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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/6 主の祈り(6) 日ごとの糧を与えたまえ エゼキエル3:1〜3
☆聖書箇所    エゼキエル3:1〜3

1その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」
2そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、
3そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。

☆説教     主の祈り(6)日ごとの糧を与えたまえ

さて、「主の祈り」を一緒に勉強してまいりました。
そして今日は「日用の糧を与えたまえ」「日ごとの糧を与えたまえ」です。

「主の祈り」は、「天にましますわれらの父よ」から始まりまして、
*「御名をあがめさせたまえ」
*「御国を来たらせたまえ」 そして
*「みこころをなさせたまえ」ですね。

この3つ(*印)は霊的な祈りで、全部神さまに対する祈りですが、
いきなりイエスさまはここで、
「私たちの日用の糧を与えてください」「日ごとのパンを与えてください」と――英語ではdaily breadですね――イエスさまのお祈りは、人のため、自分のために移ります。
糧というのは、パン、ご飯、食事のことです。
ということは、イエスさまは、人間の祈りはまず食物から始まることを知っておられました。

私たちの世界で生きていくことに欠かせないのは、食事です。睡眠も欠かせませんが、最も基本的な必要が食事かもしれません。
イエスさまご自身が、荒野に導かれて四十日の試練に遭われた時に、一番最初の誘惑が食事に関するものでした。
サタンはイエス・キリストに向かって、「そこにある石をパンに変えてみてはどうか」と空腹というものに襲い掛かった試練が一番最初でありました。(***マタイ4:3)
それは強烈な誘惑として、イエスさまに襲いかかったに違いありません。

箴言に面白い言葉があります。ちょっと開いて見ましょう。詩篇の次が箴言ですね。
箴言の30章の8節、私が8節を読みますから皆さんで9節を読んでくださると感謝ですね。

<箴言30:8〜9>
8不信実と偽りとを私から遠ざけてください。
 貧しさも富も私に与えず、
 ただ、私に定められた分の食物で
 私を養ってください。
9私が食べ飽きて、あなたを否み、
 「【主】とはだれだ」と言わないために。
 また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。
     
「貧しさも富も私に与えず」というのは、この両極端は勘弁してください、という祈りです。                
人間はあまりにも貧しい思いをしますと、やはり情けない行動を起こします。
例えば、盗みをするということがここに書かれています。
余りにも飢えた状態になれば、人は神の御名を汚すこともいたします。
食事が及ぼす人間の精神状態というのがよくわかりますね。
   
先週Kくんが、Sさんが(お姉ちゃんの)Nちゃんの宿題を見ている間にだんだんお腹が空いて来て、
私たちは結婚式の準備で、バージンロードに敷く画鋲をいじっていたんですが、Kくんはそれを全部ひっくり返して……。
「Kちゃん、どうしたの?」(と聞くと)「お腹が空いた」(笑)。
「お腹が空いた」――それを聞いた途端、何てわかりやすい子なんだろう(大笑)と思いました。もっともだなぁと。ずっと我慢して、一言も文句が言えず、ま、行動には出るんですけれども(笑)。
「先生と一緒にご飯食べに行かない?」と誘いましたが、そこは小学校一年生ですね。お父さんとでなきゃ、知らない人と行っちゃだめだよ(大笑)と言われているんだなぁと思いました。
 
満ち足りた人生、食事においても健全な満足感を得るということは、大切なことです。
箴言にはその代わり、その反対もあります。
満足を越えて、満ち足りすぎて――ま、飽き足りていくと言いますね――飽き足りて行くと、人はパンを備えてくださった神さまのことを忘れていきます。
飽食の時代はいつの時代でも信仰を失います。

(旧約聖書で)ソロモンの時代がそうでした。
ソロモンは贅沢の限りを尽くし、聖書によりますと、彼の食卓には、牛が三十頭、羊百頭、牡鹿、カモシカ、のろじか、鳥が並びます(***T列王4:23)。
もちろんソロモンの食卓は何百人のために、王宮の人々のために備えらえました。
でもそうして、ソロモンは飽き足りて、日ごとの糧を備えてくださるのは神であるということを、忘れて行きます。

ここから3つのポイントで話をします。
先ず第一番目に、そういう風に考えていきますと、「日ごとの糧を与えてください」「日用の糧を与えてください」と祈る――

1)この祈りの中で最も基本的なのは、食前の感謝だと言わざるを得ない。

皆さん、食事の前に感謝をいたします?それが長かろうが短かろうが、私たちはどのような食前の感謝の祈りを捧げますでしょうか?

神学校で特徴的なのは、必ず作ってくださった方への感謝、またその食材を捧げてくださった全国の教会のサポーターへの感謝がそれに加わります。
家庭であればお母さんのために感謝。またその仕事をもって、生業を備えてくださったお父さんへの感謝が加わる。
人によっては、目の前の食事の感謝とともに、「世界中で飢えている方々に、神さま、どうか助けの手を差し伸べてください」という祈りを加える方もいらっしゃいます。

私の神学校時代の友人はガーナ人でした。彼の食前の感謝はいつも同じで、それもいつも特徴的でありました。
おそらく彼が育った教会がそうだったんだろうと思いますが、
「イエスさま、どうか天から下って、この食卓に私たちとともに座り、私たちとともに食してください」――それが彼の祈りでした。
それだけ――「イエスさま、どうか天から下り、この食卓に座り、私と共に食してください」という彼の祈りは独特でありました。

イエスさまご自身も仰いました。
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(***黙示録3:20)
つまり、食事をするときに、私たちはイエスさまを招くべきだ。
私たちが食事をする時、ひとりであるかもしれませんし、家族であるかもしれませんし、しかし、イエスさまは戸の外に立って、招かれるのをイエスさまは待っておられる。
食卓は交わりです。兄弟姉妹、家族とともに交わる。友人とともに交わる。そして私たちはイエスさまもともに招きます。

前に一回話したことがあると思いますが、私(藤本牧師)はある日神戸のホテルにチェックインした時にもう夜遅くて、そしてフロントの方に「この辺で食事のできるところはありませんか?」と。
すると、通りの向こう側が和歌山ラーメンの店だったんです。
私は迷いました。神戸に来て和歌山ラーメンの店に入るとは(大笑)、どう考えても屈辱的だと。

長い列がありましたので、きっとうまい店に違いないと(思い)並びました。
暫く経って、席に着いて、一緒に来た後ろの二人が東京から来た人で、彼らは職場の先輩と後輩で出張で来たんですね。
そして先輩が後輩に、「お前、ほんとにここでいいんだろうな」「ええ、間違いありません」
食べログが何かで検索して、ここがおいしい。間違いありませんと。

彼らはちょうど、カウンター席で、私の隣に座ったんです。
そしてオーダーした途端に、二人でスマホをいじるんです。食べている間、二人に会話は一切ないです。
周囲の関西の人たちは「頼むから静かにしてくれ」(大笑)と言うくらいうるさい。
ものすごいですね。これが関西と東京の違いかもしれませんけれども。

私たちも時に子どもに言いますよね。「食事をしている時ぐらい携帯やめてくれ」と。
そこが交わりの場という意識がないですよね。食を満たせば、それで良しと。
そして親の質問って単純ですから、「きょう一日どうだった?」
もし親がそういう質問を問うたら、子どもの皆さんは聞き返してあげたらいいですね。
「お父さんの一日はどうだったの?」と(大笑)、「それに答えたら答えてあげる」みたいな(とご自分で大笑いしながら話される藤本牧師)。
親はだいたい一方的に子どもの一日を尋ねますね。
でも、それぞれに一日があり、それぞれに苦労があるんですから、食卓というのは、そういうことが話題になって、
「大丈夫だよ、それぐらいのことは何とかなるよ」という風に、
互いに声をかける場所であれば、そこに備えられた食事は、何倍にもなって私たちのたましいを励ますんです。

もしひとりであれば、イエスさまを招いて、そしてともに食事をすることによって、まことにその糧が、日用の糧が、日ごとのパンが、私のたましいを、私の身体を元気づけてくださるように、
「主よ、どうか日ごとの糧を与えてください」と祈るときに、私たちはまさに、食事をする度にイエス・キリストを招いて祈るべきだと思いますね。

2)「日ごとの糧を与えてください」ということは、「日ごとの糧を食べられるように、私の健康を支えてください」という祈りです。

深〜く考えますよね。深〜く考えます。
先々週の祈祷会でT姉が証しをされていました。
昨年、黒部市民病院で過ごされたわけでありますけれども、山から滑落して、非常に体調の悪い中、一体どれくらい回復するんだろうか。
で、春ぐらいに、あちらの先生に回復のお手紙を書かれたんですが、夏の間にご夫妻で黒部を訪ねられたと言われていました。
そしてまさに病院を訪れられた時に、担当のお医者さんにも会うことができ、病棟ではお世話してくださった看護婦さんにも声をかけていただいたそうです。

そして、黒部に行って食事は病院の食堂でなさった。
それは入院中、徐々に回復してリハビリのために病院を歩かなければならなかったわけですが、病院の食堂で食べたいのですが、入院しているパジャマ姿では病院の食堂で食べられない。
患者さんは病院で出される、その非常に塩分を控えた、非常に普通の(笑)あまりおいしくない(笑)食事を食べなければいけない。
姉妹はその前を通るたびにいつかそこで食事をしたいと思っていたので、今回はその病院の食堂で食事をなさったという証しをしておられました。
  
もし私たちが入院したらそう思うに違いない。
最初は食べたくもない。そして元気になれば、いつかこの病院の食堂で食事をしたいと思うかもしれない。
でも中には、最後の最後まで食欲を取り戻さずに、体力のないまま退院する方もおられる。
体力のないまま、やがてそこで息を引き取られる方もいらっしゃるわけですよ。

私たちが日ごとの糧をいただく時に、つくづく考えることは、それを食べる力を神さまが私に与えてくださっているという証しですね。
「日ごとの糧を与えてください」という祈りの中には、日ごとの糧を美味しくいただける健康を、余裕を、時間的な余裕を、私に与えてください(という祈りが含まれている)。
余裕がありませんから、仕事をしながら何かを食べますでしょう。
時間がもったいないと言って、一気に食べてしまいますでしょう。
それが身体に良くないと解っていながら、掻き込むように食べてしまいますでしょう。
でもね、健康であるからこそ、食べられる。

そして食事を備えてくださった神さまは、私たちの健康を一番気にして――あなたの食欲を気にして備えてくださったんじゃない――あなたの健康を気にして、食事を備えてくださる。
だから私(藤本牧師)のように、甘いものが好きだからと言って、甘いものばっかり食べているというのは、神さまのみこころには適っていないなぁと思いながらも(大笑)、どうしても手が出てしまうという、難しいですね。難しいです。
でも食事っていうのは、それほど大切なのだと思いながら、「日ごとの糧を与えてください」です。

さて、3番目、これが今日のメインですね。

3)当然、たましいの日ごとの糧を与えてください、です。

「日ごとの糧を与えてください」「日用の糧を与えてください」と言った時に、私たちはいつもイエスさまの言葉を思い出しますね。
イエスさまが荒野で四十日の試練を終えた後に、サタンが現れてイエスさまに声をかけた。その誘惑の言葉が、「この石をパンに変えて食べてみたらどうか」(***マタイ4:3)ですね。
その時イエスさまが仰ったのが、「人はパンのみにて生きるにあらず。神の口から出る一つ一つの言葉による」と。
    
私たちが生きていくために、日ごとのパンと同様に、私たちは神の言葉によって――「一つ一つの神の言葉による」(***マタイ4:4)ということは、神さまは私たちに毎日毎日言葉を与えてくださる――それが私たちを生かす。
そして覚えていただきたいことは、イエスさまはこの真理を、荒野の試練の中で経験するのです。
荒野の試練の中でわかることがある――それは、私はパンだけで生きているのではない。神の言葉で生かされている。
 
私たちの教会で、T兄が前、証ししておられましたね。
「試練の中を通った時に、聖書がこんなに心に響くものだとは思わなかった」と。
勿論、前から聖書は読んでいた。でもその時期に兄弟は祈祷会でよく証ししてくださいました。
「こんなにすばらしい聖書の言葉があるということ、今まで気がつかなかった」と。
何度も読んでいるのにもかかわらず、気がつかないってどういうことか?それはイエスさまと同じですね。
神の言葉の力と、神の言葉のその甘さをいったい、私たちはどういう時に味わうのか?
それは神の力づけが必要な時に味わうんです。
そうでなければ、下手をすれば、毎日私たちが聖書を読んだとしても、それは右から左に抜けていくかもしれない。
本当に神の言葉が必要な時に、神の言葉は私たちの所に届くようにできているんです。

今日読んでいただいた聖書の箇所、このエゼキエルの時代を、ちょっと考えていただきたいと思いますが、エゼキエルに対して、神さまは「みことばを食べよ」と仰いますね(***エゼキエル3:1)。
3章をちょっと見ていただきたいと思いますが、1節に――

1その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」
2そこで、私が口を開けると……

というのは、その方は、私にその巻き物を食べさせた。これは、何ともありがたいです。
神さまはぽ〜んと巻き物をエゼキエルの前において、さっさとそれを食べよと仰ってないです。食べるか?と(聞かれる)。
エゼキエルは口をあけるのです。すると、神さまご自身がその巻き物を、神の言葉を、エゼキエルの口に入れてくださる。

3そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。

というのは、元気づけられたという意味です。

ちょっと複雑ですから、話を追って整理してみますので、ちょっと頭に描いてくださいね。
エゼキエルという人物は、紀元前594年頃に、捕囚の第一陣がユダヤからバビロンに連れて来られた時の人物です。
捕囚の第一陣は王族、貴族、技術者、上流階級。その中にエゼキエルが入っていました。彼は祭司ですね。

それから4〜5年経った頃がこの場面です。
彼は神さまから「みことばを食べよ」と言われるのですが、それから4〜5年経過した頃に、ちょっといろんなことが起こります。
その年、バビロンの帝国が支配している植民地、至る所で反乱が起きます。
その時、祖国エルサレムでは反乱が起きますので、「捕囚は必ず終わる。バビロン帝国はすぐ滅びる。すぐに私たちは回復する」そんな預言がハナヌヤ(***エレミヤ28章)という人物が中心に、吹聴されるようになります。

エゼキエルはすでにバビロンにいますが、エルサレムに残っていたエレミヤという人は、「そんな安易な預言に惑わされるな」(***エレミヤ29:8)ということを言い、その手紙をバビロンにいる捕囚の民にも書いています。
捕囚がすぐ終わるのか?きっと終わるに違いない――民衆の心は騒いでいるわけです。その淡い期待に踊っているわけですけれども、「終わらない」と(エレミヤは宣言します)。

アウシュビッツの収容所を生き延びたビクトル・フランクル(***オーストリア・1905〜1997)という人物が、「夜と霧」という本を書いていますね。
彼はウイーン大学の心理学の教授でしたけれども、ユダヤ人としてアウシュビッツに入ります。
彼は生き残って出て来ますね。そして体験記を書いたのが「夜と霧」で、5年位前に(13年前?)に訳が新しくなり、いま皆さん求めることができますが、彼は非常に興味深い分析をしています。

収容所にいる人々の心理状態――人間がある所に閉じ込められますと、一番人の心を動かすのはニュースだそうです。
収容所で、例えば連合軍がいつ何時に攻めて来るだとか、あるいは終戦は間近だとか、そういう噂がしょっちゅう流れる。
小さな噂が流れますと、あっと言う間に広がって、人間の集団心理を動かしていく。

そしてそのニュースが偽りであったとか、あるいはその通りにならなかったとなりますと、その直後の失望たるや、半端ない。
以前に増して、人々は落ち込んで、アウシュビッツの収容所では沢山の方々が亡くなっています。
偽りの噂に踊らされ、それがならないと失望し、そして彼らは死んでいくんです。

そういう時代にエゼキエルは「神の言葉を食べよ」と言われています。
周りの者たちは、あと二年で終わりだとか、そういう人間的な予測に振り回されている。
そういう中で、神さまは、「腰を落ち着けて、わたしの言葉によって腹を満たせ。表面的な動きに惑わされるな」と(言われるのです)。
聖書に沈潜し、聖書を真剣に読むように、エゼキエルは言われます。

私たちがもし誰かを、家族の者について家族のことを看ていたら、お医者さんは自分の愛する者をどういう風に判断しているんだろうか、看護婦さんたちの目から見ればいったいどうなんだろうか、どういう薬が入っているんだろうか、もういろんなことを考えますよ。
手術室に入っている間も、いったい今の状況、テレビモニターに映してくれないものかと思うぐらい、中のことが不安でしようがないです。

神さまはエゼキエルに、「この巻き物を食べなさいと。口を開けてわたしのみことばを食べてごらん。このみことばが、あなたの心のうちに、希望を、力を、平安を与えてくれる」(と仰ったように、私たちに仰る)。
「その廊下にある雑誌は、あなたの時間つぶしには役に立つ。でもそこに、あなたの心の平安を取り戻す食べ物は入っていない」

2節で、「私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ」てくれた。
神さまはいつも私の口のところに、巻き物を持ってきてくださる。運んで来てくださる。
みことばはすぐそこにあるんですね。
聖書のみことばで、腹ごしらえをして、そこから希望と平安をエゼキエルは取り戻していくのです。
そしてこれからまだまだ続く捕囚の期間――70年続くんですけれども――それに耐える力を彼は得ていくんです。

宗教改革者のマルチン・ルターは、1517年――もうちょっとで宗教改革500年になるんですね――カトリック教会の改革を訴えて、95箇条の提題というものを、ドイツのウィッテンベルグ(城)教会の扉に打ち付けます。

それが宗教改革の第一歩でした。
彼はこの提題によって、ローマ教皇はさまざまに悔い改め、教会は変わると信じてその提題を打ち付けるんですけれども、ローマ教皇はルターを破門に付します。
そして、政治を治めていた神聖ローマ帝国のカール5世は、ルターを宗教裁判にかけます。もちろん有罪ですね。
ルターは勢い勇んで、沢山の抗議論文を出版いたしますが、激しいしっぺ返しに遭います

彼は捕えられて、火あぶりの刑というときに、彼の味方であったフレードリッヒという王さまが、彼を自分のお城に匿います。
そのお城に彼は一年間匿われ、その間に、彼はギリシャ語の新約聖書をドイツ語に翻訳します。それが初めての地方原語の翻訳聖書です。それ以前はラテン語の聖書しかない。

彼は一年かけて、ギリシャ語からドイツ語に翻訳していく間に、その批判を受けて恐れおののく、弱り切った、脅えた心は力を取り戻しているのです。
自分はもう宗教改革なんてやっていけない――四方八方から抵抗を受け、弾劾されていたルターは、みことばの日々の糧をもって、神の使命に燃やされ、力を取り戻し、宗教改革をやり遂げていくのです。

日ごろ、「日用の糧を与えてください」というのは、まさに毎日の食べ物かもしれない。
でも私たちが一旦様々な問題課題・試練の中に入った時に、普通の食べ物以上に、みことばは私たちを元気にするんだということをきちっと捉えておきたい。
そしてみことばは、いつでも神さまは私たちの口元に差し出してくださる。
私たちが口をあけてそれを食するなら、私たちは再び平安を取り戻す、ということをしっかり覚えておきたいと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、あなたは今朝も私たちの前にみことばを差し出してくださいました。さぁ、大きな口をあけて食べなさいと。それで腹ごしらえをしなさいと。エゼキエルが食べてみると、それは蜜のように甘かった(とあります)。

私たちに励ましを与えてください。もし失敗したことがありましたならば、反省させてください。しかしその反省を越えて、「死を復活によみがえらせることのできる神は、必ず私を助けて、また元に戻し、私に力を与えてくださる」と確信することができるように、強めてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

  


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