは、「あなたがたは、わたしが約束した聖霊を待ち望むために、エルサレムに留まって祈り続けなさい」(使徒1:4〜5、8)でありました。
そして彼らがみな一つの所に集まって祈っていた時に、聖霊がくだり、そして弟子たちが変えられ、なおかつ教会が出来上がっていきます。

教会の暦の中で、最も大切なものが3つあります。クリスマスと受難週・イースター、そして今日のペンテコステです。
世界中の人々がキリストの誕生日であるクリスマスをよく知っています。12月の25日、日が決まっています。
受難週・イースターは、年によって日が変わります。日本ではなかなか定着しません。
でもクリスチャンであれば、受難週の十字架の金曜日、そしてその次のイースターをお祝いしない人はいないと思いますし、今日がペンテコステだと意識しない人もいないわけではないかもしれませんが、イースターから50日目、【復活のキリストは(40日間彼らに現れた後、)天に昇り】、地上に残された弟子たちの上に聖霊がくだり、その日教会が誕生しました。

聖書において大切な動詞があります。
私はよく納骨式の時に申し上げるのですけれども、「信ずる」という動詞は大切です。「愛する」という動詞も大切です。日々生きるというのは「歩む」という動詞が大概使われています。これも大切です。

でも「思い出す」という動詞がとっても大切です。
亡くなった人を思い出す。イエス・キリストを思い起こす。聖書の中の昔の出来事を思い出す。
なぜなら「思い出す」というのは、記憶の問題ではなくして、それは現実に昔の出来事が今の自分に起こるという意味を持っています。

ですから、古来私たちは、イスラエルの人々もそうですけれども、定期的に祭り事を行う。
過ぎ越しの祭りというのは、旧約聖書の人々がエジプトを出て来た時に祝った祭りです。
でもそれを今に至るまで祝っている時に、出エジプトの何千年もの前の出来事が今の自分の人生に同じようにして起こる。
その神は変わらずに、私たちに出エジプトを与えてくださる。

「ペンテコステの日に弟子たちのたましいを生かし、刷新し、そして教会を誕生させてくださった神の力は、今日このようにしてペンテコステの礼拝に集まった私たちの上に変わらずに働き、私たちを弟子たちのように力づけてくださる」と信じていますので、ペンテコステの出来事を思い起こし、礼拝を守ることはとても大切です。

簡単に短く3つのポイントでお話をします。まず第一番目に、1節から2節お読みしましたように――

1)聖霊が天からくだり、教会が誕生いたしました

かつてイエスさまは、弟子たちに言いました。
「わたしは、わたしの教会をこの岩の上に建てます」(***マタイ16:18)と。そう仰った時に、イエスさまが意図しておられた岩というのは、弟子のペテロのことです。
ペテロは(ギリシャ語で)岩という意味ですから。
そしてその時にペテロは、「イエスさまこそが神の御子である」ということを、告白いたしました(***同16:16)。
ですからペテロの信仰告白の上に、岩を建てると理解する人々もいます。

イエスさまは明確に、ペテロが教会を建てる、とは仰いませんでした。
イエスさまが仰ったのは「わたしは、わたしの教会を、この岩の上に建てる」と仰った。
つまり教会を建てると仰った主語はイエス・キリストです。
しかもイエスさまが建てられた教会は、「ハデスの門でさえ、地獄の門でさえ、それに打ち勝つことはできない」と仰いました。

やがてローマ帝国の皇帝ネロは、教会を迫害します。
江戸幕府も、日本の軍事政権は同じように日本の教会を迫害します。
しかし、教会は死に絶えたことはありません。

教会は初代から現代に至るまで、様々に内的な問題も抱えています。
コリントの教会でも問題を抱えていますし、高津の教会でも問題を抱えています。問題のない教会はありません。
しかしそれでも、教会は、私たちが建てているのではない。
「わたしはわたしの教会をこの岩の上に建てます」と仰ったイエス・キリストによって建てられています。

教会がどんな試練に遭うかわかりません。
でも私たちはいつでも、「わたしは、わたしの教会をこの岩の上に建てる」と仰った、イエス・キリストの言葉を覚えておかなければならないですね。

ペンテコステの朝、弟子たちが頭をひねって、祈りに祈って教会を始めることを決心したとは、どこにも書いてないです。
この朝、神さまが聖霊を天から送り、そして教会が生み出されたのですね。
私たちの教会の主体、私たちの教会の運営主体、教会のいのちの主体は、いつでもイエス・キリストであるということを、覚えておかねばなりません。

もう三十年ぐらい前に、アメリカの大きな教団二つが、ラジオでコマーシャルを流したことがあります。
前代未聞のコマーシャルで、今でも残っていますけれども、大きな二つの教団が、ほぼ同じ時期に、ラジオでコマーシャルを流した。
全然違う教団ですが、基本的にメッセージは同じで、
「帰って来てください。あなたの教会へ」
もうひとつの教会のコマーシャルは更に具体的でありました。
「私たちは、過ちを犯したと思っています。教会の本来の姿から離れていたのではと悔い改めています。神の言葉へ帰ります。ですから、皆さんも私たちの教会に帰って来てください」
                  
アメリカの教会が非常に富んでいて、そして社会活動に埋もれ、どこかで聖書を離れ、信仰が形骸化をなし、そして教会が文化の一部となってしまった。
教会が政治のアジェンダに使われる。
そして人々はそういう教会に嫌気がさして、(教会を)離れていくわけです。
この二つの教団が、「私たちは本来の姿から離れていた」と悔い改めます。
「神の言葉に帰ります。ですから皆さんも私たちの教会に帰って来てください」

教会はキリストの教会です。イエスさまご自身のものです。
そしてこの教会の流行は存在するでしょう。
ワーシップのスタイルに、現代風、古典的であったり。
あるいは教会の礼拝のスタイルも、様々に変化するのかもしれませんが、――「教会はイエス・キリストのものだ」というこの確信――これだけは世界の流行に、現代のあり方に振り回されるものではない。

聖霊が降ったことによって人々は変えられ、その日に教会ができたということを覚えておきたいと思います。

2)そのようにして出来た教会は、明確に一つの使命を背負っていました

それが伝道です。ちょっと6節をご一緒に読んでみようではありませんか。

6この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。

聖霊を受けた弟子たちは、いきなり外国語を、しかも様々な外国語を話し始めますね。
7〜8節で、人々は大変に驚きますね。
弟子たちが様々な外国語を話したのは、実はこの日だけです。
どうせなら、この日から始まって、いろんな国の言葉が話せたら良かったのですよね(笑)。

例えば、イエスさまの弟子ペテロというのは、ガリラヤ湖で漁師をしていましたから、当時の文化的な言葉、ギリシャ語は話せませんでした。
ですからマルコの福音書というのは、ペテロがローマにいた時代、ペテロの書記を務めていたマルコが、ペテロに代わって書いたと言われています。
ですからマルコの福音書という名前はついているんですけれども、実際の内容はペテロの福音書、ペテロがイエスさまを思い出して、いろいろ書いたのではないかという風に言われていますね。

この日だけ、彼らは外国語を話すことが許されました。
そしてその日以降、弟子たちであれ、宣教師であれ、よその国に行くならば、必ず、その国の言葉を習得するのに努力しなければなりません。
なぜこの日、そんな出来事が許されたか?
それは弟子たちに明確なメッセージを、神さまは送られたのです。

「あなたがたは、世界中に出て行って福音を伝えなさい。十字架による罪の赦しと、神の国への希望を伝える――それがわたしがあなたがたに与える使命です」
と言うために、そこに集まってきた様々な言語を話す人々に福音を伝えることができるように、みんなに特別な言語の力を与えたのです。
伝道こそが、教会が背負っている第一の使命です。

もうすぐ、ワールドカップが始まりますね。すぐ始まります。
また、伝説の人物が出て来るに違いない。日本代表からもまた海外でも、伝説の人物が出て来ますでしょう。

2002年にブラジルを優勝に導いた、カカという選手がいました。
彼は、ブラジル代表で所属はACミランで活躍していました。
彼はワールドカップで優勝した後、メディア・インタビューの時に、何も言わないで、いきなりジャージを脱いでインタビューに答えます。
        
ジャージの下に現れたのは、ユニフォームの上に着た白のTシャツで“I belong to Jesus”(私はイエスさまのもの)と書いてあります。
それ以来、それが彼のトレードマークとなりました。

日本で行われた試合の時にも、ゴールを決めた瞬間、彼はユニフォームを脱ぎます。
今度はユニフォームの下に、その白いTシャツを着ていた。
ゴールを決めた途端に、ユニフォームを脱いで現れた言葉は同じTシャツで「私はイエスさまのもの」。

彼(の信仰)ははっきりしています。
無人島に3つの物を持って行くとすれば、サッカーボール、iPod――音楽を聴きたいのでしょうね、そして聖書。この3つ。

I君みたいな感じですね(大笑)。
I君は、NHKのアナウンサーのプロフィールに書いてありますが、僕の趣味、私の趣味――聖書を読むこと。
どんな機会があったとしても、自分がクリスチャンであることを、何らかの形で表明したい。
ものすごく表明したい――その表明したいというエネルギーが有り余っていて、時々ひょんな時に、言わなきゃいいのにという時に、自分はクリスチャンだと言ってしまう(大笑)。
それでも、虎視眈々と時期を狙い、自分の信仰を告白したいですね。

一年間、イギリスにご家族で留学していたM・Hちゃんから、先日、英語の名前をつけてほしいと頼まれました。
いろいろ考えました。なかなか頼まれません。
私(藤本牧師)は2回頼まれて、一回はO・Y姉で、今度はHちゃんで、聖書の名前をつけるからと。
私(藤本牧師)が選んだのは、Cristie(クリスティー)。
昔のギリシャ語では、クリストフォロス。
クリストフォロスというギリシャ語の名前はとてもポピュラーなものになりました。「キリストを運ぶ者」という意味です。
そこから、男性名ですとクリストファー、それからその略称でクリス。
女性名だったら、クリスティー。

私は、これをHちゃんのおばあちゃんの信仰から取りました。
何をするにも、どこに行くにも、自分の人生全てにあって、キリストを運ぶため、イエスさまのすばらしさを伝えるため、伝道のために、自分の持てるすべてのものを全部使っていく。
それが許される時、許されない場面、いろいろあるに違いない。
でも人生の基本原則はもう決まっていて、カカのように、「私はキリストのもの。私の人生、あらゆる場面で、もし機会が許されるならば、自分の信仰を伝えていきたい。キリストの素晴らしさを伝えていきたい」

私たちの教会はそういう方々で溢れていますよね。
どんな職業かわからない。でも聖書を配る方もいれば、大学に伝道に行かれる方もいらっしゃれば、牧師だけではなく、ありとあらゆる方が自分がクリスチャンであるということを、どこかで伝えようとしているという教会が、伝道の力に溢れた教会です。

伝道的なイベントを沢山やっている教会が、伝道に溢れた教会ではない。
一人一人が自分はイエス・キリストに属し、何か主の示しがあれば、自分の信仰を証ししたいと願っている人たちが満ちている教会が、伝道の力に溢れた教会です。

3)教会の最終的な目的が書いてありますが――

ちょっと皆さんに、使徒の働きの2章をちょっと見ていただいて、その2章の終わりの方、43〜47節を交読したいと思います。

43そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。
44信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
45そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
46そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
47神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

とても温かな雰囲気の箇所ですね。
44節に、「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。」――詳しく見ますと、必ずしもこれは共産主義的なコミュニティを作ったということではないですね。
それぞれが、それぞれの必要を満たし合っていた、という意味でしょう。

46節に「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き」――家の教会だったのでしょうね。「喜びと真心をもって食事をともに」した――毎日そんなことしていたら大変ですので、実際は毎日ではなかったんじゃないかなぁと、私(藤本牧師)は思うのですけれども、温かな雰囲気が記されています。

ペンテコステの日に、ペテロの説教を聞き、三千人がイエスさまを信じて洗礼を受けます(***41節)。
みんな、自分の罪のためにイエスが十字架にかかられたことがわかりました。
みんな、その罪を悔い改めて、洗礼を受けました。
みんな、救われて、賜物としての聖霊を受けました。

そのみんなが、これまでになかった新しい家族を形成していくのですね。
これが独特なことです。そしてこれが教会になるのです。

罪や迷信の奴隷となって生きていた人びとが、神の御心に生きることを学ぶ世界ができる。
不安におののく人たちが、神に委ねる信仰を学んでいくのです。
自己中心やどん欲な思いが当然である世界に生きてきた私たちが、神の愛というものを学ぶようになる。
その時、経験も学歴も育ちも、一切関係ない、不思議な世界ができるのですね。

不思議な世界、その独特の不思議さを表現しているのが、いま読んでいただいた箇所です。
彼らは、自分の持ち物を時に兄弟姉妹のために提供し、「心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし」(46節)ていた。

先週の金曜日に、市川にある聖望教会の家庭集会に、七年連続で行くのですけれども、ものすごい雨で帰りにA兄姉の車に乗せていただいて、A・K姉と一緒に錦糸町の駅まで送っていただいた時に、横浜の方向に帰るという一人の男性が一緒でした。
彼は私(藤本牧師)は会ったのは初めてで、七回で会ったのは初めてで、半袖を着ていて、何となく皮膚がもうすっごい焼けていて、これだけ皮膚が焼けているとなると、ふと想像するのは、路上で生活しているか(笑)、なにかものすごく特殊な人なのだろうなと思って、「何をしていらっしゃるのですか?」って訊いたら、その聖望教会を造った一級建築士。

それで、(彼には)趣味があって、それは自転車で世界を回る。
あ、なるほど、路上生活者じゃなくて(大笑)、自転車で世界を回る方なのですね。
それで、家に帰って、彼のブログをいろいろ検索してすっごい(ことがわかった)。
今まで見た中で、一番厳しく、一番綺麗なところはどこ?オーストラリア縦断じゃなくて横断。縦断の2倍。シドニーから一番こっちですね。
それは二ヶ月の休みを取って、3回もかかったという。二ヶ月でここまで走り、もう二ヶ月でここまで走り(笑)、何もない荒野ですね。
一番刺激的だったのは、アフリカですと。なるほどな。アフリカはケニヤから入って、南アフリカ。で、先月イスラエルを10日間で一周して来ました。

ほとんど何も言わないのですけれども、ブログを調べていたら、彼には多分息子さんと娘さんがいますね。でも車の中でぽろっと、自分は妻を亡くしたと。
こういう瞬間って不思議ですよね。
イエスさまが備えてくださる出会いですけれども、私は真ん中に座っていました。荒井姉がいて、そしてその兄弟がいて、初めて会ったのですけれども、あ、自分はこんな人物と一緒にいま車に乗っているのか。
で、彼はいろんな所へ行って写真を撮りますので、写真集を以前いのちのことば社から出版しましたと。K兄と言っていましたね。

教会ってね、すっごく不思議な所です。
アメリカのクリスチャン・ジャーナリストのフィリップ・ヤンシーがこんなことを記しています。
これはね、興味深いので、これは考えなきゃいけないので、よく聞いてください。

新約聖書で教会についての記事を読んでいくと、独特な意味で目に飛び込んでくるのは、教会の中にある多様性です。
ペンテコステに始まって、キリスト教の教会は、性別、人種の違い、社会階級の違いという、ユダヤ教の共同体に特徴的なことがすべて姿を消してしまいました。

――旧約聖書に特徴的なことというのは、性別、ものすごく特徴的です。男性と女性の違い。
人種もユダヤ人と異邦人という違いがあるようにものすごく特殊でしょう。
それから、社会階級っていうのは、ま、社会の外に住まなきゃいけない特殊な病気を持った人、それから所謂罪人と呼ばれる人は、神の神殿に入れない。これもものすごく線引きがされていますよね。
ヤンシーはこう書きます――

パウロは、かつてユダヤ教の教師であった。すると彼は、自分が女性として生まれなかったこと、奴隷として生まれなかったこと、また異邦人として生まれなかったことを神に感謝していたに違いありません。
しかし今は、パウロがキリスト者となった今は、そんな違いはどうでも良いこととして、消えてしまいました。
パウロの頭の中には、そして、教会の頭の中にあっても、ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、奴隷と自由人の区別もなく、男女の区別もなく、すべての者はキリスト・イエスにあって一つとなったのです。

あるとき、インドの牧師が私(――ヤンシー先生)に話してくれました。
教会の中で起こることのほとんどは、その奇蹟を含めて、ヒンズー教の寺院でもイスラム教の寺院でも起こることだ、と。

――例えば賛美歌を歌うとか、お祈りをするとか、聖書が開かれるとか、全部ヒンズー教の寺院でも、イスラム教の寺院でも起こることだ――

でも、キリスト教会だけに特徴的なことを挙げるとすれば、なんと会衆がカーストの区別なく、人種の区別なく、男性も女性も、大人も子どもも、普通にいっしょに座って神を礼拝している。
私は、これこそが最大の奇蹟だと思う、そうインド人の牧師が話してくれました。

――ヤンシーは続けます。ここからが、とっても大切です――

多様性は、人生を単純にするよりは、必ず複雑にします。
それゆえ、私たちは自然に、同じような生活環境の人々と交わるし、私たちは複雑に人生をしたくないので、自然に、同年齢、あるいは同じ意見の人々とつるむ傾向になるでしょう。

ところが教会は、赤ちゃんにもおじいちゃんおばあちゃんにも、職のない人にも、大きな会社の役職にある人も、外国人も、どんな人種の人も同じように集い、讃美歌を歌い、祈り、聖書の話を聞き、交わることができる場所です。

私は、ちょうど昨日礼拝に行きました。私の左には、酸素タンクを引きずりながら、鼻にチューブをつけているおばあさんが座っていました。私の右側には、赤ちゃんにおっぱいをあげながら、赤ちゃんがぐずってうるさい親子がいました。でも私は、実に穏やかに集中して、聖書の話に耳を傾けました。
この世界に、そのような集まりが他にあるでしょうか?

――職のある人も、会社で非常に高い地位の人も、外国人も日本人も、病んでいる人もそうでない人も、私たちは一様に、しかも同じ意見ではないと思います。信仰の理解も多少違うでしょう。生活の境遇に至っては、至って異なっているでしょう。ヤンシーはこう言うんですね――

仮に初めての教会に足を踏み入れ、そこにいる人たちがみんな同じような格好をし、同じような年齢だとしたら、私はむしろそちらに違和感を感じます。
         
(Philip Yancey, "Denominational Diagnostics," Christianity Today, November 2008, p. 119.)

初代教会も現代の教会も、そんな感じですね。麗しいことばかりではありません。人間事が沢山含まれています。でも目指すべき伝道がある。

教会はイエス・キリストによって建てられ、その教会に私が集ったのではない。イエス・キリストがあなたを導いて、あなたがその教会に集うようになった。
愛し合い、分かち合い、大切にし合い、喜び、尊び、一番大切なことは、私たち一人ひとりがイエス・キリストに属している、イエス・キリストのものであるという事実。

そして私たちの間では上下関係もなく、高津教会に集って、きょう初めて来た人も、五十年通っている人も、等しく兄弟姉妹――そんな交わりを聖霊は教会の中に作ってくださいます。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、この教会を建てられたのは、人間でなくイエスさま、あなたご自身であるとすれば、この教会に集うように決断したのは、私ではなく、あなたの摂理と導きによる、という自覚を私たちはみな持っています。

考えてみたら、引越しや様々な出来事の中で、自然とこの教会に引き込まれて来ました。そして私たちは皆、その背景も考え方も違いますし、出身も救われた教会も違うかもしれませんが、でも皆が一つとなり礼拝できる恵みを心から感謝いたします。

どうか私たちに聖霊の力によって伝道の情熱を与えてください。それは機会があれば、キリストの素晴らしさを――人を助けることなのか、励ますことなのか、導くことなのか――機会があればどんな時にも、自分はイエス・キリストを運んでいる、イエス・キリストに属している、私はイエス・キリストのものであるということを証しすることができるように、私たちにさらに聖霊を増し加え、力を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2014.06.09 - 20:09
LAST UPDATE: 2014.06.09 - 20:51

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李和珍 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 106.170.137.20
ヨハネの黙示録の7つの教会 、、、肉村が 多いのでは?
2014.06.10 - 21:18 
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