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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/30 主の祈り(5)御心を地にもなさせたまえ  ヨハネ6:32〜40
☆聖書箇所    ヨハネ6:32〜40
 
32イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
33というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
34そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
35イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
36しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
38わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。
39わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
 
☆説教       主の祈り(5)御心を地にもなさせたまえ
 
礼拝では「主の祈り」を夏場、一緒に見ていただきました。今日は週報のこの説教題にありますように、「御心をなさせてください」ですね。
「天にましますわれらの父よ」で始まりまして、「願わくは、御名をあがめさせたまえ。御国を来らせたまえ」
そして「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」で、ヨハネの福音書の6章を、開いていただきました。
ここに父のみこころが何度か出てまいります。38節と39節、(40節)をちょっと見てください。
 
38わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。(――キリストの言葉ですね、と説明される)
39わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終りの日によみがえらせることです。
40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
 
ここに、「父のみこころ」という言葉が何度も繰り返し出てまいります。
 
先週、「御国を来たらせたまえ」を一緒に学びました。
来たらせたまえ、特に私の心のうちに。私の生涯のうちに、御国を来たらせたまえ、でしたね。
イエスさまは「幸いなるかな、貧しき者。天の御国はあなたのものだ」と、イエスさまはこの温かい祝福の招きの声を、私に掛けてくださいました。
ですから不安や思い煩いで悩める小さき貧しい私のうちに、御国を来たらせてください――そういう祈りだった。
 
そしてこの世界に、御国――神の支配、神の権威――が拡がって行きますように。
争いと敵対、汚れと罪にまみれたこの世界に神の支配が拡がりますように。
この教会をそして世界の教会を、あなたの御国として、この全世界に散りばめ輝かせてください。
一つ一つの教会がみな繋がるときに、群島のようになって、私たちはこの世界に神の御国を実現していくという祈りなのだ、という話をしました。
 
そして今日は、「御心をなさせたまえ」ですね。
神の国が形作られていくとき、つまり神さまの支配と権威が及んでいくときに、そこには当然みこころがなって行きます。
「ならせたまえ」というのが普通です。「なさせたまえ」としているところもありますね。
私(藤本牧師)は「なさせたまえ」の方が好きです。
それは「神さま、私を用いてくださり、そしてあなたのみこころをなさせてください。私を通してなさせてください」という祈りの方が、何とも恵み豊かに感じるからです。
 
ちょっとこのヨハネの福音書の6章の流れを簡単に説明して、それから話に入って行きたいと思います。
6章の始めでイエスさまは5000人の空腹を満たされます。
9節をご覧ください。
 
9「ここに少年が大麦のパンを五つと、小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
 
11節に――
 
11そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。
 
このようにして、男だけでも五千人という数、その空腹を五つのパンと二匹の魚で満たしておられるイエスさまが出てまいります。
イエスさまを囲んで五千人、女性や子どもを含めたら一万人ですね。
一万人ぐらいの人々がイエスさまの教えを聞こうと集まって来たのですね。
教えを聞こうだけではなく、奇跡を見ようと集まって来たのかもしれません。
五千人という感覚というのはどういう風に実感できるのでしょうか?
 
もう30年も前に、私たち(藤本牧師夫妻)がアメリカのニュージャージーの日本語の補習校で、土曜日だけ小学生を教えていました。
当時は日本がバブルの時代で、ニューヨークの地域の補習校は七つの現地の学校にふられていました。つまり、総勢4千人の子どもたちがいました。
それが年に一回運動会があるんですね。4千人の運動会ですが、参加は自由です。
学校サイドとしては、できるだけ4千人来ないように(大笑)願っているわけですよね。
運動会をやって4千人と言われたら、何かまともにできるのは、ラジオ体操ぐらいしかない(大笑)ですね、最初の。
そして、自分の出番が回って来たとしても、せいぜい一日一回ぐらいしか回って来ないです。
だから学校側としては、4千人来ませんように(と願い)、実際、来て2千人なんですね。
それでも2千人の子どもたちと父兄を合わせて統率して、運動会をするというのは、これはあり得ないです。
 
イエスさまの教えは、五千人、果たして一万人に届いたのでしょうか?
届いているわけがないです。届いたのは、食事だけですよ。
空腹が満たされたという、この不思議な出来事だけを、五千人、一万人が共有することができたわけですね。
 
ちょっと24節を見ていただきたいと思いますが――
 
24群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカぺナウムに来た。
 
群衆が追いかけて来ます。すると、イエスさまはこんなことを仰るんですね。26節――
 
26イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
 
これは、ま、一つ責めているのかもしれませんが、仕方がないですよね。
「しるしを見たから」というのは、「イエスさまのしるしを見て、イエスさまが神の子であり、救い主であることを信じた」からではなく、単純にお腹がいっぱいになったから。
つまり、一時の問題課題を解決することができたから、あなたがたはわたしを捜しているんですね、とイエスさまは仰るのですが、それは、ある意味仕方がないんです。
イエスさまの救い主としてのお姿というのは、所詮五千人、一万人の人々には届きませんでした。
彼らの体験したことは、この方は私たちの空腹を満たしてくださった、という事実だけが残ったわけですから、仕方がない事情で、きょう読んでいただいた聖書の箇所が始まって行きます。
 
3つポイントに分けてお話をしますが、先ず第一に――
 
1)ここに記されているのは大きなチャレンジです。
 
大きなチャレンジというのは、どういうことかというと、イエスさまは私たちに尋ねられる。
「あなたは、何を求めてわたしのところに来ているのか?」と。「結局は自分のお腹のことなのか?」と――パンのことなのか、って言うのはそういうことですよね。 
私たちは今、この時代、勿論お腹が空きますからパンも大切ですが、むしろパンを求めるというよりは、自分の仕事がうまく行きますようにとか、自分の家庭が、自分の健康が祝されますようにと言うのか?

あの時ガリラヤの湖の話の中で、「あなたがたは神の国を考えたのか?」とイエスさまは仰っているんですね。
「神の国というものを考えたのか、それとも、腹がいっぱいになったという事実だけで、あなたがたはわたしについて来ているのか?」
私たちにしてみれば、日常的な必要と、漫然とした関心だけで、わたし(イエスさま)について来ているのか、それとも神の国――あなた自身が神の祝福に招かれているということ――がわかって、わたしについて来ているのか?(と、問われている。)
 
もし、神の国の祝福が本当にわかってついて来ているのなら、その国を支配しているお方が何を願っているのか、その方のみこころが何であるのかを考えてみなさい。
27節をちょっと見ていただきますと、そこにこのチャレンジが書いてありますね。
27節、ちょっとご一緒に読んでみたいと思います。
 
27なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
 
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」――神の国に招かれる。神の国を私たちの心のうちに、私たちの家族に、この教会に招く、受け入れる、受けとめるということは、なくなる食物のためではなく、永遠のいのちに至る食物、すなわち神のみこころのために働きなさい。
考えさせられます――それは、こういう視点が、こういう発想が、私たちの内にあるのだろうか、ということですね。

私たちは自分の人生がうまく行くように、神さまの導きを求めます。
神さまのみこころを求める時は、決まってそうですね――神さま、右に行くべきなのか、左に行くべきなのか?
右に行った方があなたは私を祝してくださるのでしょうか?左に行くとそれは所詮私の願いに過ぎないのでしょうか?
つまり神さまのみこころ、神さまの御思いを求める時には決まって、私たちはだいたい人生の岐路に立ち、どっちが祝されるんでしょうか、という発想で私たちは祈るわけですね。
健康、必要、成功、地位、欲……うまく行きますように、何とかなりますように、みこころを教えてください。
 
イエスさまが仰っているのは――いや、そういうことではないだろう。
そうなるとあなたがたはいつまでも、なくなる食物のために、神にみこころを求めていくことになる。
神の御国に招かれた私たちは、神の国を支配しておられる神のみこころが何であるのかを問いなさい。問うてみなさい。
 
今世紀2000年という区切りが始まりました2000年の1月1日に、カトリック教会の法王、教皇が――当時ヨハネ・パウロU世ですね――全世界に向けてメッセージを出しました。それは平和のメッセージでした。
新しい千年期が始まる時、新しい一世紀が始まる時に、平和のメッセージを出す。
それは1900年代が、第一次世界大戦、第二次世界大戦、パレスチナの戦争、冷戦という戦争、湾岸戦争、ボスニア紛争、アフリカの民族闘争、そして難民の嵐。
世界にとって、1900年代というのは、科学の発展の時代であったのか、それとも戦争の時代として、世界史に残されているのか?
 
ローマ教皇(の話)は――
「いま何に目覚めなければならないのか?それは神によって創造された人間として、みこころに目覚める。
地には神を愛する人々に平和を(***ルカ2:14)。地には平和を。
『繁栄』という概念を考え直そう。そして少なくとも、他者の犠牲の上に成り立つ『繁栄』ではなくして、『共存』ということを考えて行こう」
というメッセージでありました。
 
私たちは自分の腹を満たすために、つまりなくなる食物のために、みこころを求めるのではない。
永遠のいのちに至る食物のために、みこころを求める。その願いが、弟子たちの心に表れます。
ちょっと(ヨハネ6章)34節、ご覧ください。
 
34そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
 
そのパンというのは、永遠のいのちに至るパンです。
「いつもそのパンを私たちにください。神のみこころを私たちにください」――と、言った時に、2番目、イエスさまはこう仰います。
 
2)イエスは答えて言われた。
 
35……「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
 
この言葉――「わたしがいのちのパンです」その次に、「わたしに来なさい」です。「わたしのところに来なさい」。その次、「わたしを信じなさい」です。
35節の動詞っていうのは、そういう風にできていますでしょう?
「わたしがいのちのパンです。わたしのところに来なさい。決して飢えることがないよ。わたしを信じなさい。どんなときにも、決して渇くことがないよ」(と35節を読み説かれる藤本牧師)。
 
私たちクリスチャンは、この世界は漫然とただ悪い時代になった、とは思っていません。
かつて良い時代だった、しかし今は悪い時代だ、どうも最近人間関係が荒んでいる、悪くなって来た、というものではない。
互いに争うのは、何でも自己中心に行動してしまうのは、歴史に戦争があり、社会に差別があるのは、人間が悪いというだけではない、人間が神に背いているからだと私たちは考えますね。
人間や世界の状態が、悪い方向に向かうというのではなくて、神に対して背いている私自身、この世界というのに気がつかなければならない。
私たちが頭を悩ましているのは、悪に対してではなく、罪に対して悩ましているのであって、人のうちに、私のうちにある罪に、私たちは心を悩ましているわけですね。
 
そんなことは百も承知で、イエスさまは私たちを招いてくださった――「わたしのところに来なさい。わたしを信じなさい」です。
イエスさまは仰いました――「だれでも疲れている人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしとくびきを一つにして、わたしから学びなさい」(***マタイ11:28〜29)とイエスさまは招いてくださいました。
 
何をすることが神のみこころなのか?――「みこころをなさせたまえ」ですね。
「何をすることが神のみこころなんですか?」(***ヨハネ6:28)と弟子たちがイエスさまに問うたときに、イエスさまはこうお答えになる。
「わたしがいのちのパンです。わたしのところに来なさい。わたしを信じなさい。それが神のみこころです。それが神のみこころをなす第一です。『神のみこころをなさせたまえ』と言うのであれば、わたしのところに来て、わたしを信じなさい」
 
星野富弘さん、日本で一番有名なクリスチャンです。星野富弘さんは、この言葉に惹かれてクリスチャンになりました。
星野さんは大学を出て中学校の体育の教師をしているときに、生徒の前で模範演技の途中、首からマットに落ちて、そして首から下全部不随になりました。

体調が悪くて病院で危機的な状況を乗り越えようとしたときに、病棟が変わります。腎不全を起こして、内科の病棟に変わった時に、看護婦さんから面白い質問を受けます。
病棟の患者に対する一般的な質問で、星野さんに生年月日、職業、そして最後に「何か、特別な宗教をお持ちですか?」と看護婦さんが問うんですね。
星野さんはそれに対して、思わず「キリスト教です」と答えてしまった。

ちょっとその文章を読んでみますね。「愛、深き淵より」という本に出てまいりますが――
 
答えてしまってから、私の胸はどきどき鳴り始めた。神と私のつながりを人に伝えたのははじめてのことだった。聖書もろくに読んだことがない、教会にも行ったことがない私が、クリスチャンだなんて、恥ずかしくて言えるはずがない。しかし「宗教は何か」と問われたときに「別にありません」とはどうしても言えなかった。
 不安が大きくなり、おしぶつされそうになりながら、私の耳元に、ときどき風のようにささやいていく言葉があった。
「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」−−それは、郷里の家の裏の墓地に立っていた白い十字架に書かれた言葉だった。不思議なほど、その言葉を覚えていた。
 私はこの言葉に従ってみたいと思った。クリスチャンといえる資格は何も持っていない私だけれども、来いと言う方、この方の近くに行きたいと思った。
               ――ここまでで朗読終わり――
 
これが「みこころをなさせたまえ」ですよ。
イエスさまは「貧しき者は幸いです。天国はその人のものだ」と言って、私たちのような者の前に天国を拡げてくださる。
その時にイエスさまは私たちに、神のみこころを求める思いを与えてくださる。
「あなたのみこころは何でしょうか?それに従っていきたいと思います」と言った途端にイエスさまは仰る。
「神のみこころは一つだ。わたしのところに来なさい。わたしを信じなさい。あなたの罪、汚れ、あなたの重荷、あなたの不安を一身に背負って十字架にかかるわたしのところに来て、わたしを信じなさい。そしてわたしとくびきを一つにして、わたしと共に歩んで、わたしから学びなさい。わたしのくびきは重くない。わたしは心優しい」(***マタイ11:28〜30)とイエスさまは仰いました。
 
37節を見ていただきますと――
 
37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。
 
つまり、イエスさまのところに来た時に、これは天の父がイエスさまのところに私を導いてくださったのだと信じなさい、という意味ですね。
そしてイエスさまは、この言葉を仰った。37節の後半――
 
37……そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
 
私たちはもう沢山の問題を抱えているんですね。
問題を抱えていないという人がいたら、いや、あなたが問題です(大笑)と、周りの人は言うでしょうね。
そんな人がいたら(笑)、そういう風に言う君が問題なんだよ、と周囲から言われるに違いない。
そんな私たちの前に、天の御国を拡げてくださるんですよ。

「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てない」というのは、入り口の問題だけではない――キリストを信じるというのは、どこかで入口がある――入口の問題だけではないですね。
出口に至るまで、わたしはあなたを捨てないと、こう仰るんですね。
39節、見てください。
 
39わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終りの日によみがえらせることです。
 
というのは、これはイエスさまの宣言ですね。
イエスさまが父なる神のみこころを行っている限り、イエスさまのところに来た者を、イエスさまはひとりも失うことなく、最後まで入り口から出口に至るまで、その人物を恵みのうちに留めることがわたしの使命だと、イエスさまは宣言しておられる。
 
この使命を、私たちは信じなければいけないです。
なぜなら、私たちの家族も私たち自身も、そこかしこで主の御心に適わず、道から逸れるんです。
あぁ、逸れてしまった。残念。至極残念ですね。でも私たちは信ずるんですね。
イエスさまは仰った――「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」と言うこの方にしがみつき、「もう一回戻って行くことも私たちは可能だ。もう一回戻った時にこの方は受け入れてくださる」と私たちは信じるんです。
そして私たちのように、ろくろくみこころも解っていない私たちであったとしても、主の憐れみのうちに、私たちを保ってくださるということを信じる。
なぜなら、それがイエス・キリストの使命だからですね。
 
みこころに気づかせてください。
自分の願いに凝り固まっているような私たちですよ。
そしてこの世界の様々な出来事に失望ばかりしている私たちに向かって、イエスさまは仰る。
「わたしのところに来なさい。わたしを信じていなさい」
 
そして39節、「わたしを遣わした方のみこころは」というこの言葉に、最後心を留めて終わりにしたいと思いますが――
「わたしを遣わした方のみこころは」とイエスさまは仰いましたでしょう?
イエスさまは、今度は3番目にこう仰るんです――
 
3)「わたしがあなたを遣わす」
 
だから、神のみこころは、イエスさまを経由して、今の私たちに生きるんですね。
神のみこころはイエスさまを遣わした。
イエスさまは遣わされた者として、御心を全うするために、私たちを最後まで保つと仰った。
私たちを最後まで握りしめて保ってくださる。
でもこのイエスさまは、今度は私たちに向かって、イエスさまの心を、願いを私たちに伝えてくださるんですね。
 
(ヨハネの福音書)15章の16節を読んで、そしてちょっとだけお話をして終わりにしたいと思いますが――
これがイエスさまの心です。イエスさまの私たちに対するみこころです。
これを共に読みたいと思います。
 
16あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
 
真ん中にありますよね――「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためだ」と。
ここに動詞がありますでしょう――「行け」ですよ。「行け」
イエスさまのみこころは今度は私たちに託された。
「みこころをなすために行け。わたしがあなたを遣わす。そしてあなたは出て行った先で、必ず実を結ぶ――そのことをまた信じて、出て行きなさい。実を結ぶために出て行きなさい」
 
で、私たちはなかなか出て行かないんですよ。イエスさまのところに来はしますね。でもなかなか出て行かない。
私たちは出て行って、愛の実を結び、平安の実を結び、そして一人でも多くの方をイエスさまのところに連れて行くために、神の栄光が現されるために、神の御名が尊ばれるために、私たちは出て行んですよ。これがなかなか難しいんですね。
 
先日、京都で京都の復興教会、日本基督教団の中のホーリネスの群れという、ホーリネス系の群れがあるんですが、その聖会に招かれましたときに、そこに東京聖書学校で学んでおられる神学生の方が証しをしておられました。
40代後半ぐらいの方ですかね。ずっと、教会の中で主に仕えて来た兄弟が献身して学んでおられました。
 
彼が証しの前半で何を語ったのかは私(藤本牧師)はよく覚えていないのですが、それは神学校に入ってから、様々に迷った。
そして神学校の様々なその訓練の中で揉まれている内に、自分自身の足りなさに非常に悩んだ、という話を彼はしていたんですね。
そして、ある晩寝られなくなって、その日、外へ出て祈っていたときに、彼はふと月を見た。
月を見た途端に、神さまの、イエスさまの声を聞いたという証しだったんです。
 
これも大切ですね。月を私たちしょっちゅう見ますよ。そしてきれいだなぁと思いますね。
ほとんど見ないのかもしれませんが、でもやっぱり、月は見ますね。
私(藤本牧師)はこの前、じっくり月を見たのは、宮前平の○○っていうあの温泉の施設があるんですが(笑)、そこで壺の形をした風呂に入りながら月を眺めていたら、きれ〜いに月が輝いていましたね。
私(藤本牧師)はその時思ったのは、あ、もしかしたら平安時代の人もこの月を見ていたのか。宮前平の平安時代(大笑)というのはどんな感じなんだろうと。
 
この兄弟は違うんです。思い悩んで月を見た。その時にイエスさまの声を聞いた。彼はその時にすぐにイエスさまの声を書きとっていましたので、正確に読んでいましたけれども、私は書きとっていませんでしたので、正確には引用できないのですが、イエスさまは彼にこう仰ったんです。
「あなたは月になりなさい。自分で輝く太陽ではなく、太陽の光を受けて輝く月になりなさい。そして一生、月でいなさい」
という言葉を、彼は聞くんです。
 
神学校で何を悩んでいたのかはわからない。
でも私(藤本牧師)だったらこういう風に悩むだろうなぁと思いますね。
例えばあの先生のように教会を牧会できないとか、自分の力の限界を感じながら、果たして自分は牧師となれるんだろうか?自分の力の限界を感じながら、自分は果たして世に派遣されて、みこころをなし、その実が残るような人物なのだろうか?ということに一番悩むと思うんですね。
自分が出て行った先で、ほんとに自分は輝いてイエス・キリストの愛を現すことができるんだろうか?――で、兄弟が聞いた声が、
「あなたは月でいい。つまり、真っ直ぐにイエスさまを見ていれば、自然にあなたは輝く」と。
 
そう考えますとね、いま流れの中で、一点真ん中に集中するのは、
「わたしのところに来なさい。わたしを信じなさい。わたしをまっすぐに見ていなさい。すると、あなたは月になる。あなたは主の栄光を輝かすことができる月になる。そしてわたしは終わりの日まであなたを保つ」
というメッセージが見えて来るはずですね。
 
私たちの人生には様々な出来事がありますが、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(***マタイ11:28)というみことばは、私たちの信仰生涯の軸です。柱です。
そして、そのことさえできているならば、私たちは自然に輝くことができると信じています。
 
☆お祈り
 
恵み深い天の父なる神さま、あなたが私たちを遣わしてくださるときに、何かをしようではなく、ひたすらあなたを礼拝する、あなたを仰ぎ見る者とさせてください。あなたに来る、あなたを信じるという、私たちの小さな姿勢が、キリスト教の始まりではなく、私にとって、私の信仰生涯のすべてを貫きますように。
そして何かあった時に、何か試練に立たされた時に、「そうだ、心優しいイエスさまとくびきを一つにしよう。そしてイエスさまから学ぼう」(とイエスさまに立ち返り)、
批判され、退けられ、そして様々な障害物にあたる度に、心優しいイエスさまのようでありたいと願う者とさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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