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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/19 主の祈り(1)「祈ることを教えてください」 ルカ11:1〜4
☆聖書箇所    ルカ11:1〜4

1さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
2そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
    『父よ。、御名があがめられますように。
    御国が来ますように。
3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。
   私たちを試みに会わせないでください。』」

☆説教     主の祈り(1)「祈ることを教えてください」

ルカの福音書の11章を開いていただきました。ペテロ第一の手紙を31回に亘って学んで来ましたけれども、それに区切りをつけて、しばらく私も旧約聖書に戻ろうかと思っておりましたけれども、この夏の期間は少し、頭の痛くなるような(笑)説教は辛いでしょうし、思い直して15年前、2000年の説教で、「主の祈り」を一緒に学んだことがあります。
15年後に多くの方々をまた迎えておりますので、もう一度、「主の祈り」をご一緒に学んでみようと思います。私(藤本牧師)自身のために、また皆さんのために。
そして15年前とはかなり違った角度で一緒に学んでいくことができますので、ぜひ日曜日ごとにお付き合いいただきたいと思います。

旧約聖書にソロモンという王さまが出てまいります。お父さんであるダビデの王位を継承した時に、神さまは若い王さまに現れてこう言います(***T列王記3章)。
「あなたに何を与えようか。願え。一つだけ願え」(5節)
その時ソロモンは王として民を裁く知恵と判断力を与えてくださいと、知恵と判断力を求めました。聖書にこう記されています――この願い事は主の御心にかなった(10節)。
神さまはソロモンにこう仰います。
「あなたは自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言った通りにする。……そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与えよう」と神さまは仰いました(12〜13節)。

私たちはソロモンの願いにまさる願いを知っています。
もし神さまが私たちに現れて一つだけ、一つだけあなたに何を与えようかと言われたら、私たち全員は一つのことを主に願います。
「主よ。祈ることを教えてください」です。 
「祈ることを教えてください」――この願いによって、私たちの人生にふりかかる様々な問題課題のすべてのカギを握ることができるわけですから、「主よ。祈ることを教えてください」。
恐らく聖書の中に記されている、人間が発した願いの中で、これが一番崇高で、一番神さまの御心にかなっている願いであろうと思います。 

(ルカの福音書)11章の1節を見てください。

1さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子たちのひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネ(***これはバプテスマのヨハネですと説明)が弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

必ずしも、何をどう祈るかを教えてください、とは弟子たちは言いませんでした。
それ以上に、祈ることがどういうことなのか教えてください、と弟子たちが言ったのであるとすれば、私たちもまた、自分はもしかしたら何万回と祈っていながら、祈ることがどういうことなのか、知らないのかもしれないです。
いいですか、祈りの全くの初心者であるのかもしれないということを心に留めながら、今日は一番最初の「祈ることを教えてください」のお話をしたいと思います。
3つの短いポイントでまとめました。先ず第一番目に――

1)ルカの福音書を見ていただきますと、この11章の「主の祈り」の前に、「マルタとマリヤの話」が10章の最後に出て来ます。

これは非常に感慨深い。
ベタニヤに住んでいたマルタとマリヤという姉妹がイエスさまを家にお迎えしたという話が出てまいります。
マルタがお姉さんの方で、そして非常に象徴的にこのことが描かれていて、このマルタはイエスさまのために仕え、働き、労する。
妹のマリヤの方は、イエスさまの足元に座り、静まり、祈り、みことばを聞く、という静と動、あるいは動と静という、典型的な二つのタイプのキリスト教の考え方で、よく取り上げられます。

マルタが一生懸命イエスさまのために働こうとした姿勢は、神への奉仕であり、愛の行いであり、あるいは施しであり、伝道とも言えます。
ところが、妹のマリヤはじっと主のお膝元に座っていました。
イエスさまに祈るかのように、静かに座っています。

私たちはこの礼拝というのは、静かに座っているんですよ(笑)。特にこの時間というのは、静かに座っています。
礼拝は喜びでありますけれども、しかし、私たちもまた様々な犠牲を払って、毎週日曜日に神を礼拝します。
ある意味、一週間の中で一番何もしない時間帯なのかもしれません。
特にそう思えるのは、すべきことが沢山あるのに、ここでただ座るという一番非生産的な時間を過ごすんです。
しかし私たちは、自分の人生の祝福のすべての源は、この主のみもとに座ることから始まるということを知っていますので、であるがゆえに、様々なすべきことを脇に置いて、先ず主の御前に座るということをするんですね。

ですからイエスさまは、マリヤのあり方に対して仰いました。10章の42節、(10章の)一番最後ですね。

42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。……

その「一つだけです」と言われた時に、その一つというのはすべきことの源です。
すべきことの源は、主の御顔を仰ぎ、マリヤのようにじっと主のみもとに座り、神のもとに静まるということです。

もう一つここから学べることがあるとすれば、マリヤはここでイエスさまのみことばに聞き入っています。イエスさまの言葉に聞き入っています。
ですから、ここから私たちは学ぶことができる。
つまり、神さまのみことばに聞き入ることなしに、祈ることはできない。
みことばに聞き入ることなしに祈ることはできない。

高津教会には、時々入門講座ってのがあるんです。洗礼を受ける方とか、あるいは教会に来て間もない方々と、ま、4〜5回、とっても短い学びをいたします。
その初回はいつも「祈りましょう」と、いつも祈りについて学ぶんですけれども、その時お話することは、祈りは簡単に言えば4つの段階で出来上がっています。その4つをどれぐらい意識できるか?

@私たちが神さまに話す
A神さまは私たちの言葉を聞いてくださる
B神さまは私たちに話す
C私たちはそれを聞く

この4つの段階でお祈りは完結するんですけれども、ほとんどの場合は私たちは@の段階しか話をしないです。祈らないです。
それは自分の願い事を神に話して終わりです。
神さまが聞いてくださっているという感覚もない。まして聞いてくださった神さまが私たちに何か答えを発せようとされるときに、話してくださる神さまというのが心の中にない。
神さまが話してくださったとしても、それを聞こうとしない。
いわばこんな感じです。

イエスさまが十字架にかかられる前に、ローマ帝国のあの総督ピラトとのやりとりがあります。
やり取りの最後の方で、イエスさまは「ご自身が真理であること、真理を証しするためにこの世界に来た」と仰った時に、ピラトは「真理とは何ですか」とイエスに尋ねます。
で、聖書の下りは――ピラトは「真理とは何ですか」と尋ねた。そしてピラトは、群衆の前に出て行って――という風につながるんです(***ヨハネ18:37〜38)。
つまり、質問を発したピラトは、イエスさまの答えを聞くつもりもなければ、たとえイエスさまは答える言葉を始めたとしても、すでに遅し――ピラトは官邸の中庭に行って、群衆と話をしている。
つまりピラトは所詮「真理とは何であるか」なんて、全く関心がなかったということがわかります。

私たちの祈りが自分の願い事を神さまに話す(@)だけ――でもそれを聞いてくださる神さま(A)を心に留めているんだろうか?
訳の分からない方向に向かって叫んでいるのではなく、この祈りに明確に耳を傾けておられる神さまがそこにおられる、という感覚が私のうちにあるのだろうか?
そこで難しいわけですから、つぎの二つ、B神が語られるとか、そしてCそれを私たちが聞いている、というのは、はるか先の話になってしまいます。

ですから、少年サムエルの純粋な姿勢に、私たちは感心してしまいます。
彼は祈りの中で、神さまに言いました。(***Tサムエル3:10)
「主よ。お語りください。しもべは聞いています」と。
少年サムエルは神さまに向かって、一言も自分の願い事を発していません。
彼の祈りは、「主よ。お語りください。しもべは聞いています」と、もっぱら預言者の姿勢を、この少年時代から彼は教えられて来ました。
静かに座った時に、私たちが何かを言う以上に、「主よ、お語りください。しもべは聞いています」。

色んな事を、周囲の声から、友人から、私たちは神の声として聞くことができますが、しかしまず第一は、この聖書ですね。
聖書のみことばを通して、神の声を聞く。
「聞く」ということは聞くんですよね(笑)。「聞きました」と言うように、聞くわけです――心に留め、教えられ、そしてそれを実行に移すということが、「聞く」ということですね。

2)二番目にこの「主の祈り」がもう一箇所、今度はマタイの福音書に出て来ますので、それをちょっと見ていただきましょうか。

マタイの福音書の6章の7節と8節。私が(藤本牧師)が、そうですね、せっかくですから、7〜13(節)までを交替に読んでみましょうか。

<マタイ6:7〜13>
7また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
8だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
9だから、こう祈りなさい。
   『天にいます私たちの父よ。
   御名があがめられますように。
10 御国が来ますように。
   みこころが天で行われるように地でも行われますように。
11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
12 私たちの負い目をお赦しください。
   私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。
13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えはとこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

ここにも、「主の祈り」が出て来ます。
マタイとルカしか出て来ないんですが、ルカは「マルタとマリヤの話」の後にいきなり弟子たちがイエスさまに、「祈ることを教えてください」。
マタイの福音書では、イエスさまは少し詳細に語られたそのことばをマタイは残しています。

7また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
8だから、彼らのまねをしてはいけません。……

私たちもお題目を唱える宗教があるということはよく知っていますね。
例えばチベット仏教のマニ車(ぐるま)という筒がありますね。あれが5本ぐらい並んでいて、参拝者がお寺に行った時に、参拝者がマニ車をざ〜っと回しますでしょう。
マニ車の中にはお経が書かれていて、1回回すとお経を一回唱えたことになるわけですね。だから5本の円筒形をざ〜っと撫でたら、お経を5回唱えたことになるわけですよね。
それを回し続けていたら、お経を24時間唱えていることになるわけですよね。

数珠もありますね。お経を唱える度に数珠を一つまた一つとこう繰って行きますよね。
でもそんなことを言うならば、カトリックにはロザリオがありますでしょう?
一番最初のロザリオの珠を回したときに、「主の祈り」を唱え、それから2番目の珠を回したときに、「マリヤの祈り」をいくつも唱え、「マリヤの賛歌」もありますし、5回ぐらい唱えますが、そうして数えていくわけですよね。
それがブレスレットになっているものもあれば、ネックレスになっているものもありますよね。
ですから別にチベット仏教の世界だけでなく、キリスト教の世界でも、同じものを繰り返し、繰り返し唱えることによって、自分の祈りの熱心さを表すという気持ちはありますよね。

でもそんなことを言いましたら、カトリックやプロテスタントの徹夜祈祷というのがあります。
カトリックでは…と言いますし、プロテスタントでは徹夜祈祷会ですね。
でもそれに加えて早天祈祷というのもありますでしょう。
そこに込められた熱心さというのがありますね。これは熱心さです。
熱心さというのは、熱心の表れであればそんなにすばらしいものはないです。

でもこのイエスさまの言葉を聞きますと、考えなきゃいけないことがある。
それは自分の熱心さがいつの間にか機械的になり、そして熱心さが自分本位になるというのは、ものすごく考えなければいけないことです。
熱心さが自分本位になるってどういうことかと言うと、その熱心さの中で、言われていることは全部自分の願いです。
例えば、自分の家族が受験に合格するようにお百度参りに行きました、お祖母さんは。
お祖父さんは、教会で、徹夜祈祷と早天祈祷をしました(笑)。
両方とも熱心さが表れてすばらしいですね。すばらしいです。
でも考えてみると、その熱心さが、熱心なゆえに神が叶えてくださると言った途端、それは非常に自分本位な熱心さである。

イエスさまは仰いました。「祈る前に、神は既にあなたの願い事を知っておられる」と。
祈る前に、神はあなたがたの必要なものを既に知っておられる(***マタイ6:8)――ま、必要なものという限定があるんですが――これはいったいどういうことかと言えば、それは神に対する信頼です。
神は既に私たちの問題課題をよく知っておられる、それで私たちは祈るということは、自分の熱心さゆえに神さまの手を動かすということではなく、
神は私たちのことを慮ってくださる、憐れんでくださる、愛していてくださる、という信頼のゆえに、祈りなさい。
だからイエスさまの祈りは、父よ、で始まるのです。お父さま、で始まるのです。
それは何と言っても、温かな父と子の交わりの中に、私たちはこの祈りを発するんだということを覚えておきたいですね。

*****ここまでのおさらいをなさる藤本牧師*****
1)ルカの福音書では、マルタとマリヤの話のあとに(主の祈りが)出て来ました。
そしてそこには、二つのことが込められていて、私たちは主に奉仕し、またこの世で様々な生き方を演じることができます。行動に移していくんです。
でもすべての源は主の御許に座るという所から始まるんだと。
同時に申し上げました。マリヤは、そのどうしても必要なわずかなこと、主の御前に座り祈るという姿勢を、みことばを聞きながらしていた。
みことばを聞きながらするということは、≪私が主に話すだけでなく、主も私に話してくださる。そしてそれを聞く≫という姿勢を明確にしながらマリヤは座っていた。と

2)二番目に引用したのは、マタイの福音書です。
自分の熱心さゆえに神は願いを聞いてくださる、という前提で祈らない。
もし前提があるとすれば、神はものすごく憐れみ深いお方で、様々な意味でまともに祈ることさえできない私の祈りを既に知っておられて、喜んで耳を傾けてくださる。
その信頼感があるから、「天のお父さま」と祈りを始めなさいと教えてくださった。
*****以上でおさらい終わり*****

3)3番目にルカの福音書にもう一回戻っていただいて、そして1節をもう一度だけ一緒に読んでみたいと思います。
ルカの福音書の11章の1節です。一緒に読んでみましょう。

1さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

▼二つ言えるんですが、一つは「祈りが終わると」。
イエスさまがある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子たちが「私たちにも祈ることを教えてください」――イエスさまの祈りに、引き寄せられるように弟子たちは尋ねたんですね。
この方は祈る方なんだと、引き寄せられるように、「私たちにも祈ることを教えてください」。

そうなりますと、「主の祈り」の背景がよくわかります。
「主の祈り」というのは、祈っておられるイエスさまの姿を見て、その魅力に引き寄せられるように祈るということは、イエスさまの祈りに弟子たちは取り込まれた。

つまり、「主の祈り」というのは、いいですか、「イエスさまが弟子たちに教えた祈り」というよりは、「イエスさまご自身の祈り」でなかったんだろうかという風に、私(藤本牧師)は思うようになりました。
わたしは全然別の祈りを祈るけれども、あなたがただったらこうやって祈るといいよ。まだ初心者なんだし(笑)――そうじゃなくて、
わたしはこう祈る、だからあなたもこう祈りなさい、という風に仰ったんじゃないのかなと思うようになったんですね。

で、ここで弟子のひとりが言った、「バプテスマのヨハネがその弟子たちに教えているように」というのは、当時の習慣から言うと、宗教指導者は弟子たちに祈りを教えたんです。
だから「祈りの模範となるようなものを、私たちに教えてください」(と弟子のひとりに言われ)そして、イエスさまが「これがその模範です」という「主の祈り」なのか?
わたしはこうやって祈る。わたしに口を合わせて一緒に祈ってご覧。そうしたらあなたにも、祈るということがどういうことなのか、わかるようになる(という「主の祈り」でしょう)。

教会に初めて来られた方にもイエスさまは声をかけられる。
あなたのありったけの願いをこの祈りに載せて――あなたのありったけの祈りは神さまは既に知っておられる――そのありったけの祈りを、この祈りに載せて、この祈りに言葉を口を合わせて、さあ一緒に祈ろう――それが主の祈りじゃないでしょうか?

私たちの教会は主の祈りを歌う教会です。
「さぁ、一緒に歌おう。朗々と歌おう」――主が歌ってくださるその歌に、惹き込まれるように、共に歌い、共に祈ろうですね。

▼私(藤本牧師)は2000年の「主の祈り」の講解(説教)をしたときに、この話をしています。
ノンフィクション作家の柳田邦男さんが『ガン――五〇人の勇気』という書物を書いています。
そこにがんと闘い、最期を遂げた50人の様々な生き様が記されているのですが、「涙して洗った茶碗」というタイトルの数ページの話があります。
そこに出て来る、末期がんで苦しんでいるのは、作家の中山義秀さんという方なんですが、この方がどういう最期を迎えたか(ということが綴られています)。
 
彼は、最期の日の前日に、友人の門馬という牧師さんを呼ぶんですね。
そして既に自分は酸素テントの中に入っているんですけれども、見舞いに来た友人の門馬牧師に、いきなり何の脈略もなしに、「洗礼をやってくれ」と、「洗礼を授けてくれ」と(願う)。
牧師は、あまりの突然さに、「そうか、ようやくその気になったのか。いつでもやってあげるけれども、別に今日、明日と言うこともないだろう」とこう答えるんです。

すると彼は、真剣な表情で言い返すんですね。
「俺が、今日、明日死ぬかも知れないのはわかっている。間に合わないといけないから今すぐやってもらいたい。だから君を呼んだのだ」
「洗礼を受けたか受けないかは、俺にとっては大変な違い、天と地ほどの違いがある。洗礼を受けたという事実を、俺は頼りにしたい。頼むから、俺の力になってくれ」と。

「わかった」と友人の牧師は言って、今まで自分がお茶を飲んでいたお茶碗を、洗い場に持っていって洗うんですね。
だから話のタイトルが「涙して洗った茶碗」です。
そこに新しい水道の水を汲んで来て、彼に洗礼を施す。

洗礼が終わりますと、中山さんは明るい表情で言うんです。
「広い世界が目の前に開けたように思う」と。
それから、彼はこう言います。
「おまえたちが毎日やっている祈りがあるだろう。それを教えてくれ。覚えておきたいから」
そして、二人は一緒に「主の祈り」を唱えて、中山さんは翌日意識不明に陥り、世を去るわけですね。

私(藤本牧師)は、この言葉にクリスチャンとしての一つの誇りを感じます――「おまえたちが毎日やっている祈りがあるだろう。それを覚えておきたいから、教えろ」。
「主の祈り」というのは、周囲の人々から見れば、「おまえたちが毎日やっている祈り」なんだと(改めて気がつかされますね)。
毎日ではないにしろ、私たちは声を揃えて――周囲からは異様に聞こえるかもしれないけれども――「一同で行う祈り」です。
中山さんは、洗礼を受けて天国へ行くときに、キリスト教もほとんど何にも解らない。
でも、「主の祈り」だけでも一度唱えて置きたかった――一度しか実践する機会はなかったんですけれども――自分もおまえたちの仲間に入れてもらえる(と信じ、死後もクリスチャンの交わりを望んだのでしょうか?)

このエピソードと、ルカの福音書の11章の1節の始まりはなんか非常に味わい深く重なるように思うんですね。
弟子たちは「イエスさま、あなたの祈りに私たちも加えてください」と、「祈りを教えてください」「祈ることを教えてください」と(願う)。
「いいよ。わたしの祈りについて来なさい。わたしと一緒に祈ってみよ。わたしの祈りの中にあなたを招く。さぁ一緒に祈ろう」と言って、
イエスさまがこのお祈りを教えてくださったとしたら、私たちが「主の祈り」を共に祈るときに、イエスさまは私たちと一緒に祈っていてくださる。
その代表が、よくわかりますね。祈りは「父よ」と始まるのです。
弟子たちはそうやって祈ったことは一度もないんです。
でもイエスさまはいつも「父よ」と言って祈っておられた、(父と子の親しい交わりに満ちた)その祈りの中に弟子たちも引き込んで一緒に祈ってくださいました。

皆さん週報をご覧ください。週報の裏面に、「主の祈り」があります。この「主の祈り」を一緒に祈って、終わりにいたしましょう。

☆共に祈ります「主の祈り」

天にまします我らの父よ。
願わくはみ名を崇めさせたまえ。
み国を来らせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日曜の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救い出(いだ)したまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。


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