☆聖書箇所 Uコリント12:1〜10
1無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。 2私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。 3私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。―― 4パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。 5このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。 6たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。 7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。 9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
☆戸塚神学生の初礼拝説教のご挨拶
緊張しますねぇ!(大笑)人前で話すという仕事はずっとして来たんで、ま、小学校の教師でしたから。 朝礼台の上に立ってお話をするということは別に大儀ではないんですけれども、礼拝の説教ですよ(笑)。 ここの場所って、なんか特別な場所だなぁと思います。すごいプレッシャーです。 藤本満先生は毎週この場に立たれてご用をされるということが信じられない。 でも皆さんのお祈りとサポートをいただいておりますこと、本当に感謝いたします。
皆さんのお祈りに支えられて、神学院の学びも前期後期のうち、前期が先週終わりました。先週試験もありました。 今まで試験する方だったんですけれども(大笑)、試験される方でした。 どんな問題かと言いますと、一例をお話しますと、「高津教会(あなたの出身教会)の、歴史的背景を、宗教改革から辿ってまとめなさい」(大笑)。 宗教改革から辿って――宗教改革、メソジスト運動、ホーリネス、インマヌエル綜合伝道団、そして高津教会――その流れですね。 一時間三十分で書きなさいという。大変でした。でも皆さんのお祈りに支えられて、ここまで来ることができました。
神さまに召されて献身いたしましたけれども、でも一時は「なんと大それたことをしてしまったんだろうか、もうやめようかな」――本当のことを言いますとね、後悔したこともあるんです。 なぜか?自分はふさわしくない。こんなふさわしくない者が献身してしまったという、そういう思いに駆られて、4月はとても辛かったです。 でも、河村院長先生が、「『自分は向いていない、自分は資格がない』と仰るけれども、『自分は向いてない、資格がない』という風に思っていることが資格なんだ」(笑)と、「それが資格だ、それさえあれば大丈夫ですよ」と言われた時に、 「ああ、こんな私で、神さま、いいんですか?」という風に問い続けながら、何とかここまで来ることができました。 日曜日他の教会に行けば、神学生らしく振る舞わなくちゃいけないんでしょうけれども、高津教会で今までと同じように過ごすことができまして、皆さんの温かい目で見ていただきまして、何とかここまで来ることができたことを感謝いたします。
今日は教会での夏季実習に入ります。 夏季実習も高津教会ですので、本当にほっとしているのですけれども、でも学びの一環として今日は、本当に恐れ多くも今日は、聖日礼拝の説教のご用を初めて仰せ付かりました。ま、説教実習ですね。 ちょうど40年前、教育実習で、東京学芸大学付属世田谷小学校の二年生の子どもたちを前に(笑)、初めて授業をしたあの緊張感を、もう一度また別の意味で味わっておりますけれども、それを思い出しながらここに立っております。 どうぞ皆さん、しばらく耐え忍んでいただきまして(笑)、よろしくお願いいたします。
☆戸塚神学生による説教 弱さのうちに現れる神の力
先ほどお読みいただきましたコリント人への第二の手紙ですが、この手紙は他のどのパウロの手紙よりも、パウロが自分自身のことを語っている手紙だと言われています。 その中で、この10章〜13章の部分は、パウロに反対している人たちに対して、開き直るかのような言葉遣いで「自分はキリストの使徒なのだ」ということの主張が書かれているとします。 更にその中でも12章は、パウロの恵みの体験を勿体ぶるかのようにパウロが宣べている箇所でもあります。 けさ朗読していただきました12章の1節〜10節の部分から、「弱さのうちに現れる神の力」と題して、3つのポイントで恵みを分かち合いたいと思います。
1)肉体に一つのとげを与えられた
12章の7節をご覧いただきますと――
7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
と書かれています。 肉体のとげ――これは病気のようなもの、持病ではないだろうかという風に言われております。 「高ぶることのないように、この肉体のとげが与えられた」と書いてありますが、 2節を見ますと、パウロは「この手紙を書いた十四年前に、第三の天、パラダイスにまで引き上げられる」体験をした――そうです、これは不思議な体験ですね。 しかも、4節をご覧いただきますと「人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いた」と、こう書いてあります。 神さまによる特別な霊的な体験をさせていただいたパウロでした。 自分は神さまに特別扱いをされたんだ――そういう誇りたい気持ち、それをパウロは持ってしまったのでしょうか? その高ぶり易いパウロに対して、「高ぶることのないように、この肉体のとげが与えられた」とパウロが告白しています。 しかも、「私を打つための、サタンの使いだ」と書いてあります。 サタンによるものだと、パウロは認識していました。悪魔が自分に「肉体のとげ」を与えたんだと、サタンの使いだという風に言うんですね。
「肉体のとげ」、さらには肉体のとげの存在というものが、パウロの自らの弱さを意識させたんです。 これは自分ではどうすることもできないことなんだ――そのようにパウロは思ったのでしょう。 実はこの「肉体のとげ」というのは、パウロだけではなくて、私たちにも与えられることがある、と思うんですね。 しかも、自分には解らない理由で、「肉体のとげ」が与えられます。
実際私(戸塚神学生)にも与えられているんですね。高ぶりやすいからでしょうか、解りませんけれども与えられました(笑)。 それは不整脈です。心房細動から来る不整脈ですね。 心房細動というものはどういう病気かと言いますと、心臓が小刻みに震える病気なんです。 そしてその小刻みに震えることによって、血栓ができやすくなるんです。その血栓が脳に行くと脳血栓になってしまう。 それで、私はいま血をサラサラにする薬を毎日飲み続けています。
同じ心房細動の病気で有名な人が三人いるんです。 一人は元総理大臣でありました小渕さん、二人目は長嶋茂雄選手、三人目は冒険家の三浦雄一郎さんです。 そのうち小渕さんは脳梗塞になって、そして亡くなりました。 長嶋選手は脳梗塞になって、大分リハビリを頑張りましたけれども、まだ不自由なお身体ですね。 冒険家の三浦雄一郎さんは、何としてでも80歳のエベレスト登頂を目指したいということで、心房細動の手術を受けた。そしてそれを回復させて、ものの見事にエベレスト登頂を成功いたしました。 それと同じ病を、「肉体のとげ」として、私も与えられています。 皆さんの中にも、同じような「肉体のとげ」と言われるようなものを抱えていらっしゃる方がいるかもしれません。 薬が手放せないという方がいると思われます。
しかし持病だけではありません。 この「肉体のとげ」とパウロが表現していることが、自分の弱さを意識させるものであるとすれば、私たちは病気に限らず、様々な「とげ」を抱えているのだと思うんですね。 自分の弱さを痛感させられる様々な「とげ」――それは自分の性格の問題かもしれません。どうすることもできない自分の性格。 ――あるいは、人間関係の問題かもしれません。特にうまく行かない原因がもしかしたら自分にあるのではないだろうかって思われる時に、あ、これは自分では直すことができないんじゃないかというような「とげ」です。 ――あるいは、人から受けた心の傷が「とげ」になっている方がいるかもしれません。いつまでも刺さっているような感じがする辛さがあるかもしれません。 ――あるいは人には言えない自分の罪に関することや、また、メンタル面での障害、あるいはそんな大きなことではなくても、日常生活の様々な悩みや課題や重荷や不安、様々なことが、「とげ」と言われるものとして私たちにのしかかって来ることがあるんではないでしょうか? そしてこれらは、自分の努力や頑張りではどうすることもできないことばかりなんです。 しかも「とげ」ですから刺さっている、痛みがある、そしていつも何かしら気になって仕方がない、そういうものなんですね。
私(戸塚兄)は子どもの頃、砂遊びが大好きでした。砂場に行ってトンネルを掘って、友達と一緒に、「あ、手が繋がったぁ」というあの経験(笑)。冷たい砂の感触。そしていろいろなものを作った後に、全部それを足で踏んづけて壊していく快感(笑)。忘れることができません。 あるとき、その砂遊びをしているときに、砂の中に何か平べったい肌色のクッキーのようなものがあったので、ああ、何だろう、こんなところにクッキーが落ちていると思って、私はそれを掴んだんですね。思わず手に取った。 そしたらば、手に取ったらば、掌がちくちく痛み出しました。なんだこれ!と思って、近くのおばさんに聞いたらば、それはサボテンの枯れたものだ(大笑)とわかりました。
なんでサボテンの枯れたものがこんな所に落ちているんだろう、そう思いながら、私はその傷んだ、ちくちくだらけの掌を、もう辛くてたまらない状況ですぐに家に帰ってもらって、母に一本一本とげを抜いてもらおうとしましたけれども、なかなかとげが抜けなかったのを覚えています。 サボテンのとげですから、いっぱい刺さっているんですね。 そしたらば、おばあちゃんが、巣鴨のとげぬき地蔵のお札を買って来て(大笑)、それを貼ってくれたんですね。「おばあちゃん、これで大丈夫なのかよ〜」(大笑)。 そして、そのとげをず〜っと痛いのをがまんしながら、そのとげぬき地蔵のお札を見ながら(大笑)、痛いのを一日中がまんしていた思い出がありますが、でも結局治らなかったのでお医者さんに行きました。
とげが抜けない、とげが抜けない――そのような辛い「とげ」が、大なり小なり、私たちにもあるのではないでしょうか?
2)パウロは、そのとげを何とかして去らせてください、と神さまにお祈りしました。
8節をご覧いただきますと――
8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
と書いてあります。 高ぶることのないように与えられたものだと解っていながら、自分ではどうすることもできないから、神さまにお祈りしました。しかも「三度も」と書いてあります。 この「三度も」というのは、三回というよりは、何回も何回も、「肉体のとげを癒してください。私の持病を癒してください」とパウロはお祈りをしたんだと思うんですね。
私たちも、神さまに祈ることができる――考えてみれば、とてつもない恵みだと思うんですね。 どのような肉体のとげを抱えていようとも、どのような様々なとげ、問題課題の中にあろうとも、私たちは神さまに祈ることができる――これは絶望の中にも希望がある、一つの道だと思うんです。 私たちはなぜ祈るのでしょうか?それは様々な理由があると思うんですけれども、神さまが全能なるお方だと信じているからです。 神さまにできないことはない、だからお祈りすることができる。だから神さまに祈って、何とかしてもらいたいと思う。神さまは全能なるお方だ。
でも神学校の学びで、神さまにもできないことがあるとわかりました。どんなことか? 四角い円や丸い三角形を造ることだいうことです。ま、それはことば遊びの世界ですけれども、神さまにできないこと、確かにそうかもしれません。 こんなこともありました。「神さまは、重すぎて持ち上げることのできない岩を造ることができるか?」――こういう質問があります。 重すぎて持ち上げることのできない岩を造ることができるか――この質問にどう答えますか? もし、神さまがそんなことはできないと言ったら、その瞬間に――神さまはできない――神さまの全能性の否定になりますね。 でももしできると言ったらば、神さまにはできない別のことがあることになります。 それはその岩を持ち上げること。やはり神さまは全能ではないということになってしまいます。 まぁ論理的に考えると、ややっこしいことになるんですけれども、こんな人間のちっぽけな理屈を超えて、神さまは全能なるお方です。だからお祈りする。
パウロはきっと本気で祈ったんだと思うんですね。 しかも私たちはなぜ祈るのでしょうか?それは神さまが私たちのことを愛してくださる憐れみ深い方だから祈るんです。 全宇宙の支配者であられる父なる神さまは、一羽の雀に目を留めてくださる。しかも私の髪の毛、その髪の毛の本数までご存じである(***ルカ12:6〜7) 不信仰で罪深い、こんな小さな私の言葉にならない祈りにも、神さまは耳を傾けてくださる(***マタイ10:20、ローマ8:26)――その神さまの憐れみ深さのゆえに、私たちは祈るのです。
パウロも真剣に祈ったと思います。さあ、その祈りの答えは何だったのでしょうか?
3)パウロは神さまから、祈りの答えをいただきました。
それはイエスでもノーでもありませんでした。9節をご覧くださいますと――
9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。……
と書いてあります。 「わたしの恵みは、あなたに十分である」「わが恩惠(めぐみ)なんぢに足れり」と文語訳にあります。 「わたしの恵みは、あなたに十分である」――これがパウロが真剣に祈った祈りの答えでした。 これはいったいどういうことでしょうか?これは、肉体のとげはそのままで大丈夫だよ、という神さまのお返事でした。 それはなぜなのか?神さまは仰います。「わたしの力は弱さのうちに、その肉体のとげのうちに、完全に現れるから」。 自分ではどうすることもできない弱さ、痛み、そこに「わたしの力を現す」と、神さまは言われるのです。「だから、大丈夫だよ」と神さまは仰るのです。 大丈夫だよ――なんと心強い、温かい響きのある言葉でしょうか。 私は病気を抱えています。でも神さまは仰います――わが恩惠なんぢに足れり。大丈夫だよ。 私は弱いです。でも神さまは仰います――大丈夫だよ。 私はあの事で悩んでいます。でも神さまは変わらずにお返事してくださいます――大丈夫だよ。 私は欠けだらけです――大丈夫だよ。私は何もできません――大丈夫だよ。 「私は〜です。私は〜です」と、自分の弱さを神さまに何べん何べん言っても、神さまから返って来る言葉は「わたしの恵みはあなたに十分だよ」「大丈夫だよ」という言葉のみなのです。 「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからだ」と神さまは仰るのです。
この神さまからの答えを受け留めて、パウロはこのように告白できました。9節の後半を見ますと――
9……ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
このように告白しました。さらに10節の後半に――
10……なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強い(からです)。
と告白することができたのです。 神さまが大丈夫だよと仰る限り、なんだか、自分の抱えているこの弱さが愛おしくなってくる(笑)ような感じがいたします。 自分はこんなに弱い。こういう所がある。でも神さまが、「そのままで大丈夫だ」と仰るならば、「ああ、この弱さはこのままでいいんですね、神さま」と言って――ま、パウロのように胸を張って、弱さを誇ることはできないにしても――でも、あ、ここに神さまの力が現れるんだ、神さまはここままの私を大丈夫だと言ってくださるんだ、そして神さまは助けてくださるんだ、生かしてくださるんだ――そう思う時に私は、神さまのすばらしさを少しでも味わうことができるんだなぁという風に思うんですね。
いま自分が置かれた場所で、弱さがあるままで、私を用いてくださる。 私が生かされているということは、何らかの使命があるからであって、この弱いままの私を、神さまは力を与えて、用いてくださるんだなぁという風に思うんです。
最後に一つのお話を紹介して終わります。 カトリックのシスターで、聖心女子大学の教授でもあられた鈴木秀子先生(***1932昭和7年〜)が語られたお話です。
インドに一人の水汲みの男がいました。男の仕事は二つの大きな水がめに一本の竿を渡しして、肩に担いで、川からご主人さまの館まで水を運ぶことでした。 遠い遠い道のりでしたが、男は毎朝、丘の上の館から川まで下って、左側と右側の水がめに水を入れて運びました。
ある日のこと、いつものように長い時間をかけて水を運び、ようやくご主人さまの館に着くという時になって、左側の水がめの水が半分になっていることに気づきました。 よく見ると、その水がめにはひび割れができていて、そこから水が漏れていました。 次の日もその次の日も、どんなに慎重に水を運んでも、左の水がめからはぽたぽたと水が滴り落ちていくので、いつも半分になってしまうのでした。 その時、右側はいつも満杯でした。
そういう日が毎日続いた時に、そのひびの入った水がめは、ついにたまらなくなって、水がめの男に言いました。 「あなたは毎日一生懸命に働いて、丘を上って水を運んで行く。けれども、私の脇腹にひびが入っているために、あなたがこんなに苦労して運んでいるのに、水は半分になってしまう。あなたにこれ以上のご迷惑をおかけするくらいなら、自分なんて壊れて砕けてしまった方がいい位のものだ」と嘆きました。 すると、男は「いいんだよ。そんなことは心配しないで。君がいなければ、水は半分も汲めないのだから」と言って、そのまま水汲みを続けました。
それから二年も経ちました。男はやはり息せき切って毎日水汲みをしています。 右側のいつも水が満杯の水がめは得意気です。 けれども左側のひびの入った水がめは、またまた居たたまれなくなってしまいました。 水汲みの男がいくら苦労しても、自分のせいで半分しか報われない。本当に申し訳ないという気持ちに駆られ、堪えられなくなって、頭を下げて水汲み男に言いました。 「このひびわれた、なりそこないの私のせいで、あなたの努力が報われない。あなたは一生懸命働いているのに、本当に申し訳ない。自分なんて役立たずなんだ」 それを聞くと、男はいつものようにリズムを取りながら、二つの水がめを担いで丘の高い所まで行って、毎日通う道を見下ろしながら、ひびの入った水がめに言いました。 「見てご覧。どっちの方に花が咲いているかね?」 ひびの入った水がめは、「自分が通った方です」と答えました。 男は言いました。「そうだ、君が通って来た側にだけ花が咲いている。この花は君が育てたんだよ」 ひびの入った水がめは、思わずその花を眺めました。
男はさらに言いました。 「私は君のひび割れに気づいても、あえて取り替えはしなかった。なぜなら、その個性を生かそう、役立てようと考えたからだ。 ここは雨の降らない土地だから、花を育てるには骨が折れる。だから君なら、川から館までの道をちょうどよい具合に湿らすことができる。 君と毎日水汲みに行けば、この道を花でいっぱいにできるだろう、きっとご主人さまも喜ぶに違いない、そう考えたのだ。 で、道に花の種を蒔いた。君は知らないうちに、その種に毎日毎日水を与えていたんだよ(笑)。君がいたから、あんなに見事な花が咲いたのだ。 お蔭で私はこの二年、ご主人さまに水だけでなく、きれいな花まで毎日届けることができた。勿論ご主人さまはとても喜んで過ごされた。 これこそ、君のひび割れなしには為し得なかったことだ」
ひびの入った水がめのような私たちかもしれません。 そのひび割れなしには為し得ないことがある。私の弱さなしには為し得ないことがある。 それは自分でもわからないことかもしれません。 でも神さまは私たち一人ひとりの弱さをご存じで、それを承知の上で、私たちに使命を与え用いてくださるお方です。
始まりましたこの一週間の生活の中で、私の弱さの中に働く、そしてそこに現れる神さまの力を期待したいと思います。 神さまは言われます。「わたしの恵みは、あなたに十分である。」(***Uコリント12:9)
☆お祈り――戸塚神学生
神さま、感謝いたします。自分ではどうすることもできない肉体のとげ、弱さ、困難、罪、欠点、痛み、辛さ。しかし神さま、あなたはこのような様々なものを一杯抱えている私たち一人ひとりのことをよくご存じです。そして依りすがる私たちに目を留めて、「わたしの恵みは、あなたに十分である」「大丈夫だよ」と語ってくださいます。ありがとうございます。神さま、ほんとに弱い私ですが、こんな弱い者を通しても現されるあなたの力に期待して、この一週間歩むことができますよう、十分なあなたの恵みを与えてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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