☆聖書個所 ヨハネ21:1〜14
1この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。 2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。 3シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 4夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。 5イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」 6イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。 7そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。 8しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。 9こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。 10イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」 11シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。 12イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。 13イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。 14イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。
☆説教 ペテロの信仰(4)原点に戻る
ずっとルカの福音書からペテロを見てまいりましたが、最後ヨハネの福音書に戻りたいと思います。ヨハネの福音書21章は、私(藤本牧師)は情感にあふれて記されていると思います。場面はガリラヤ湖。イエスさまが復活をされてから一週間ぐらい経ってからのことだろうと思います。ですから1節に――
1この後、イエスはテベリヤ(ガリラヤ)の湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。現された次第はこうであった。
時間は、3節に「その夜」とありますので真夜中で、4節に「夜が明け初めたとき」とありますから、朝焼けの時間帯、早朝へと移っていきます。 夜に弟子たちは散らされて、もう一度ガリラヤ湖に戻った弟子たちは、漁に出かけた。2節に――
2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
ということは、ゼベダイの子たちというのは、ヤコブとヨハネですから、合計7人の弟子たちがいました。その弟子たちが夜通し漁をしていて、4節に――
4夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。
魚は一匹も獲れません。5節――
5イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」
ガリラヤの湖の朝。 真っ暗な湖の水の上を、金色に輝いた太陽が上がって来るのです。 そういう瞬間です。そのとき、イエスさまは、岸辺に立っておられました。
夜が明けそめた頃、漁は終わりました。 空は明るくても、ペテロの心の中は暗いままでした。 季節は今頃ですから、風は冷たかったかも知れませんが、ペテロは別にそんなことが気になっていたわけではない。一晩中漁をしても、一匹もとれなかった、それもまたペテロには気にならなかったことでしょう。
黙々と漁をしながら、ペテロの頭の中には一つのことだけしかありませんでした。彼の心は、ガリラヤの湖から遠く離れたエルサレムにありました。あの金曜日の十字架以来、あの忌まわしい夜のことが忘れられない。
ゲッセマネの園にやってきた兵士の武器の音、暗がりで燃えるたいまつの炎の輝くさま。 彼の頭の中に、何度も何度も繰り返される質問は、――どうして俺は、あのとき逃げたんだ?――そればかりです。彼はイエスさまに背を向けて、一目散に逃げ出しました。走って、走って、離れて行きました。そして、身を潜めていた。
数時間前に――「たとい全部の者がつまずいても、私は決してつまずきません。たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、 私はあなたを知らないなどとは決して申しません」 ――確かに、そう豪語しながら、勇ましく胸を張ったペテロ。でも自分の勇ましい口調が何度も何度も自分の記憶の中に戻って来て、そして真っ暗になって行きます。――なぜ逃げたのだろう。
ペテロは、身を潜めてしばらくして、少しの勇気を振り絞って、大祭司の家に忍び込みました。 イエスさまを完全に捨てたわけではなかった。 ペテロは様子を見に行きました。そうしたのは、ペテロだけです。
先週ルカの福音書で見ました。「ペテロは、遠く離れてついて行った。」 (ルカ22:54)彼に少しばかりの忠実さと勇気があったとしたら、それは事実だと思いますが、でもなんとその場で、イエスさまを三度否み、鶏が鳴き、そして、大祭司の館から出て来たイエスさまと目が合ったという話を先週しました。
ガリラヤの湖に漁に出る前に、すでにペテロはイエスさまの復活を確認しているのです。空っぽの墓に行っていますから。 マグダラのマリヤの報告を聞いて、真っ先に走って、空っぽの墓に走って行ったのはペテロでした。 家に閉じこもっていたところに主が現れたときも、トマスの前に現れたときも、ペテロがそばにいたと考えられます。
しかし、イエスさまの復活のことも、主が死を打ち破られたことも、ペテロの頭にはありませんでした。 彼は考えていたのは、ただ一つのことで――自分はこれからどうしよう――主を見捨てた自分です。 あのエルサレムの晩のことしか頭にありませんでした。
3つのポイントで話をします。
1)人間というのは、往々にして自分の失敗にこだわり、自分の人生にしか心を集中することができない。
考えて見たら普通のことですが、当たっていませんでしょうか?私たちにとって、日本の総理大臣が変わったとか、世界で大きな戦争が始まったということ以上に、自分の犯す小さな小さな失敗が頭にこびりつきます。
イエスさまの復活は人間の常識を覆すほどの出来事でした。 イエス・キリストは復活されたということは、弟子たちにしてみたら、もちろん信じられない、天地をひっくり返したような出来事ですね。 そうしますと、普通の感覚で言えば、我を忘れて、神がなされた御業を論じる、考える、祈る。それを理解しようと消化する。そして聖書を学んで行く――それが自然だと思うのですが、いいえ、必ずしもそうでもないのです。 ペテロも弟子たちも忘れられない。イエスさまを見捨てた事実を忘れられない。
この世界には、おめでたいこともあれば、この世界には、これからの日本の情勢を変えてしまうような出来事が沢山あるに違いない。でも私たちの頭にこびりついているのは、そういうことではない。 なぜ、自分はこんなに苦労するのだろうか、なぜ自分はあの時、ああいう振る舞いをしてしまったのだろうか。わずか、周りの人の耳には届いていないような、自分が発したことばに自分がこだわるのです。
イエスさまを三度否んだペテロは、自分の為した取り返しのつかない失敗を忘れられません。 言い変えますと、神の国の福音なんかどうでもいいかのように、彼は以前していた仕事、ガリラヤの漁師をしているのです。なぜか? 人は、天地をひっくり返すような出来事よりも、明日の自分の小さな不安の方に心がい っぱいになる。 この世界が滅びるより、自分の人生の苦痛の方に人は関心があるのです。
2)そんな時、ペテロは不思議にも、信仰の原点に戻るようになる。神さまがそうさせます。
真っ暗な夜にガリラヤ湖で漁をするのは、初めてのことではありませんでした。また夜徹し漁をしても、一匹も獲れなかったのも初めてではありません。 久しぶりのガリラヤ湖の岸辺に立った時に、ペテロには思い出した光景というのがあったはず。
3年半前、その朝、彼は夜の漁を終えて帰って来ました。 いつもなら、岸辺を市場にして、獲って来た魚を売りさばくところ、一匹もとれなくて、ただ網だけを洗っていました。 そこへイエスさまが来られ、「舟を貸してくれ」と言われた。 「あなたの舟に乗って、少し岸から離れたところから、人々に話をしたい」 ペテロはイエスさまを乗せて、舟を出しました。
話が終わった頃、イエスさまは妙なことをおっしゃいました。 「深みにこぎ出して、網を下ろしなさい」――ペテロを学んだ一番最初のときに、この言葉に注目しました。 あの日、彼はイエスさまの言葉にかけたのです。そして網は破れるほどいっぱいになりました。ある意味、そこで初めて彼はイエスさまのことを信じた。
まさしくその現場に戻って来たのです。3年半の歳月を経て、同じ湖、もしかしたら同じ舟、同じ湖の場所だったに違いない。自分の信仰の原点に戻って来た。
皆さんにしたら、どういう風に、信仰の原点に戻るのでしょうね?
先週婦人会で、最近教会に来ておられる常盤(ときわ)姉がお話をしておられました。常盤姉はもう70歳代ぐらいになるのでしょうかねぇ、若い頃アメリカに留学しておられた。フィラデルフィアです。1960年代です。その頃女性が留学するっていうのは、まずないです。 やがて戻って来て結婚されるのですが、結婚して分かったことは、なんとご主人が同じ時期にフィラデルフィアの神学校に行っておられた。 それでこの前、何十年もして、そのフィラデルフィアに戻ったという話をしておられた。結論からいえば、あの時あの場で出会っていたら、結婚していなかったね(大笑)、ということでした。 でも私たちは信仰の原点に戻ってみたいと思うじゃないですか。
2月にお呼びした、藤原導夫先生は留学から戻って来て、北海道の教会を彼は3つ任されるのですね。
彼は5年ぐらい前に奥さまといっしょに弟子屈(てしかが)を中心とした3つの教会を見に行った。それはある意味で、自分の牧師人生の何か一つの区切りとして見に行った。3つの教会はもうすでに閉鎖されていて、看板だけ残っていて、看板の前で写真を撮ったという写真を私に送っていただきました。彼はひとこと「何とも言えない気持ちだった」と。その「何とも言えない気持ち」の中身は、どんな気持だったか書いていない。
恐らく小さな子どもを抱えて、そしてあの寒い寒い北東の北海道で、風の強いところでどういう風に伝道していったのだろうか、どういう風に生計を立てていったのだろうかと、そういうことも考えたに違いありませんし、あの時教会に集っていた方々は今どこの教会で何をしているのだろうかと、弟子屈の以前の兄弟姉妹が集って食事をすることができたと書いてありましたけれども、いろんなことを思ったというのは、いったい何だったのだろうかと思わされます。
そうしますと、聖書にはほとんど書いてありませんけれども、ペテロがイエスさまを捨て、イエスさまを裏切り、イエスさまの復活を見届けて、しかしイエスさまに合わせる顔がなくて、ガリラヤで、湖で網を打っていた。 そこでイエスさまにもう一度声をかけられたこの信仰の原点って、何だったのだろうか?
一昨日車を運転しておりましてですね、後ろから救急車が来ておりまして、私の横にトラックが2台あって、私の前の車が救急車を通してやろうと思って、止まったのですね。私は、いや、あそこで止まっても絶対救急車は通れないから、止まっている車を抜いて先に行ったのですが、圭子がそれを見ながら「あなたは昔よく救急車に乗ったわね」(大笑)。私ね、高津教会に赴任してわずか2年で3回救急車に乗ったのですよ。もう牧師をやめようと思いましたね。人前で話す仕事なので、呼吸器の病気とかは不可能ですね。
最後に、圭子がTVで面白い病院やっていたからそこに行こうと、大塚の病院に行ったんですけれども、行ったらこの部屋ぐらいのが2部屋ありまして、ベッドがざーっと並んでいるのですよ。全員点滴しているのですね。サラリーマンはスーツ・ネクタイをして点滴してますし、主婦もいればお爺さんおばあさんもいますし、そこでステロイドの点滴をして、それから仕事に行くのです。 私はひとりのご婦人に声をかけて、同じぐらいの世代でした。 「どんな感じなのですか?」 「これが無かったら生きていけません。これが無かったら一年の半分以上は病院です。私にはこれしかチョイスがない」
保険診療じゃないのですね。紙を渡されて、「よかったらこれにサインをしてください」と(言われ)、自費で払って、そして私が大塚まで点滴を打ちに行くのか、毎週行くのかと思ったら、何とも言えない絶望感でしたね。そして、二人で「今日は辞めよう」と言って帰って来ました。
皆さんのどんな人生でも、どんな職場でも、どんな極限でも、何らかの原点というのがある。ペテロが一番最初にイエスさまに声をかけられた時に、彼は網を捨て、イエスさまに従って行くのです。 その3年半後に、彼はそのイエスさまを捨てるのです。そして絶望した時に彼は、姿をくらまして(誰も)「二度とペテロを見ることはなかった」ではない。イエスさまは彼に「原点に戻れ」と(おっしゃった)。
いま裕福であれば、あの貧しかった原点に戻れ、いま健康であれば、自分の身体がずたずたであったあの原点に戻ってごらんと言わんばかりに、ペテロはガリラヤの湖に立ち、イエスさまはそこに現れたのです。
今回も、あの朝と同じように一匹の魚も引っかからなかった。何度網をおろしてみても同じでした。疲れて戻って来て、そして6節に――
6イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」
網を手繰ってしばらくすると、しばらくすると、その網の重みが分かって来た。魚でいっぱいです。何百匹の魚が獲れました。 それを引き上げるのが精一杯で、ペテロもヨハネも、ことの重大さを考えている時間がない。そして、ヨハネの方が先に気がついて、7節――
7「主です。」
「ペテロ、あれは主だ、主イエスさまだ」 二人いるっていいですね。どちらかが気がついてくれる(笑)。 ペテロはじーっと岸辺を見つめて、そのとき彼の心の中で、全部が一つになって、(湖に)飛び込んだ。彼は船が岸に着くのを待っていられなかったのですね。 彼は飛び込んで、イエスさまに会いに行きます。
ガリラヤの岸辺にイエスさまが来てくださった。それは再出発でありました。再出発は原点に戻ることでした。 それで、今朝私たちは、原点に戻るために聖さんの恵みにあずかる。 今朝私たちが聖さんの恵みにあずかるときに、自分の信仰生涯の中で、一番自分が情けなかった時、一番自分が十字架の恵みを必要としていた時、一番自分が不安だった日、その日に戻って、その日に私たちの心も魂も触れて取り扱ってくださったイエスさまを思い出すのです。
3番目に、見てください。イエスさまは何も仰いませんでした。12節、イエスは彼らに言われた。――
3)「さあ来て、朝の食事をしなさい。」
12イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。 13イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
この場面ではこれだけです。「さあ来て、朝の食事をしなさい」と言って、主は私たちの前に聖さんの卓を広げてくださる。パンを取って私たちに与えてくださる。 イエスさまご自身が最後の晩餐のときに、同じようにパンを取り弟子たちにお与えになりました。 弟子たちは12節の最後に「『あなたはどなたですか』とあえて尋ねる者はいなかった」と(ありますが、)もう何も言わなかった。逆にイエスさまも何も言わない。
何も言わないんですけれども、段落をまたいで15節見てください。これは言うのです。
15彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上にわたしを愛しますか。」
これだけです。たったこれだけ。あなたはわたしを信じていた。あなたはわたしを愛していた。どんな不安でも、どんな失態でも、どんな課題でも、あの詩篇23篇ではありませんけれども、主は「私の敵の前で、食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます」(詩篇23:5)
ガーツクガーツク、イエスさまはおっしゃるわけではない(笑)。ペテロはいくら言われてもおかしくない。弟子たちもいくら叱責されてもおかしくない。 でもイエスさまはそういうことはなさらない。イエスさまは単純に食事をととのえ、そして終わってから、一言「わたしを愛するか」と(尋ねられる)。――ここから全てが始まって行くのです。
すべてが始まって行くということばの意味はですね、この時点(で)、これ以前(の)、すべてが終わったのです。 イエスさまを捨てて逃げて行った彼ら、すべては終わったのです。でもここから全てが始まって行く。
私たちにとって、新しい年度も、新しい世界も、これから始まる。 顔を上げられないような失敗、ことばにできない不安、闇に閉ざされた自分の人生、先が見えない重苦しい課題、主は私たちを食事に招いてくださいます。それは私たちの信仰の原点に戻るためにある。
イエス・キリストの十字架は、私たちのすべての罪を赦し、私たちを全く新しくし、主はいのちのパンを与え、私たちを生かし、よみがえりのいのちに私たちを送り出してくださる。 黙って座りながら、ペテロには解ったはずです。――この方が私の罪を背負って十字架にかかってくださった。この方が両手を広げて、食卓に招いてくださっていることが彼にはわかった。
私たちも今日は何も言わずに、パンを食しながら、この方を愛する自分が新しい世界へ踏み出して行くことを意識して、聖さんにあずかりたいと思います。
☆お祈り
12イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。 15彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子、シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」 (ヨハネ21章12節と15節前半)
恵み深い天の父なる神さま、静かな聖餐式を営ませてください。言葉を失った私たちが、あなたが単純に広げてくださった主の食卓に集まることを赦してください。あなたに責められなければならないことも沢山あるに違いありません。でもその責められるべきことは、これからいただく聖さんによって解消されています。
むしろあなたがそのようにして、私たちの人生のあらゆる局面に立ちながら、常に恵みと憐れみの食卓を備えて、原点に戻しては再出発させ、私たちの信仰と献身を新しくしてくださる方であることを実感することができるように、よろしくお願いいたします。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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