☆聖書個所 ルカ22:24〜34 (新改訳聖書第3版)
24また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。 25すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。 26だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。 27食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。 28けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。 29わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。 30それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。 31シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 32しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 33シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 34しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。
☆説教 ペテロの信仰(3)信仰の試練を超えて
受難の月に入りまして、そして4回連続でペテロから学ぼうと思っています。今日はその3回目、試練で錬られるペテロ、ルカの福音書の22章を読んでいただきました。 来週は復活の記事から、ペテロの信仰の姿を見ていただきたいと思います。
見ていただきたいのは31節からですので、もう一回31節から読んで行きます。
31シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 32しかし、わたしは、あなたの信仰が無くならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 33シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 34しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
19世紀の最後に中国の奥地に宣教に行った、有名なハドソン・テイラー(1832〜1905)という人物がいます。ハドソン・テイラーが中国の奥地に行ったとすれば、同世代のリビングストン(1813〜1873)という宣教師はアフリカの奥へ奥へと進んで行きました。両方ともイギリス人です。
リビングストンという人物はハドソン・テイラー以上に宣教師だけでなくして、探検家としての野望も持っていました。ともかく、アフリカの、今で言うと中央アフリカ、ケニヤ、タンザニヤに向かって奥へ奥へと南下していきます。
母国の宣教団体の委員会は、彼にある時手紙を送りました。その手紙には、 「先生、先生に加わりたいと手を上げている宣教師がいます。是非、先生の一行と合流するために最短の方法を教えてください」(とありました)。 その手紙に、リビングストンはこう答えたと言われています。 「最短ルートを求めるような協力者はいらない。私の働きに参加したいなら、道なき道を旅する勇気ある人物を送ってくれ」
前回、イエスさまがご自身の行く道が受難の道であると明かされた時に、ペテロはそんな感じでありました。ペテロはイエスさまを諭して、叱って言いました。 「なにも十字架の道なんか行かなくても、最短の道で救い主となって、この国をローマの圧政から解放してください」と訴えました。 そのペテロに向かってイエスさまは、 「サタンよ。退け」 非常に厳しい言葉をかけられます。
この最後の晩餐の席上でも、ルカの福音書22章ですが、ペテロを含めて弟子たちは依然としてイエスさまについて行くことを、どこかお気楽な気持ちで捉えていました。
24また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。
一行がエルサレムに入って、いよいよ「天下を取る」という意識なのですね。いよいよ天下を取ると感じた弟子たちは、では十二人の中で一番偉いのは誰なのだと、そういう現実的な問題として話をしていく。 だれもが有利なポジションを欲しい、だれもが人の上に立ちたいと争うこの世界の雰囲気がそのまんま、最後の晩餐の席上にあったということ。 霊的には、信仰的にはそんなに未熟な弟子たちでも、威勢ばかりは一人前でありました。
イエスさまが過ぎ越しの祭りの食事をしておられたときに、「一人がわたしを裏切る」(***ヨハネ13:21、マタイ26:21、マルコ14:18、ルカ22:21)とイエスさまはおっしゃいます。さらに弟子たちに「あなたがたはみな、散り散りになって行く」(***マルコ14:27、マタイ26:31)ということを予告されたときに、ペテロは虚勢を張って、
33「主よ、ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」
と言ったのです。 さてこの場面から3つのポイントで考えてみたいと思いますが、――
1)主は、ペテロの本当の姿を知っておられました。
自信にあふれたペテロに向かって、イエスさまはおっしゃいました。
34「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
「あなたに言いますが」というのは、「よ〜く聞きなさい」ということ。今晩、「鶏が鳴くまでに」というのは、「明日の朝を迎えるまでに」(ということです)。
ペテロは、イエスさまについていくということについてはいのちをかけて来たつもりです。
第一回目でともに学びました。あの湖で、イエスさまは「深みに漕ぎ出して、網を降ろしてみなさい」と、皆に言います。 他の漁師たちは、これだけ漁をして獲れなかったのだから、今更深みに漕ぎ出して獲れるわけがないじゃないか、と思っていたらば、ペテロだけは違いました。 「私はそうします。」と、「私は」と言ってペテロは、イエスさまのことばに対する信頼を、個人的に一歩前に踏み出して掴んで、そしてイエスさまについて行く決意をします。
それからしばらくして、前回学びましたように、「下がれ、サタン!」と強烈に叱られたときも、ペテロはそれでもイエスさまについていきます。
ペテロの心に揺らぎはありませんでした。ですから、「主よ、あなたが行かれるところなら、どこであってもついて行きます」。 ヨハネの福音書のことばを借りれば、それは「主よ、あなたこそが永遠のいのちのことばを持っておられるからです」(ヨハネ6:68)――その(揺るがない)確信がペテロにはありました。
だから「牢であろうと、死であろうと……」(という)自信にあふれた決意を彼は持っていたのです。でも、イエスさまは、ストレートにおっしゃる。
(ヨハネ13:38)「まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」 「あなたは、わたしを否む」――イエスさまは知っておられた。私の傲慢さも弱さも、私の罪深さも愚かさも、主は知っておられる。 私の弱さ、私の傲慢さ、私の罪深さ、私の愚かさと言った時に、私たち全員がその範疇の中に入る。 私たちはみな傲慢で、私たちはみな人として弱さを抱えており、私たちは罪深く、私たちは愚かです。 それがたまたまではないのでしょうが、全員そうですから、私たちの心の中には、「私たちはあの人よりはましです」と、人と比べてより優れている点を取り上げて、自分だけましであるかのように思うのですが、でも実はそうではない。 イエスさまは知っておられる――私がどんなに傲慢で、私がどんなに弱く、罪深く、また愚かであるか。
問題はペテロ自身のことだけではありませんでした。(ルカ22章)31節に戻ってください。
31「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」
「シモン、シモン」というのは、ペテロ(の本名のこと)です。「麦のようにふるいにかける」というのは「大きな試練がやって来る」という意味ですが、サタンがそれを神さまに願って、神はそれを許された。 そのあたりのことは、ちょっと難しくて単純に表現することはできませんが、言えることは単純で、問題はペテロ自身だけではない。問題は私自身だけではない。問題は皆さん自身だけではない。
弱くて、罪深くて、傲慢であるにもかかわらず、自分は強い、自分はましだとうぬぼれているペテロの心を、私の心をサタンが掴みにかかる。サタンは素手で掴む。 こうしてペテロは、自分の想像を絶したつまずきを体験します。ペテロにはこれほどショックなことはありませんでした。
イエスさまと一行がゲッセマネの園に行って、そこでイエスさまはお祈りをし、その園を出た後に、大祭司の官邸の役人がイエスさまを捉える時が来ます。そうすると、弟子たち全員が、ペテロも含めて、蜘蛛の子を散らすように逃げていきます。 その後、何を思ったのか、ペテロだけが、主が連れて行かれた大祭司の官邸の裏庭に忍び込み、たき火に当たっていました。 その時、官邸の庭でたき火に当たっていたペテロに、官邸の女中が詰め寄ります。 「あなたもあの人の仲間なのでしょう?」 彼はどんなに否定しても、三度も「あなたも仲間なのでしょう?」と(詰め寄られ)、 最後彼は誓いをかけて、 「あんな奴は知らん」とイエスさまを否みます。その時、22章の62節を見てください。このことばが出て来る。22章の61節と62節をごいっしょに読んでみましょう。
61主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。 62彼は、外に出て、激しく泣いた。
ペテロが三度否んだその後、鶏が60節の最後に(***彼がまだ言い終えないうちに、)鶏が鳴くのですね。朝が来るのです。 そして大祭司の官邸の中での裁判を終えて出て来られたイエスが、そのペテロを振り向いて見つめられるのです。その途端に、あの最後の晩餐の席上でイエスに言われたことば(34節)を思い出して、ペテロは外に出て激しく泣きます。
これでキリストの弟子としての彼の人生は、終わったのです。 「牢にでも、死んでも、どこへでもイエスさま、あなたの後についていきます」と豪語したペテロの信仰は、もろくも崩れてしまいました。 それは、ペテロが今まで体験したことがないような試練(と挫折)であった。何しろ、自分の信仰を自分で否定したのですから。 主はそうなることを知っておられた。――ここがとっても味わい深い。 主はペテロの弱さも罪深さも知っておられたし、主はそうなることを知っておられた。
2)主イエスはペテロのために祈られました。
22章の32節に戻ってください。
32しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。……
「しかし」と始まります。ペテロの弱さを知っておられて、その弱いペテロの心をわしづかみにするサタンの存在を知っておられて、そうなることを全部見抜いた上で、「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(と言われる)。
主はペテロのために祈られた。試練と挫折の中で、取り返しのつかない失敗というのがあります。取り返しのつかない失敗というのは沢山ある。埋め合わせのできるものもあれば、取り返しのつかないというものも沢山あります。
でもその中でも、信仰がなくならないように、そしてその試練を通して幾倍にも成長して、扱われて、大きくなって戻って来るように、「わたしはあなたのために祈っている」とイエスさまはおっしゃっいました。
あなたがそれほど弱くて、その弱いあなたが自分の弱さを知らずに、サタンにわしづかみにされたとしても、そして実際あなたが転んだとしても、わたしはあなたを突き放さない。わたしはあなたを守っている。その試練の中で(あなたを)支えている。
4つの福音書の中で、イエス・キリストを否んだ後のペテロと目が合っている、官邸から出て来たイエスさまと目が合っているのを記しているのはルカだけです。 その時、イエスはペテロを見つめたと。ではどういう眼差しで見つめたのか?
もしもペテロの裏切りに対して注がれた主の眼差しが、「見よ、わたしが言った通りになった。おまえは、まさにその通りに裏切った」というような、鋭い咎めるような視線であったら、ペテロは恐らくユダと同じように、自殺へと突っ走らざるを得なかったでしょう。
でもそういう眼差しではなかったはずです。 なぜならルカの福音書には、「あなたの信仰がなくならないように、わたしはあなたのために祈った」(22:32)と記されているからです。 どんな眼差しかと問われれば、それは憐れみに満ちた眼差しで、そしてその眼差し一つで、「大きな挫折を体験しているあなたのために、わたしは祈っている」という(優しさを語り尽くしている)眼差しだったに違いない。
神さまは試練がペテロに襲いかかることをよしとされました。しかし、御子イエス・キリストはペテロのために祈り、ペテロを鍛えた。試練によって、ペテロの信仰は深められます。
ちょっと後のペテロを見ていただきたいと思うのですが、新約聖書のずっと後ろにTペテロというのがあります。へブル人への手紙よりも後ですね。 Tペテロ1:6と7をごいっしょに交替でお読みしましょう。
6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、 7あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
いましばらくの間は、さまざまな試練の中で悲しんでいます。「でもあなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつ」――いま火で精錬されて行く、精錬のこの節にある。そしてやがて「朽ちて行く金よりも尊く」なる。
金は道端に落ちているわけではない。金は金鉱石の中に入っています。金鉱石を取り出します。そして、鉱石の中で金は他の物質と混じっていますけれども、その金鉱石を火にかけると、精練作業ですが、金は熱に弱く溶け始めます。そして他の物質の中から、金がドロドロと液状化して溶け落ちて来る。そして最後に残った不純物を取り除いていく、その作業を繰り返していくのが精練作業で、不純物の混じった金がどんどん火によって純化されていきます。
信仰の試練とはそういうものだと(いうのです)。ペテロの挫折というのは、確かにペテロは弱かった。確かに状況はペテロの魂を掴んだ。しかし信仰の試練は、ペテロを強く純化していくということもまた事実です。
20世紀前半に、圧倒的な洞察力でアメリカの教会の信仰を導いたA・W・トウザー(1897〜1963)という人がいます。牧師であり、神学者ですが、彼が(その著書「義人の根」の中で)こういうことを記しています。
「金槌というのは(ハンマーですね)とても役に立つ道具だ。しかし、もし私たちを釘の側においてみれば、話は違う。 ハンマーはいいけれども、ハンマーでガツンガツン叩かれる釘だと思った時に、こんな厄介な存在はいない。もし釘に理性や感情があったとしたならば、こんなに厄介な相手はいません。自分の頭をいつもガツンガツンと叩くのですから。 でも釘はハンマーのことだけを考えてはなりません。釘は金槌を握っている大工の手を思い出すべきです。 もし釘が金槌ではなく、それを握っている大工の手を思い出すなら、釘は大工が立派な家を建てるために自分が用いられているということがわかるでしょう。 でも私たちは、往々にして金槌のことばかりを考えて、どうしてこれほどの試練が?どうしてこれほどのストレスが?なぜ私は叩かれるのか?ということばかりに気持ちを持って行ってしまう。」
試練という金槌に耐えた時に、その金槌を握っておられるのは神さまです。 試練という金槌によってのみ、ペテロの信仰は純化されていくのです。それに耐えることができたのは、ペテロは少なくとも金槌を握っておられるイエスさまの手を見ることができたからです。
3番目、これで最後ですが、もう一回ルカの福音書の22章に戻ってください。 (今日のポイントをおさらいしますと、) 1番目のポイントは、イエスさまはペテロの本当の姿、そしてペテロを取り巻く状況を見ておられた。 2番目に、イエスさまはそうした試練を通して、ペテロの信仰を純化していかれたということです。 3番目に32節の最後、――
3)あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
イエスさまは仰った。あなたは立ち直る。そして立ち直った時に、あなたは数段強くなる。優しくもなる。ペテロは試練の中で主のものとされ、後に主のもとに回復していきます。
初めは、独善的な自信にあふれたペテロに過ぎなかった。イエスさまはその自信過剰のペテロを砕いて、自分を知りなさいと仰いました。 そうして今度は、自信を喪失したペテロです。しかしイエスさまは自信にあふれて仰る。――あなたは立ち直る。
屈辱を通して、砕かれて、扱われて、主のものとされたペテロは、数段大きくなって、優しくなって戻ってくる。 権威を帯びて戻ってくるのではない。弟子たちを力づける優しさと強さを帯びて戻ってくる。――これは不思議だなぁと思わなければならないことだと思いますね。
カトリックの世界では、今回ローマ法王が変わりましたけれども、ローマ法王が最も偉大です。まぁトップですね。二十億の人々のトップに立つローマ法王、なぜそうなるのか?一つにはカトリックの人々は――マタイの福音書(***16:13〜20)に出て来ます「あなたは(生ける神の御子)キリストです」と告白したペテロにイエスさまは天国の鍵を渡す(――その場面から考えられることです)。
マタイ16:19「わたしはあなたに天の御国の鍵を上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
「つなぐ」というのは、罪を赦すとか赦さないとかそういうことです。宗教的な権威を一つの鍵にたとえて、イエスさまはペテロに渡したのです。これを鍵の権能と言いますが、カトリックの方々はそれがペテロに渡され、ペテロ以来、代々ローマ法王がこの鍵の権能を受け継いでいると考えます。私たちプロテスタントはそうは考えないですね。
しかしですね。ペテロを重んずる意味は歴史的な事実がありまして、初代教会においてペテロの為した働きは絶大でした。弟子の中で一番尊敬されていたのは、確かにペテロでした。でもそれはなぜだと思います?
最後の晩餐の席上では弟子たちはだれが一番偉いかと論じ合うわけでしょう?だから、だれもペテロが一番偉いとは認めていないわけですよ。 3年半イエスさまとともに十二弟子は過ごしながら、だれ一人として、ペテロが一番偉いねとペテロに一目置いていないです。 彼がずば抜けて雄弁だったとか、ことさら信仰が篤かったのか、弟子たちの間で彼が一番人望があったのか、いやそうではない(ことは)明らかです。
なぜ初代教会の中でペテロがトップにいるのか?最も用いられて行くのか? それは主が言われた通りに、ペテロはイエスさまを3度否んだからです。 人の罪深さ、人の弱さ、それを一番魂の芯で捉えたのはペテロだった。 ということは裏を返せば、その罪深さと弱さを包んでくださるイエスさまの祈り、それを荷ってくださる十字架、そのイエスさまの愛を一番強く体感したのは、紛れもなく3度「イエスを知らない」と否んだペテロだった。 だからペテロは、初代教会で、弟子たちの中で、一番重んじられるようになった。
それはパウロを見ても同じじゃないですか。パウロはなるほど、なぜあれほどまでに、用いられるようになるのか?彼は堂々と証ししていますよね。
Tテモテ1:13私は以前は、神を汚す者、迫害する者、暴力をふるう者でした。 同1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
謙遜で言っているのではない。これは事実ですよね。 ペテロが3度イエスさまを否んだというのは、事実です。ひっくり返すことができない罪深〜い事実を、パウロも抱えていた。でもそれがゆえに、彼は主の憐れみというのが、本当に心の底で解った。
ペテロもパウロも、その罪深さの故に、主は選び用いられた。 そして、私たちもまたそうです。 ペテロのように挫折し、パウロのように時に暴力をふるうような者たちであるかもしれない。 でもそれを心底認めて、解りつつ十字架を仰ぐなら、十字架の恵みは私たちを圧倒し、あなたは必ず立ち直って、戻って来て、周囲の者たちを力づけることになる。
そう仰ってくださる主に私たちは心から信頼して、祭壇の角の所に至るまで、この受難週を歩んで行きたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、あなたのみ教えの中で、時に私たちは愚かなことをいたします。時に私たちは、サタンのつまづきの石に見事なまでに転んでしまい、「ああ、自分の信仰をこんな風にして否定するに至ったのか」(と悲観に暮れます)。 しかし、「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」――その祈りに支えられて、今朝このように礼拝の恵みにあずかることを感謝いたします。どうか私たちを立ち直らせてください。
その時に、より傲慢になって戻ってくるのではなく、より遜って、でも周囲の兄弟姉妹を力づけるほどの、優しさと力強さをもって戻ってくることができるように、私たちを導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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