☆聖書箇所 ルカ11:1〜4
1さて、イエスはある場所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 2そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。 『父よ。御名があがめられますように。 御国が来ますように。 3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。 4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。 私たちを試みに会わせないでください。』」
☆説教 主の祈り(3)御名をあがめさせたまえ
ルカの福音書の「主の祈り」を見ていただいておりますが、先週平和と戦争にまつわる説教をいたしましたので、今日はもう一回「主の祈り」のシリーズの3回目に戻りまして、「御名があがめられますように」。 勿論、その前に、「主の祈り」の中では、「願わくは」という言葉が入っています。 ルカの福音書の11章(2節)「父よ。御名があがめられますように」
第1回目の時に、「主の祈り」について学びました。 それは11章の1節に、イエスが祈られた後に、弟子たちがイエスに向かって「主よ。私たちにも祈りを教えてください」(と言った言葉に注目しました)。 イエスさまが祈られた後に、「祈りを教えてください」と言った時に、イエスさまは「わたしの所に来て、一緒に祈ろうではないか」と、イエスさまご自身の祈りを教えてくださったのが、「主の祈り」ではないか、という話をしました。 ですから、私たちが「主の祈り」を祈るときに、イエスさまは私たちの隣に座って、私たちの祈りを導いてくださる――そういうことを思い浮かべたいという話をしました。
2回目は、前回でありますけれども、単純にそれだけではなく、この「父よ」と始まる出だしは、イエスさまだけのものでなく、私たちのものでもあるという話をしました。 勿論、御子イエス・キリストは、キリストのみでありますが、私たちもまた神の子どもです。 そもそも神の子どもです。それはイエスさまの『放蕩息子のたとえ』によってよくわかりました。 私たちも本来父の愛を受けるべき存在であるにもかかわらず、それぞれが勝手に自分の道を行って、迷い出て最後は帰れなくなってしまった。 そこにイエスさまが迎えに来てくださいます。帰る道を備えてくださいます。 そして私たちは「父よ」と祈りを始めています。
今日は3回目、(主の祈りのことばの)一番最初に「御名があがめられますように」。 御名というものの言い方は、私たち日常的には全くしません。 聖書に世界では名前は体を表すという意味でも、そういいますね。 そう考えますと、日本人の感覚なら分かるかもしれませんが、私たちは名を重んじる国民とか、名を汚されずに生きるとか、名を汚されることに恥を感じるとか、昔はよくそういうことを言いました。 それは名前というのは単なる名称ではなく、その人物そのものを指すということを、私たちはよく知っているからですね。
旧約聖書で、 神の聖名によって語ると言えば、神に代わって語るということですし、 聖名を賛美するということは、神を賛美することですし、 神を礼拝するための神殿は、「【主】がご自分の住まいとして御名を置くために……選ばれた場所」(***申命記12:5)です。――「御名を置く」という表現がなされています。
新約聖書でも 弟子たちは、キリストの名によって、悪霊を追い出し、キリストの名によって語り、そして言うまでもなく、私たちは、イエスさまの聖名によって、祈ります。 ですから「神の聖名があがめられますように」というのは、神さまそのもの、この方のご性質、この方のご意志、この方の権威、この方の存在そのものが、崇められますように(ということです。) 簡単に3つ(のポイントで)お話します。
1)「あがめられますように」という言葉は「聖とする」ことができますように、です。聖書の聖です。
「聖とする」の逆の言葉は汚すですから、神を汚すことがありませんように。神がほめたたえられますように。 「聖とする」というのは、別扱いするという意味です。 つまり神と人間を混同しないで、神を神として、神らしく、神として扱う。
ですから私たちは真(まこと)の神以外の何者をも拝みません。 拝む、礼拝するという行為は、神さまだけにふさわしいですね。
私(藤本牧師)の母は、三重県の美濃ミッションの出身です。 そこの宣教師に導かれて、そしてキリストの救いの恵みに与かり、伝道者になりました。 美濃ミッションというのは、日本のキリスト教の歴史の中で、一つ輝いています。 それはこの宣教団体だけが――と言ってもいいです、この宣教団体だけが――伊勢神宮参拝に強烈に反対したからですね。
軍部の弾圧を受けて、そして投獄されたホーリネス系の教団は沢山あります。 でも直接に、ま、(インマヌエル創立者の)蔦田二雄先生が牧会しておられた(ホーリネス)日本橋教会でさえそうですが、直接に日本の神道、軍国主義に反発したわけではない。 むしろ積極的に再臨のキリストを説教したがゆえに、キリストが再臨したら天皇はどうなるんだ、というその論法で軍部はキリスト教をつぶしにかかりました。
でも三重県の美濃ミッションは違います。 これは当時日本の神道の象徴でありました、伊勢神宮参拝を拒絶する。 その中で、私の母は育ちましたので、そういう信仰にいました。
私(藤本牧師)は小学校3年生の時に、ぜんそくがひどくて三重県の叔父のところに、疎開、転地療養をいたしました。ひとりで小学校、文京小学校でしたね。 で、遠足がやってまいりまして、遠足が伊勢志摩だったんですね。当然遠足の中には伊勢神宮にお参りするというのが入っていました。 私は当時母と少し話したことを覚えています。「あなたは神社に行くのはいいけれども、決して拝んではいけないよ」という風に言われました。
いのちをかけて伊勢神宮に祀られている神を拝まないということに徹した美濃ミッションというのは、当時のキリスト教会の考え方から言えば、もう何とも言えない除け者扱いですね――あなたたちだけどうして、日本の国体に沿わず、妙に敵対し、あなたたちのおかげで却ってキリスト教が敵視されると。 でも頑として伊勢神宮参拝をしない彼らというのは、今となって考えてみると、真のキリスト者であったと私たちは言わざるを得ないですね。
その言葉が、「御名があがめられますように」。 他の者は祈らない。他の者に拝まない。他の者を賛美しない。
軍国主義の中で作られた讃美歌は全部、イエス・キリストがいつの間にか天皇になっていました。 その名残が少し今の讃美歌にもありますけれども、私たちが「♪イエス君はいとうるわし」(インマヌエル讃美歌8)という、その君は――これは当時の天皇とイエスを合体させて昔は歌われていました。 当時編集された50曲ぐらいの讃美歌集がありますけれども、どのページを見ても、天皇のにおいがプンプンするような讃美歌を、日本の教会が作っていたということは、私たちは決して忘れてはいません。 これは別に軍国主義の時代だけでなく、私たちの日常の時代に通じるんだということを、もう一歩深く考えてみたいと思います。
2)「御名があがめられますように」というのは、礼拝の問題ではなく、生き方の問題です。
マタイの福音書の5章の16節をちょっと見てください。せっかくですから、14.15.16をご一緒に読んでみましょう。
<マタイ5:14〜16> 14あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。 15また、あかりをつけて、それを枡(ます)の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。 16このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(16節) 御名があがめられるような生活をする時に、周囲の人もまた、神の御名をあがめる――これは、私たちに課せられた最大の課題ですね。 私たちが御名を崇めるような生き方をしないのに、「御名があがめられますように」と祈るのは、やっぱり証しにはならないですよね。 御名があがめられる生き方をして初めて、「父よ。御名があがめられますように」と祈ることができる。 そして私たちが御名があがめられるような生き方をする時に、周囲の者たちがそれを見て、神の御名を崇める。
以前O兄に聞いた、淵田三津雄(ふちだ・みつお)さんという、真珠湾攻撃の零戦の攻撃隊長であった方がいらっしゃいます。 日本に帰ってからは英雄になります。しかし、終戦後に戦争裁判にも立たされます。 その裁判を体験しながら、それが一方的に勝った側の裁判だということに、淵田さんは憤りを覚えて、アメリカの悪を証明しようと考えて、彼は一生懸命、アメリカに捕われていた日本軍捕虜がいったいどんな扱いを受けていたのか、それを調査することによってアメリカの悪を暴こうと、聞き取り調査を開始します。 ところが、日本軍捕虜たちの口から語られたのは、マーガレット・コヴェルという日本軍捕虜収容所で働く、アメリカ人の女性のことでありました。
コヴェルの、マーガレットさんの両親は、フィリピンで伝道していた宣教師だったのですね。 フィリピンで伝道していた宣教師ですから、フィリピンに乗り込んでいた日本軍からアメリカのスパイの容疑をかけられて、そして両親は日本軍によってフィリピンで処刑されます。 両親は死ぬ前に30分の猶予を願い出て、その間に聖書を開いて、神への祈りを捧げたというニュースがアメリカにいたお嬢さんの所に伝わってきます。
アメリカでその話を聞いた娘さんのマーガレットは、両親の姿を覚えながら、彼女は決意して、ユタ州で捕われていた日本人の捕虜収容所で、献身的に日本人のために世話をするんですね。 きっと両親の最後の祈りは、「自分を殺害した日本のために祈れ」というその姿勢であったに違いない、とお嬢さんは両親の思いを汲み取りながら、そして日本人捕虜収容所で、一生懸命日本人のために仕えるんですね。
淵田さんは、自伝の中でこう記しています。
「私は美しい行為だと思った。私はアメリカ人の悪を暴こうと、捕虜問題を捜し回った自分を恥ずかしいと思った。やはり憎しみに終止符を打たなければならないと思った」と。
淵田さんが言う、この時のマーガレット・コヴェルの生き方を見て、「それは美しい行為だと思った」というのは、思わず彼は神の御名を崇めたということですよ。 そうして、淵田さんもまたクリスチャンになります。彼もまた伝道者になります。 彼はマーガレット・コヴェルの、神の御名を崇める生き方に倣う者となる。
私たちは「父よ。御名があがめられますように」と祈るだけでなく、御名があがめられるような生き方をする時に、周囲の人が思わず「美しい行為を見た」という気持ちになり神の御名をあがめるように、あなたがたの光を世に表しなさいと、イエスさまは仰いました。
3番目に、もう一箇所、特殊な聖書の箇所を開いていただきたいと思いますが、マタイからヨハネに飛んで12章です。
3)ヨハネの12章、ここにイエスさまご自身が「御名があがめられますように」と祈っている箇所があります。ヨハネの福音書の12章の28節。
そうですね、私(藤本牧師)が27を読みますので、皆さんで28(節)を読んでください。 <ヨハネ12:27〜28> 27今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。 28父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」
この28節の最初の行というのは、新改訳聖書ではこういう訳ですが、他の訳も可能ですね。 口語訳聖書では、ここは「父よ。み名をあがめさせ給え(み名があがめられますように)」となっています。
イエスさまのこの28節の祈りというのは、実はイエスさまの苦悩の瞬間の祈りでありました。 (ヨハネ12章)24節見ていただきますと、
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
と、イエスさまはご自分の(十字架の時が近いことを意識され、)十字架の意味をしっかりと受け止めておられる様子が見受けられます。 わたしは、一粒の麦として地に落ちる。このいのちを投げ出す。その時に死ねば、わたしのいのちを多くの人々に分け与え、多くの実をつけることになる。
ところが、このように十字架の使命を明らかにされた後で、イエスさまはもう一度27節で心の葛藤を話されますね。祈りにされます。
27今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。…… というのは、捧げると決意されたイエスさまですけれども、しかし、他の福音書では「ゲッセマネの祈り」となっていますよね。 「この杯をわたしから取りのけてください。」「どうか、この苦悩(杯)をわたしから過ぎ去らせてください。」(***マルコ14:35.36、ルカ22:42、マタイ26:39) でも(ヨハネ12章)27節の後半でイエスさまは気を取り直したかのように、
27……いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
と、イエスさまはご自分の十字架の使命というものを強烈に意識されますね。 「どうかこの杯をとりのけてください。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」という、イエスさまの気持ちの中で、こう逡巡している思いが、この27と28節の中に出てまいります。
ゲッセマネの園で、他の福音書ではこういう表現ですね。 「アバ、父よ。(――とこう始まりますね)。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(***マルコ14:36)――となっていますでしょう。 「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、みこころのままをなさってください」という句の最後の部分、これが、「御名があがめられますように」ですよ。
「しかし、わたしの願うことではなく、みこころのままになさってください」――この一文が、ヨハネの福音書では、「御名があがめられますように」(***口語訳)です。 つまり「御名があがめられますように」と祈る私たちは、どこかで、心の隅で、「私の願う所ではなく、あなたのみこころがなりますように、御心のままをなさってください」と(神さまに譲る?)。 つまり御名を崇める者は、神のみこころを求め、神のみこころを追求し、神のみこころにゆだねる姿勢を持っているんですよね。
すると、この「主の祈り」というものの偉大さというものがわかりますね。 「天の父よ」で始まりますね。そして、 1)一番最初に、神を神として礼拝する者の姿勢が入り、 2)しかもそれは単なる祈りではなく、私たちの生き方を現していて、 3)私たちが様々な苦悩の中で逡巡するときでさえ、「私の願うことではなく、あなたのみこころがなりますように」と、 願っている者の祈りが、この中にすべて入っていると思いますとね、これはそう簡単には祈れないですね。
ですから、『願わくは』と日本語で入っていて、しかるべきですね。 勿論『願わくは』というのは、「主の祈り」全部にかかっているわけです。 そして、この『願わくは』というのは、一番最初のルカの福音書(11章の「主の祈り」)にも入っていませんし、他の言語の「主の祈り」にも必ずしもないです。 祈りの願いがありますので、日本語では「主の祈り」の頭に「願わくは」と来ますけれども、これは私たちの真実な願いです――「主の祈り」を祈るのに、ふさわしい者とさせてください。
何でも自分の杯を独占しようとしている、その杯の中にいいものばかりを期待している私たちです。 「神さま、私たちに杯を沢山ください。しかもその杯の中に、溢れるばかりの恵みと喜びを与えてください」というのが、もっぱら私たちの祈りです。 でもイエスさまは、苦き杯でさえ、それを通して神の栄光が現されるならば、「御名があがめられますように」という祈りをもって、その苦き杯を飲まれるわけですね。
願わくは、聖名があがめられますように。 私の願い、私の考え、私の願望ではなく、神さま、あなたの栄光が、あなたの御思いが現されますように。 私の喜びではなく、あなたの喜びが私の人生を通して現されますように。 そのことを祈りながら、また来週も「主の祈り」を学びたいと思います。 ☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、おおよそこの祈りを祈れる者ではないにもかかわらず、イエスさまは私たちを招いてくださいました――「さぁ、わたしと一緒に、わたしが祈っている祈りを祈ってみよう」と。私たちがこの祈りを祈ると同時に、あなたがともに祈ってくださっていることを心から感謝いたします。
そして一番最初に「父よ」と呼びかけ、私たち一人ひとりが本来神の子であることをもう一度思い出しなさいと。そしてその父は、私たちに必要なものをすべて知っておられるのだから、あなたの小さな願いばかり並べるのではなく、神さまのみこころを求めながら、神さまの御名があがめられるようにと、そういう生き方をするようにと、迷っているときでさえ、苦悩の中にいる時でさえ、あなたの聖名を求めるようになりなさい、と教えてくださいましたことを心から感謝いたします。
もし私たちが、小さな小さな灯であるとしたら、イエスさま、どうかそれを消さないでください。燃え尽きるほどの燈心をあなたは消さない(***イザヤ42:3)、とあなたは約束してくださいました。もう一度その燈心を燃え立たせて、世の光と私たちをさせてくださいますように。小さな者たちであるかもしれませんけれども、どうか私たちを助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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