☆聖書箇所 ルカ17:20〜21
20さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 21『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
☆説教 主の祈り(4)御国を来たらせたまえ
さて、今日の聖書の箇所、ルカの福音書の17章を見ていただきますが、主の祈りの4回目です。 「主の祈り」は、先週は「御名をあがめさせたまえ」でした。 そして今日は、「御国を来たらせたまえ」です。
ずっと学んできました「主の祈り」というのは、弟子たちがイエスさまに「祈ることを教えてください」――これはイエスさまが祈られた後に「祈ることを教えてください」と来ていますので、イエスさまが「教えてあげる」と仰った祈りは、きっとイエスさまは弟子たちと一緒に祈られたに違いない。 「わたしが祈っている祈りにあなたを加えてあげよう」――単純に模範的な祈りを示したというよりも「主の祈り」を祈るときに、私たちはイエスさまと共に祈っているんだという意識を持とうではありませんか。
まさに私たちは「主の祈り」がなければ、もう好き勝手なことを祈ります、正直。 ユダヤ教世界に、ライバル心の恐ろしさについての寓話がありますが、あるところに、プライドの高い商売人がいました。 彼は商売が成功することを目指していただけではない。 むしろそれよりも、もっと目指していたことは、通りの向こう側の角に、同業者の商売人がいる、その商売人に勝つこと、ライバルに勝つことの方が彼にとっては喜びで、一生懸命商売して来たんですね。
ある日、天使が彼の夢に現れて尋ねます。 「何でもいいから一つだけ願い事を叶えてあげよう。しかし、覚えておきなさい。同じ願い事があなたのライバルの上には二倍になって叶えられるぞ」 商売人は、しばらく考えました。そして迷いもなく言ってのけた言葉は、 「では、神さま。私の片眼をつぶしてください」(笑)。
それほどまでに、私たちの祈りは身勝手です――自分の片眼がつぶれればライバルの両目がつぶれる。 自分が10倍儲かって、ライバルが20倍儲かるよりも、自分の片眼がつぶれて、ライバルの両目がつぶれた方がよっぽどましだ。 それほど私たちの祈りは自分のためであり、自分の目的のために祈ります。
でも逆にさわやかな祈りもありますね。 “Chirdren’s Letters to God”(***Eric Marshall , Stuart Hample原著)――神さまへの手紙、谷川俊太郎(1931〜)さんが訳していますけれども、「ねぇねぇ、神さま」という子どもたちの祈りが載っている本ですね。
「神さま、あなたはほんとにキリンをあんな風に造ったのですか?それともあれは何かの間違いなのでしょうか?」(笑) 聞いてみたい――何かの間違いじゃないんだろうかと。
「神さま、あなたはお金持ち?それともただ裕福なだけ?」(笑) お金持ちも裕福も同じだと思いますけれども、そんなお祈りもあるんですね。
子どもが神さまに発する言葉というのは実に素直で純粋ですね。 普通に語りかけるように神さまに語りかける。 神さまは仰いました。いや、第二歴代誌の14章の11節の言葉なんですけれども、 「【主】よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。」――非常に大切なことばです。 信仰の深い者を助けるのも、信仰のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりないほど、神さまの憐れみも力も偉大だとすれば――私たちはどんな問題課題でも主の前に心を広げるように祈ることができる――それを神さまは耳を傾けてくださる。
ということは、だれでも祈れる。だれでも祈ることができるということも事実です。 しかしその背後に、先ほど申しました非常に貪欲な、あるいは自己中心な思いが入っているということを、私たちは心に留めなければいけないことです。
「御名をあがめさせたまえ」と祈るときに―― 1)私たちは礼拝しているということ。――先週のテーマですね―― 2)私たちが御名を崇める生き方をさせてください。 いや、私たちがそのような生き方をする時に、思わず周囲の者たちが神の御名を崇めるほどの生き方をさせてください。 3)そして心を騒がす瞬間、出来事の中にあっても、私の願うことではなく、あなたのみこころがなりますように、あなたの御名があがめられますようにと祈りましょう、という話を先週いたしました。
そして今日は「御国を来たらせたまえ」と、先ず神の御国が来ることを祈ります。 今日開いていただきましたルカの福音書の17章に、この祈りが意味していることが記されています。 ちょっとルカの福音書の17章20節と21節を見ていただきたいと思います。 私(藤本牧師)が20節を読みますので皆さんで21節を読んでください。
20さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 21『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
いつ来るのか、という質問――イエスさまの教えは最初っから神の国のことだらけです。 公の生涯の第一声が「神の国は近づきました。悔い改めて福音を信じなさい」(***マタイ4:17、マルコ1:14〜15)ですね。 すると、人々の心の中には、いつも神の国とは、どういう形でどのようにしてやってくるんだろうか?(と不思議な思いでいっぱいです)。 何しろ旧約聖書に、終わりの時に「人の子は雲に乗ってやって来る」(***ダニエル7:13)と書いてありますから。でもイエスさまは雲に乗っていない。 じゃ、いったいどのようにして、いつやって来るんだろうかと、人々は延々と思うんですね。
神の国はいつ来るんだろうか? すると、イエスさまは21節で仰った言葉は、神の国というのは「そこにある」とか、「そこに来た」とか、そういうことでなく、「あなたがたのただ中にある」。 これは一般的な研究者ですと、あなたがたの心の中にある、という意味ではないです。 「ただ中にある」というのは、すでに来ている、という意味です。 神の国はいつ来るのですか、という質問に対して、いや、もうあなたがたのただ中に来ているんだよ、と(答えられたイエスさまです)。
そうしますと、今日はまず第一に――
1)「御国を来たらせたまえ」――既に来ている神の国に私を入れてください、という祈りが入っているということを覚えていただきたいと思います。
既に来ている神の国を、わが中に来たらせ給え。 なぜなら、国というものは支配を意味します。あるいは権威を意味します。 国というのは国の支配、国の権威が及んでいる領域のことですよね。 ですから神の国を求め神の国に住む人は、この世に普通に生活していても、神の支配と神の権威の下で、生活する人のことを言うわけです。 私たちは普通にこの世界で生活しています。でも私たちの最終的な人生の権威、支配権は神にあると、そして私たちは神の恵みの中を生かされることを願う。 その時に私たちも神の国の支配の中に入る。 何か神の国の支配と言いますと、非常に強制的に力ずくで、私たちが縛られるような気がいたしますけれども、決してそうではないです。
イエスさまが公の働きを始められる少し前に、バプテスマのヨハネという人物が神の国を口にするようになりました。 彼が神の国を口にする時は強烈でした。何しろ「まむしのすえたち」で始まりますから(***ルカ3:7〜9)。 「愛する兄弟姉妹」じゃない。「まむしのすえたち」と言っているんです。集まって来た聴衆を責めるようにして始まります。 そして彼のメッセージは――「もうすぐ神の国はやってくる。やって来たら、役に立たない木は切り倒される。既に斧は木の根元に置かれている。悔い改めの実を結ばない者は切り倒される」――という説教をバプテスマのヨハネは延々とやってきました。
その後で、イエスさまもまた、神の国を語ります。 人々はそれを聞くために集まって来ました。 しかしその時、イエスさまが語った時、神の支配にあずかろうとした人々は、実はお偉い宗教家ではなく、独特な人が混じっていました。 それをちょっと見ていただきたいんです。ルカの福音書の6章の17節、ちょっと17節から21節までを交替に読んでいきたいと思います。
<ルカ6:17〜21> 17それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた。 18イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。 19群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。 20イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し出された。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。 21いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。 いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。
神の国の話を聞きに集まってきた人々は大ぜいでした。18節「病気を直していただきたいとか、汚れた霊に悩まされていた人たち」が大ぜい来ます。 立派な人々ではなく、社会の底辺にある人々がむしろ大ぜい集まって来た。 19節に、「群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろう」とする。 神の国に集まってきた人々の中には、哀れなみじめな人々もあり、直すことのできない病人もあり、不安に押しつぶされて生きている人々もあり、罪の重荷に耐えられなくて首をうな垂れている人もいて、皆がイエスに触ろうと近づいた。 そして、イエスさまの手を狙っているんです。何とかしてこの方に触れてもらおうと。 すると、イエスさまはそこに座ってしまわれるんです。で、イエスは20節から、「目を上げて弟子たちを見つめながら、話された。」 座るというのは、ユダヤ教の教師が教える時に必ず取る姿勢です。
群衆は、バプテスマのヨハネのような厳しいお説教を予感していたに違いない。 ところがそこに「神の国が近づいた」と話し出したイエスさまは、口を開くと、群衆の予想とは全然違う言葉を発するんです。 「貧しい者は幸いです」――生きることに苦しみ、罪の力の奴隷となり、失望の暗闇に叩き込まれている人々に向かって仰る。 「今、飢えている者は幸いです。今、泣いている者も幸いです。神の国はあなたのものだからです」と。 これはもう独特な響きでした。「神の国はあなたのものだ」――人々は一瞬で驚きに包まれます。 「まむしのすえたち。悔い改めの実を結ばない限り、あなたがたは斧で倒されて、燃やされてしまう」(***ルカ3:7〜9)という、バプテスマのヨハネのあのメッセージとは違い、 「貧しい者よ、あなたがたは幸いだ。神の国はあなたがたのものだから」(同6:20)――つまりイエスさまが教える神の国というのは、救いの知らせでした。 それはイエスさまの手から発せられる――私たちを苦しみの中に埋め込んでしまうことなく、新しいいのちと新しい希望を与えようと差し伸べられた、神の手ですね。 イエスさまはゆっくりと包み込むように、その手を病人、悪霊につかれた人々に差し伸ばされました。
やがて、その手の平に十字架の釘が打たれます。 イエスさまは私たちの罪を背負って、私たちの傷をいやすためにご自身が傷を負って、「あなたがたは幸いだ。悲しんでいる者たち、涙を流している者たち、あなたがたは神の国に入ることができる」と仰いました。
そうしますと、「御国を来らせたまえ」と祈る私たちは、自分のために祈りますね。 差し出していただいている神の国――その神の支配と神の権威、それは神の祝福と神の救いです――それが私のものになりますように。 私のものになる、ということはイコール私たちが祝福される、ということになる。
「イエスさま、この温かい祝福の声を、この小さな私に、病める私に、罪深い私に、弱い私に、かけてください。 私がどうか遜って、神の国を信じ、あなたの所に来ている、と言われる神の国を信じ、素直にイエスさまの約束を受ける者になることができますように。 この世に生きる私たちの中に、あなたの国の平安と祝福を満たしてください。我がうちに、御国を来たらせ、御国の平安で私を満たしてください」 と祈るのが、主の祈りです。
御国はあなたがたのただ中にある。 でも私たちがその神の支配に背を向けている限り、神の権威は私たちに届かない。 私たちがイエス・キリストに対して、「あなたは、私の罪を赦す権威を持っておられます」と告白するときに、その御国の権威が私たちのうちに及ぶんです。 イエスさまは、私たちの心の不安を(取り除き)、私たちの必要を満たす権威を持っておられる。 だとしたら、「御国を来たらせたまえ」と祈って、神の国に心を開かない限り、イエスさまの祝福は私たちの内に及ぶことはないですね。
二番目に、これで最後ですが――
2)「御国を来たらせたまえ」というのは、教会の祈りです。
この世界に対する教会の祈りなのです。 教会はこの世界に置かれている小さな島のような存在です。 その小さな島から、私たちはこの世界に対して「御国を来らせたまえ」と祈り続けている。 この世と神の国はいつも戦いの中にあります。この二つは次元が違うからです。 この世界は神の支配を嫌います。
戦時中に先週も申し上げましたように、多くのホーリネス系の牧師が投獄されました。 そして教会が閉鎖になりました。 それはホーリネス系の牧師は、今の私たちがそうでありますように、 「やがてイエス・キリストは再臨の主として来られる。この方が王の王。すべての王はこの方の前にひざまずく」と教えた時に、 「じゃ、その時天皇はどうなるんだ。天皇の方がキリストより上じゃないか」と思っていた日本の軍部は、そのように説教する牧師たちを投獄していきます。 ですから基本的に――ヘロデもそうでした。ピラトもそうです。モーセが戦ったエジプトのファラオもそうです――この世の王は、神の支配を嫌います。
ですから私たちはこの世に置かれた教会として、常に「御国が来ますように」と祈り続けます。 「この世にあって、神の支配が広がりますように。争いと敵対、汚れと罪にまみれたこの世界に神の支配が広がりますように。そのために、私たちを神の子どもとして輝かせてください。神の国が、御国がこの世に来ますように」 と祈り続ける。それが私たちの祈りであります。 私たちはこの祈りを、世界のクリスチャンとともに祈ります――聖日ごとに「御国を来らせたまえ」と。
昔からこの世界と神の国はどういう関係にあるんだろうか? 昔から、ま、キリスト教が国教になったローマ帝国においても、いったいこの教会と実際の国はどういう関係にあるんだろうか?一緒ではないですね。 アメリカの大統領はクリスチャンでなければなれない。 大統領宣誓は全部神の助けを祈りながらなされるわけですから、クリスチャンでなければ大統領にはなれないです。 でもアメリカという国がクリスチャンだと、私(藤本牧師)は思ったことがない、正直。
アメリカの教会も、日本の教会も、世界中の教会も、クリスチャン性を失うということはあり得ます。 ですから私たちは、世界に対して祈るだけでなく、私たちの教会に神の国の支配、神の国の権威が及ぶようにと、祈り続けなければいけないわけですけれども、 しかし、日本のように、教会が世の端っこに押しやられて、そして圧倒的にこの日本の世界が展開されている中で、一体教会と世界はどういう関係にあるんだろうかということは、頭の中に入れておくべき大切な大切なものの考え方です。
私(藤本牧師)はいつもこの説明をしますので、一回覚えておいてほしいと思うのですが、旧ソビエトのキリスト教の文学者で、あのノーベル文学賞を取った、アレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918〜2008)という人物がいますね。 私(藤本牧師)が大学生の頃に、ソルジェニーツィンがノーベル文学賞(1970)を取った後、彼はストックホルムから亡命すると言われていました。 最終的に彼は、もう一回収容所に戻ります。自国に帰って、収容所からストックホルムに行き、ストックホルムから収容所に戻ります。 その彼が解放される署名運動が世界中で行われていたことを思い出します。
彼がノ−ベル文学賞を取った作品と言われているのは、日本語にも訳されていますが、「収容所群島」というものです。ものすごく分厚い書物ですね。 原題は「グーラグ・アキペラゴ」ですが、グーラグというのは、いまだに使われる言葉ですが、旧ソビエト体制の反政府思想家を容れた収容所です。アキペラゴというのは、島が連なって群島になっている――インドネシアですとか、モルディブですとか、何千もの島が集まって群島を形成している。
ソルジェニーツィンの言っていることは――表に出たソビエトという国の下に群島が存在している。共産党体制に反逆する者たちを叩き込む刑務所の数があまりにも多くて、その収容所という島を全部地図でつなげてみると、大きな群島、収容所群島を形成している。
彼が言いたいことは――もうソビエト政府は自らの失敗を証明してしまっている。 なぜなら国の知的指導者たち、何百万という人間をみんなこの収容所群島に容れてしまった。そうすることによって、もはや共産主義の体制ではやっていけないということを、事実上証明したようなものだ。 本当に骨のある思想家たちを全部、収容所に叩き込んだことによって、国の力は骨抜きになっていると。 そして今、ソビエトが閉じ込めた収容所の人間が、まとめて群島を造り、半島を造り、国家を造り、ソビエト社会の見えない所で、真の革命が進んでいると。
ま、実際はなかなかそうはいかなかったわけですけれども、この考え方というのは、私(藤本牧師)は神の国を語るときに必ず使います。 イエスさまはご自身の教会の中に、地の表から御国に属する人々をみんな呼び出された。召し出された。 世界中にキリストのグーラグが、キリストの教会が散らばっています。 このキリストの教会というのは、この世界の国の目に見える表ではなく、目に見えない下に実際は存在している。 これが表に出て国家と一体になってしまうと、教会はもはや教会として機能しないんです。むしろ地上の権力と全く違う下に入って行った方が、神の支配、神の権威が、力を発揮する状況にあるわけです。
もしかしたら北海道の教会、あるいは奄美大島の教会は小さな孤独な一つの収容所のような存在なのかもしれない。 でも私たちが毎週「御国を来らせたまえ」とこう祈る時に、この収容所のような小さな存在は一つに繋がるんです。 日本の少数のクリスチャンの中でも、収容所に閉じ込められたような卑屈な気持ちになる場合は多々ある。しかし、そんな卑屈になる必要はない。 ソルジェニーツィンは、堂々と「ここに真の革命がある」と、言い切ることができた。
キリストの教会はこの世界を隈なく覆い、私たちは心を一つにして祈ります。 御国を来たらせたまえ。 私の心、私の人生を、あなたの権威のもとに招いて私を祝福してください。 そしてやがて、あなたの御国が、この世界を隈なく包む。 教会に力を与え、そして世の表から隠れるように存在しているこの教会に力を与えて強めてください。 「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(***ヨハネ16:33)と仰る、あなたの御国の支配、御国の勝利をこの世界の片隅で現して教会を生かしてください。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、「神の国は、あなたがたのただ中にあります」(ルカ17:21)と、もうすでに来ている神の国に対して、当時の人々は背を向けました。でも逆に、いろんな問題を抱えている人々は一生懸命イエスさまに手を伸ばして来ました。
私たちが弱い者であることを認めることができるように。私たちが不安多き、罪深い者たちであることを認めることができるように、そしてそのようにして、一生懸命、あなたの支配と権威と祝福、あなたの救いに、手を伸ばす者たちであらせてください。
時に私たちはこの世界にあって、教会の力なき姿、あるいは自分自身でキリスト者の存在の本当に豆粒のような小ささを感じます。でもあなたは仰いました。その豆粒が何百、何万と集まって、神の国はいまもなお形成されていくんだと。
主よ、どうか私たちの教会にも力を与え、また、迫害の中にある世界の小さな教会にも力を与え、私たちを一つとしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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