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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/26 主の祈り(2) 父よ  ルカ15:11〜24
☆聖書箇所     ルカ15:11〜24

   11またこう話された。
   「ある人に息子がふたりあった。
12弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
13それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
14何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
18立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにして下さい。」』
20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
21彼は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』
そして彼らは祝宴を始めた。

☆説教     主の祈り(2) 父よ

夏の間は(説教は)「主の祈り」をさせていただくという話をいたしました。
前回が初めてで、前回の週報のタイトルが「さあ、ともに祈ろう」ではなかったかなと思います。(***実際は弟子側からの言葉で「祈ることを教えてください」でした。T・Y)
「主の祈り」は、弟子たちに向かって、その弟子たちは「祈ることを教えてください」とこう言うわけですけれども、イエスさまは「わたしの祈りにあなたの口を合わせてごらん」とイエスさまご自身の祈りの中へと私たちを招いてくださったのが、「主の祈り」だろうと思います。

今日は「主の祈り」の一番最初「父よ」です。ちょっと「主の祈り」を見ていただきたいと思いますが、ルカの福音書の11章。1節からちょっと読んでいきます。

<ルカ11章1〜2節>
1さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
2そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう祈りなさい。
  『父よ。……

父よ、です。今日はこの主「主の祈り」の出だしに注目していたいと思います。
神さまに祈るときに、クリスチャンはみな必ずこう呼びかけます――これがキリスト教の祈りの一番独特な部分です。
もう一つ独特な部分があるとしたら、最後のアーメンです。

なぜこのような独特な祈りになってしまったのか?
勿論「全能の神よ」とか「全能の、天地創造主なる神よ」と祈る場合もありますが、しかしそうだったとしても、「全能の父なる神よ」とか、「父なる」が入りますよね。「天地創造主である父なる神よ」と、必ず神の前に「父」が入ります。
聖書の中の祈りでも、旧約聖書の中の沢山の祈り、また旧約聖書の大きな「詩篇」という書物――これは祈りの書物ですが――そこに「父よ」という出だしは一度もないです。
ですからこの「父よ」と始まるこの祈りは、独特にキリスト教的です。
キリスト教徒のみが、「父よ」と祈ります。

幾つか3つのポイントで簡単にお話をしたいと思いますが、先ず一番目に――

1)(主の祈りは)旧約聖書にはなく、どうしてそこまで独特なのか?

と言えば当然、「父なる神と子なるキリスト」の関係があるからですね。それが一番最初の前提にあります。
ヨハネの福音書に、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた」(***ヨハネ1:18)と。
キリスト教はまさにそういうことです――私たちには神は解らない。でも父のふところにおられる独り子の神、御子イエス・キリストが神を説き明かされたのが、キリスト教です。
そのイエス・キリストは「父のふところにいた」という表現ですね。    

イエスさまの話に、金持ちの家の前に置かれていた乞食のラザロの話が出て来ます(***ルカ16:19〜31)。
ラザロは乞食だけであったのではないです。全身におできができていて、犬がそれをなめに来たと言うほど、人生のみじめさの極限に至っています。
その彼が死んで天国に行った時に、彼はアブラハムのふところに抱かれているわけです。
ふところというのは、それほど温かさを感じる、その人物の内側なんでしょう。
「アブラハムのふところに抱かれる」というのは、その人物との距離感は全くない。
その人物の内側に取り込まれたような平安と守られた場所に、ラザロは迎えられて行くんですね。

すると、「キリストは父のふところにおられて」ということは、まさに神さまの内側におられた神の御子キリストが、その場所から出て、その内側から神を説き明かした――そんなことができるのは、イエスさまだけです。
預言者は神について語ることはできます。あるいは神から戴いた言葉を代弁することはできます。
でも神の内側に入って行って、神のみこころと神の権威についてその内側からそのまま外側に声を発することができるのは、イエス・キリストだけです。
モーセもダビデもエリヤも神の預言者でありました。
でもキリストだけが神の御子であり、キリストだけが神を父と呼ぶことができるわけです。

前回、「主の祈り」(第1回)は、イエスさまが祈っておられた姿を見た弟子たちが、イエスさまに思わず願いました――「先生が祈っておられるように、祈ることを教えてください」。
「祈ることを教えてください」と言った弟子たちに、イエスさまは
「わかった。では一緒に祈ろう。わたしが祈っている祈りを教えてあげよう。わたしの後について一緒に祈ってご覧」(と仰いました)。
祈ることを知らない私たちが、まるでイエスさまの隣に座って、一緒にイエスさまの後について祈っているように祈っているのが、「父よ」と始まる「主の祈り」だということを前回お話しました。

しかし実際には、この「父よ」という呼びかけにはさらに深い意味があります。
それがルカの福音書の15章の放蕩息子のたとえに表れています。
「父よ」と祈ることができるのは、実はイエスさまだけではありませんでした――ということをイエスさまは私たちに教えているのです。
「父よ」と神に向かって祈ることができるのは別に私だけではない。あなたがたもそうなんだ、とイエスさまはこのたとえの中で教えておられます。

イエスさまは、ルカの福音書15章に3つのたとえ話を話しておられますが、いずれも人間を神さまとの関係において、「人間が神の前に失われた存在なのだ」ということを話しておられます。
@羊飼いが羊を100匹飼っていて、そのうちの一匹が迷い出たという話をイエスさまはされます。私たち人間は皆その迷い出た一匹の羊です。
Aその次の話は女性が銀貨を十枚持っていてそのうちの一枚を失くした時に家の家具を全部外に出して、家の中にあかりをつけて、隅から隅まで捜すという話をされます。私たちはその失われた一枚の銀貨です。
Bところがです。次の話は独特です。放蕩息子のたとえ話なんですけれども、出て来るのは父親と父親のもとを出て行く息子です。
すると人間と神との関係というのは、私たちはそもそも神の子どもなのだ、という前提でイエスさまはこのたとえ話を展開されます。

私は神の子どもなのか?ついぞ知らなかった。
一匹の羊というならまだわかる、一枚の銀貨といえばまだわかるほど、私たちはちっぽけな神さまとは縁遠い存在、神さまとは程遠い存在――いや違う。
神が私たちを土から造ってくださった時に、神さまはアダムという名前を付けられました。アダムというのは土という意味です。ですから人間は土から造られ、やがて死ねば土に帰ります。
ところが土で造ったアダムに、神さまはご自身の息を吹き込まれた。ご自身の似た姿に造られたということは、私たちをご自身の子どもとして造られた。
私たちは羊ではない。私たちは銀貨ではない。私たちは神の子どもなのだ、ということをイエスさまはこのたとえ話で話された。

しかしながら、息子としての普通の父親との関係に、日常生活に飽き足らず、父親の財産をせがみ、それを自分のものとし、すぐにお金に換えて、遠い国で放蕩して、すってんてんになってしまう愚かな息子、娘たちです。
羊は羊飼いに逆らったわけではありません。銀貨は持ち主の大切にする気持ちを裏切ったわけではありません。
しかし、私たちは神の子どもとして愛されているにもかかわらず、その愛がわからず出て行ってしまう息子です。
いつのまにか自分が神の子どもであるということも忘れてしまうほど、失われている存在です。

さて、このお話の中で、放蕩息子が神さまに祈っている場面がありますので、そこに目を留めてください。(ルカ15章の)17節をご一緒に読んでみましょう。いいですか、一緒に声を合わせて17節――

17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。

彼は強烈に自覚したんです。何を自覚したのか?それは自分の今の現状と対抗するかのように存在している父の家です。
父の家を彼は急に思い出した――ということは、自分はこんなに落ちてしまったけれども、実は父がいるんだ、ということを思い出した。その父の温か〜い顔を思い出した。自分はその父にとっては子どもである、ということを思い出した。自分は何をどう間違えたのか、自分はそこから遠く離れてしまった今の自分、でも自分には父の家がある、ということを思い出した。
自分は本来、父なる神の息子ではないかと、神さまを父として、自分は息子のように愛されている存在だったのではないか、ということに気がついた。

そうしますと、二番目に――そう気がついて祈った時に、2番目に――

2)彼は父の腕に抱かれます。20節を見てください。

20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

そう祈って祈った時に、父の方から彼を迎え、そして彼をかわいそうに思った父は、彼を抱くんです。
私たちも「主の祈り」を祈る時に、「父よ」「天にましますわれらの父よ」と言った時に、その父をどういう風にイメージするのか?
神さまのように走り寄って、私を抱き留めてくださる、父の愛の中に飛び込んでいる自分を思い描けるのか?

有名なレンブラントの「放蕩息子の帰郷」という絵があります。
オランダの美術館に行かないと見ることができないです。
勿論スマホで「レンブラントの(放蕩息子の)帰郷」と検索したらすぐに見れます。
そしてすばらしいスマホの機能は、これをピンチアウト(***タッチパネルを指で拡大)しますと、跪いている息子に手をかけている父親の手が写ります(絵の中の父親と同じスタイルで両手を前に出される藤本牧師)。
左側の手と右側の手は全然違います――右側の手は指の節の太〜い男の手です。左側の手は細い指の母親の手です。

レンブラントという画家はオランダのピューリタンです。
幼い頃にピューリタンの母親の熱心な信仰に育てられ、彼は21歳の時に解剖する医者の絵を描きます。
初めて「人体解剖の絵」というその絵を描いた途端に、彼は一躍有名になり、次から次に、ま、儲かる絵と言ったら語弊がありますが、所謂光と影を非常に上手に使った絵を描いて一躍有名になり、何人ものお弟子さんを抱え、忙しく活動する有名な画家になってしまいます。
ところが、50歳を過ぎた頃から彼の絵は飽きられてしまいます。
そして、やがて自分の工房を失い、アトリエを失い、非常に貧しい家に一人で住むようになります。
その頃、彼の信仰は、あの幼かった日のような、母親に教え込まれた信仰が自分の心の中に沸々ともう一回湧き上がり、燃え上がり、そして最後に印すのがあの「放蕩息子の帰郷」です。
それは自分自身の人生を、彼はそこに託した。

レンブラントという人物は60枚を超える自画像を描いています。その自画像はどんどんうまくなります。
そして最後の方で、ほんとに画家の集大成として見事な自画像を描いていきます。
でもそれはもしかしたら、画家としての自分の成功を描いているかのようにも思えます。
最後に印すのは、自分がそのような人生の過程を経て、やがて自分の人生のどん底を味わった彼が、自分を待っている父のもとに帰って行く、そして帰った時に自分が味わったのは、力強い父の手とず〜っと自分を待っていたその父の優しさを、母の手を描くことによって彼は描いた。
恐らく彼の両親ともに敬虔なクリスチャンの家庭であったんでしょうねぇ。

「父よ」と祈るときに、私たちは気づかなければいけない。
それは自分自身、今こういう状態にあるかもしれないけれども、父の家に帰るならば息子として迎えられるほどの、神に愛された存在であるということに気づかなければいけない。
祈る時に、神は私を受け留めてくださる存在であるということに気がつかなければいけない。
いやもっと言うならば、「父よ」と祈った途端に、私を迎えてくださる何とも言えなく優しい神のみ腕を感じなければいけないでしょう。

3)22節、ご一緒に読んでみたいと思います。

22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

父はこの息子を相続人として、祝福の相続人として迎え入れて、喜んでくれるんですね――一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
完全100%の祝福をもって、(父親は)息子を迎えるのです。
帰って来たけれど、先ずは様子を見てみようか、ほんとに変わったんだろうか(笑)、ほんとに信じているんだろうか、こいつは、先ず試してみよう、とは父親は言わなかった。
「父よ」と祈ったその時、私たちは父の愛の腕に抱かれ、その祝福を100%受け取るという状態で、神の御前に立っているんだということを覚えて、「父よ」と祈りましょう。いいですか。

最後に一つ話をして、終わります。なるべく早く暑いから終わろうという……(大笑)。
冷房の下にいる人は、寒いからなるべく早く終わってくれという(笑)、そういう思いもありますが。
(右側エアコンを指さして)ちょっと失敗しましたね。プロペラをつけたんですが、プロペラが下がってしまって、あのプロペラが上手につくように考えますので(大笑)。
そして直接に冷気が当たらないように、前から3列目、4列目が一番寒いと思ってください。一番前はそうでもないですね。ま、色々私たちも工夫しますので。

YSさんのところに、3回足を運びました。
YSさんというのは、YMさんのお父さん、YH君のお父さん、YJ姉のご主人ですね(笑)。
それでもう危ないということで、(先週はKさんという)下関にいらっしゃるもう一人のお嬢さんもいらっしゃいました。
それで火曜日にお電話を戴いて、ほんとに危ないのでお祈りに来てくださいと。ごめんなさい。ほんとにプライベートな話なんですが、皆さんにお祈りに覚えていただきたい。特にご看病しておられる、毎日いらっしゃる奥さまの上にお祈りをしていただきたいと思いますし、その思いがご主人に伝わるようにお祈りしていただきたいと思うんですが。

私(藤本牧師)が今から話す話は、あ、なるほど祈るってこういうことなんだ、って、ま、初めて分かったわけじゃないんですが、ものすごくわかった話をしますので、ちょっと紹介させて、お祈りに覚えていただきたいと思います。

ま、(ご主人は)痛みと闘って大変不安なんですけれども、奥さまにはことごとくわがままなご主人だそうです。皆さんもそうでしょうから(笑)、ちょっと気をつけていた方がいいと思いますが(兄弟方の笑)。
ま、ご家族は何とか洗礼を――T兄のお父さまが病床で洗礼を受けられましたので――何とか洗礼をと思って祈っているんですけれども、ま、ごめんなさい、そのご主人は根っからのキリスト教嫌い、と言いますか宗教嫌いで(笑)。
奥さまはご主人のことを思って、毎週礼拝にもいらっしゃっていますが、洗礼を受けるのはまだ待っておられる、のだと思うんですね。

初めて伺った日に奥さまが出て来られて、今日はご主人が機嫌が悪いと(大笑)。
いろいろ腹水を二リットルも抜いたと。それで非常に痛くて機嫌が悪いから、どうしましょうかと言うので、私たちは奥様に部屋から出ていただいて、「部屋から出てくださったら、初めての人を迎えるわけですから、ご主人もわがままを言わずに普通に聞いて下さると思います」と。
とっても丁寧な会話ができました。最後にお祈りしました。

2回目に伺いました時に、酸素マスクをしておられて、非常に辛そうでした。
すぐに痛いので帰ってくれと言われて、私たちが病室にいたのは一分もなかっただろうと思います。
あれ程痛がっているんだったら、ちょっと当然だろうなと。ここで、キリスト教の牧師が来ていろいろ話をされてもちょっと辛いだろうなと思って、一分も病室にいませんでした。

ところが、金曜日に3回目行って、そのときはまともに会話ができたんです。まともに会話ができた。
最後祈る前に、ご主人が奥さまはもう帰ったのか、「妻はもう帰ったのか?」と聞きますので、「ええ、私たちが来たときにはもう病室にいらっしゃいませんでしたよ」と「夜中に運転するのが不安だから暗くなる前に帰られますよ」という風に圭子がSさんにお伝えしました。
すると彼は「そうですか。無事に帰るといいんだけれど……」ととっても心配そうでした。心配がある、心配があるって、自分のことじゃないのか、この人は奥さんのことを心配しているんだと。
そしてお祈りをしました。「奥さまが無事に帰りますように」とお祈りをしますと、彼は大きな声で「よろしくお願いします」と言うんですね(大笑)。
それから「痛みを取ってください」とお祈りしますと、「どうか、よろしくお願いします」と言うんですよ(笑)。
「心の中にいっぱい不安がありますから、平安を与えてください」とお祈りしますと、彼はまた「よろしくお願いします」と(笑)。
私(藤本牧師)、牧師として祈って初めてですよ。祈る一句一句に大きな声で「どうかよろしくお願いします」と言われたら(大笑)、これ礼拝のお祈りだったら大変ですよ。一言祈る度に、皆さんが「よろしくお願いします」「よろしくお願いします」って返されたら(大笑)、これは祈るに祈れないですよね。

私(藤本牧師)は感動しちゃいましたね。私たち夫婦は。
Sさんは自分の言葉で祈るなんてことは解らない。それは全然解らないですね。
だから牧師が祈る言葉の一つ一つに、力を振り絞って、最後の力を振り絞って「お願いします」「よろしくお願いします」と仰る。
そして最後の最後で大きな声で「アーメン」と仰った時に、私たちはぎょっとしてしまって(笑)、それはなぜかと言いますと、私たちの「アーメン」よりも大きな声だった(大笑)。
あ、この人は心底「アーメン」って言っているんだと。いや「アーメン」と言いたいのか。
「アーメン」の意義なんてお伝えしたことないです。でもキリスト教のお祈りっていうのは、最後「アーメン」で終わるんだろうなと、どこかで意識しておられたのでしょう。
大きな声で「アーメン」って言われた時に、私たちぎょっとしてしまって、思わず見てしまいました。

祈れなくても、牧師の言葉に心を重ねて「お願いします」「どうかよろしくお願いします」、
そして大きな声で、あらん限りの信仰の表現として「アーメン」と仰るこの姿を見て、私(藤本牧師)はその瞬間に思いました――あ、放蕩息子はいま家に帰ったと。
放蕩息子が家に帰るってこういうことなんだと。
父なる神さまは彼を御手に抱き留め「よく帰って来た」と仰ったんだろうなぁと。
できたら今週生かされて病床洗礼に、と思いますが、しかし洗礼を受ける以上に、自分の言葉で祈る以上に、祈りの言葉一句一句に「よろしくお願いします」と訴えるこの人物、最後に「アーメン」の意味もよく解らずに、でもイエスさまが教えてくださったように、「アーメンと」大きな声で、力の限り祈っているこの人物は、放蕩息子であったけれども、父の家にいま帰って来たんだろうなぁ、と私(藤本牧師)は思いました。

イエスさまが弟子たちに「主の祈りを一緒に祈ろう」と仰った時に、イエスさまは私たちを祈りの中へと招いてくださる。
「わたしと一緒に祈ろう」と。「わたしは、父よ、と祈るよ。だからあなたがたも、父よ、と祈れ」と。
すると、弟子たちは「いえいえ、私たちは罪人ですから、とてもではありませんけれども、イエスさま、あなたのように、父よ、と呼ぶことはできません」
「いや、心配するな。わたしがあなたがたの罪を荷い、やがて十字架にかかる。そして十字架にかかった時に、あなたがたは心から解る――あなたもまた神の子だ。あなたもまた、わたしのように、天の父よ、と祈ることができるんだよ」と。

「主の祈り」を思う度に、また私たちが「父よ」と祈る度に、そのようにして父のもとに帰って来た自分を思い描き、同時に、この神さまは100%の祝福をもって、私たちを迎えてくださるということを実感できますように。せめてイメージできますように。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、あなたの御子イエス・キリストが弟子たちに「主の祈り」を教えてくださった時に、果たしてその意味まで詳しく教えられたんでしょうか?もしかしたら、そうでなかったのかもしれません。でも弟子たちは、イエスさま、あなたの言葉に一句一句言葉を重ねるように、それを唱えたに違いありません。もし意味が解らないのであれば、「どうかよろしくお願いします」「よろしくお願いします」と何とか自分をその祈りに重ねようとしたのではないでしょうか?だとしたら、私たちも「主の祈り」を祈る度に、歌う度に、その言葉に自分を重ねることができますように助けてください。

いま祈りました、お話ししましたYSさんは、あなたのみ腕に抱かれました。み腕に抱かれているという実感をもっと深く教えてください。それを地上に残された数日の間に掴み取ってしまうことができるように、あなたがなおも導いてくださいますようによろしくお願いいたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。




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T・Y 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 175.133.12.55
父なる神さまの、愛のみ腕に抱かれて、アーメンと私たちも信仰告白したいと思います。
2015.07.30 - 18:43 
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