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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/13 主の祈り(7) 我らの罪をもゆるしたまえ ルカ23:32〜38
☆聖書箇所     ルカ23:32〜38

  32ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
  33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
35民衆はそばに立って眺めていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
36兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
38「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。

☆説教      主の祈り(7)我らの罪をもゆるしたまえ

「主の祈り」を共に学んでいます。「主の祈り」というのは、週報の裏に書いてあります。
キリスト教の祈りの中の祈り、イエス・キリストが「わたしと一緒に祈ろう」と言って教えてくださった祈りです。
      天にましますわれらの父よ。
      願わくは、御名をあがめさせたまえ。
      御国を来たらせたまえ。
      みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
      我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。

そして今日学ぶのは、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」です。

インマヌエルが標準的に採用しているのは、「罪」ではなく「負い目」です。
「我らに負い目ある者を、我らがゆるすごとく、我らの負い目をもゆるしたまえ。」
私たちの教会は、「主の祈り」を歌うようになってから、「負い目」ではなく「罪」に変えましたので、こちら(週報の裏の表記)の方も罪になっています。

1)よく言われるように、「負い目」と祈るのと、「罪」と祈るのとどう違うのか?

日本はほとんど「罪」です。「負い目」と言っている教会はないです。
それは日本基督教団の讃美歌も、それからホーリネス系の聖歌という讃美歌も、「罪」を採用してしまいましたので――
「主の祈り」は聖書には書かないんです。聖書の裏表紙とかに、どんな聖書にも「主の祈り」は載っていません。
でもどんな讃美歌にも、「使徒信条」と「主の祈り」は載っていますので――
讃美歌が普及していくフレーズで、「罪」にするか、「負い目」にするのかが決まってしまいます。

私(藤本牧師)は昔聞いたことがあります。
罪からのきよめを教えるホーリネス教会系では、毎日毎日「罪をゆるしてください」と祈るよりも、罪はきよめられたのだから、「負い目をゆるしてください」と祈る方が適切であると聞いたことがあります。
それは「負い目」の方が軽いと感じるからでしょうね――クリスチャンはより重い「罪」をゆるされたのですから、それから先ゆるされるべきは「罪」ではなく、私たちの様々な意味での「負い目」だと――で、この発想は間違っています。

なぜかと言いますと「負い目」と「罪」との違いは実は神学的な違いではない。
福音書の表現が違うんですね。
「主の祈り」というのは、マタイの福音書(***6:9〜13)を見ると「負い目」になっています。
イエスさまは「負い目」という言葉を使って、マタイの福音書では教えておられる。
そしてルカの福音書(***11:2〜4)でいきますと、これが「罪」という言葉になっているだけの差で、
つまり「主の祈り」をマタイ・バージョンで行くか、ルカ・バージョンで行くかだけの違いです。

これは英語でもいろいろ違います。sinというだけの場合もあれば、「負い目」ですとdebtですね。それからtrespassという表現もあります。
だいたいsinに統一されてきましたけれども、それでも違いがあるということは覚えておいてください。

違いがある、それが福音書における表現の違いだと考えれば、要は「負い目」も「罪」も同じことを意味しているんだと、単なる表現の仕方の違いで、用語の違いで、意味していることは同じだと思った方がいいです。

更に言いますと、マタイは「負い目」を使うんですけれども、マタイにとって、「負い目」というのは、決して軽い意味の言葉ではないです。
マタイの福音書には「負債」という言葉が何度か出てきます。これは借金を意味します。
マタイはイエスさまに召されるまでは取税人でありました。
取税人であるということは非常に厳格です。お金に関しては非常に厳格です。

私たちの教団には、大きな財務の関係がありますけれども、何かあったらすぐにN兄に相談いたします。
そしてN兄の税理士としての判断をすぐにいただけますが、やっぱりその判断は法律の解釈であり、税務署の動きを前提とした解釈であり、私たちはこの辺は何とかなるんじゃないかとか、ごまかせるんじゃないだろうかなど(笑)、いろいろ考えますけれども、いやいやそれはダメですと、いざ税務査察が入ったら厳しく指摘されますよ、と(アドバイスをいただくのです)。

これは厳しいです。私たちの教団本部は一回税務査察が入ったんですけれども、丸一日かけて全部調べていく、そして何も出て来ませんでした。
それは日頃N兄にお世話になっていますから、何も出て来ない。
ところがよく言われるように、税務署員は手柄を立てずに帰っちゃいけない(笑)。徹底的に探します。
手柄を立てなければいけない、そういう思いで朝から晩まで、ありとあらゆる書類に目を通しています――こういうものの発想をマタイは持っていたんです。

だからマタイが「負い目」とか、あるいは「負債」という言葉を使う時に――これは決して放免される、赦されるものではない、罪を犯せば、神さまに対して「負い目」ができる。「負債」ができる――これは何もクリスチャンだけの発想ではないです。
佛教にもあるでしょう。ヒンズー教にもあるでしょう。巡礼修行にもあるでしょう。同じ意識です。
私たちは皆、神に対して、天に対して、「負債」を蓄積している、そういう人生だと、その重苦しい思いが「負い目」です。

このことをまず(質問の第1番目として)心に留めてください。

二番目に問われることがあります
ちょっと週報の裏の「主の祈り」、見ていただけます?
ちょうど真ん中あたりの行に――

我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。

ぱっと見ますと、上の行が条件になって、下の行が存在しているとも思えますね?
「我らに罪を犯す者を我らがゆるすのですから、ゆるしたのですから、どうか私の罪をもゆるしてください」という風に読めてしまう。

つまり質問の第二番目は――

2)神のゆるしを受けるためには、先ず私たちは人をゆるさなければならないのか?という質問です。

私たちがゆるすということが、神にゆるされる条件になっているのではないか?
これは単純にそうではないですね。
神のゆるしは、私たちのゆるしよりも先に来ます。例えば――

<ローマ5:8>
8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより……

こう話が始まります。
私たちがまだ罪人であった時に、キリストが私たちのために死んで、私たちの罪をゆるしてくださった――神のゆるしは、必ず先に来ます。

<Tヨハネ4:10>
10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。……

私たちが神を愛したのではなく、神が第一に私たちを愛してくださり、私たちがそれに気づく前に、神の方でキリストの十字架を備えてくださった――いつも神のゆるしの方が先です。

それは例えばイエスさまの教えでも明らかですね。
ちょっとマタイの福音書の18章を見ていただけます?マタイ18:21〜28までを交替に読んでいきます。
    
<マタイ18:21〜28>
  21そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
22イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
23このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。
 王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
24清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
25しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物も全部売って返済するように命じた。
26それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
27しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
28ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。

わかりますよね。王というのは神のことですね。
そして神のしもべが一万タラントの借金を王にした。 
返済することができなかったので、主人は彼に、自分も妻子も持ち物も全部売って返済するように命じたと。
すると、しもべは主人の前にひれ伏して「どうかご猶予ください。そうすれば、全部お払いします」と。
かわいそうに思って、主人は彼をゆるし、借金を免除した。

ここに新約聖書最大の数字、一万タラントというのが出て来ます。
1デナリというのは、よく言われますように、一日分の給料です。ま、8千円なのか1万円なのか、仮に5千円としましょう。
すると、1タラントというのは6000デナリですから――1タラントは3千万円です。
だから他の譬え(***マタイ25:15)では、5タラント、2タラント、1タラント、貸したってありますよね。
5タラント借りたっていうのは、1億5千万。1タラント貸したっていうのは、3千万円を貸したっていう、あの譬えの中での数字は割とありがちです。
裕福な主人であれば、3千万円、6千万円、1億5千万円貸すことぐらい、あり得ない話ではない。

ところがここで出て来るのは、1タラントの一万倍ですよ。そうしますと、3千億円です。
イエスさまはなんでこんな数字を使ったんだろうと思いますね。
当時のユダ、サマリア、ガリラヤ、パレスチナ一帯の税金の総額が、現代の日本円にして1億です。
1億という数字は私たちにとって、1兆ぐらいの数字です。
だとしたら、イエスさまはなぜ、3千億という数字を、わざわざここで使ったんだろうかというのは、非常に奇妙ですね。

返せないと思ったこのしもべは、思わず主人に言うんです。「どうかご猶予ください。そうすれば、返します」と。
返せると思っているんです。(マタイ18章)26節に。
猶予があれば3千億、返せると思っている――これが、非常にこのたとえ話の味わい深い所です。
私たちは神さまの前に様々な罪を犯し、負債を負いますね。
そして負債というのは、猶予があれば、努力すれば、真面目にやっていれば、何とかその負債を全部返すことができると考えているんですが、それは返すことができない。
猶予があればどうにかなるというものではない。
そして主人は、その負債を全部赦し、免除いたします。

つまりイエスさまのたとえの中で、ま、この赦されたしもべは、自分もほかのしもべに貸しているんですけれども、またそれが問題なんですけれども、先ずこのしもべは神に赦されるというところから話が始まるわけです。
だから、しもべが自分がお金を貸している人を赦すかどうか以上に、自分が神から赦されているというところから話が始まるので、
やっぱり「私たちが神によって赦される」ということが全部の前提である、ということがよくわかりますよね。

さてその前提で、ちょっと聞いていただきたいと思いますが、イエスさまがこのたとえ話の中で強調されているのは、この恵みの大きさです。
3千億円という金額を赦していただいたこの恵みの大きさの中に、あなたは飛び込んでいる。

私たちは「主の祈り」の中で、「御国を来たらせたまえ」と祈りました。
「御国を来たらせたまえ」というのは、私の心のうちに、私の人生の中に、あなたの御国を来らせてくださいと、私たちが「主の祈り」を祈るときに、神の国へと招かれているという話をずっとして来ましたよね。
神の国へと招かれているということは、私たちは神の国の相続人です。そして神の国の恵みはすべてあなたがたのものだという。
だからそこには借金というものは存在しない。私たちが神さまから何か祝福をいただいたならば、それは借金にはならない。
私たちは神の子どもとして、神の恵みを自由にいつでも受ける存在。
「聖なる神の御前に罪赦されて、神の子どもとされた」ということは、私たちにとって、
「大いなる祝福の世界に入れられたので、私たちは他の人を赦すことができますように」という祈りをしてごらんなさい――イエスさまは教えてくださった。

もし「自分が神の国の住人である」という自覚がなければ、いつでも私たちは、やっぱり赦せないとか、難しいとか、そういう発想です。
でもあなたは神の国の中の住人である、神の子どもであり、神の国の恵みを一身に受けている、豊かな存在であるということを、心の中に留めなさい。
それを留めた時に、その人を赦してあげなさい。
「あなたは神の子どもです。多くを赦されたのです」――そのことがわかっていれば、あなたも祝され、そしてゆるすことができるかもしれません。

3番目に――さてこっちがポイントです――

3)そのように、「主の祈り」を祈る私たちですが、それでもなかなか寛容になれないです。
なかなかできないです。
ですから今日は、イエスさまが私たちのために祈っている聖書の箇所を開いていただきました。

で、最初(今日の司会の)N兄に読んでいただいたルカの福音書の、この言葉に戻っていただきたいと思います。23章の34節です。
私(藤本牧師)が33節を読みますので、皆さんで34節を読んでみてください。

33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

申し上げたいことは、「主の祈り」の中に出て来るような、あるいは私たちが普通に祈るような罪の赦しの祈りというのは、全部最終的には(ルカ23章)34節のイエスの祈りに集約されてしまいます――「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

何をしているのか、わからない人の罪。
2004年に、あの世界中で大ヒットを記録したハリウッド映画――ハリウッドで宗教映画はもう無理だと言われていたんですが――メル・ギブソンが監督した『パッション』という映画を私たちも観ました。
あれがものすごい興行成績を上げたわけですね。
イエス・キリストの最後の24時間みたいな(内容で)、一番最初はゲッセマネの祈りで始まるんですけれども――
これまでのキリストの映画で、キリストの十字架だけをあれほどに赤裸々に描いた映像は今までなかったですね。
アメリカで公開された時、中には心臓発作で倒れて、救急車で運ばれるというような出来事も随分あったみたいですね。
十字架の意味が解らない日本人にとっては、ただただ残虐な映画が、目を覆いたくなるシーンだけだったに違いないかもしれませんが。

皆さんはあのシーン中で、一体どの場面を強烈に覚えておられるのか?
私(藤本牧師)は、むち打ちでした――イエスさまを鞭打つローマ兵の残虐さが一番、この罪深さがよく出ていた。
最初、鞭を選ぶときに、ローマ兵の目が光ります。どれを使ってやろうかなと。そして楽しいんでしょうね。
イエスの背中に鞭打ちが当たる度に、肉がえぐり取られる。
で、執行人は鞭打つことに一生懸命で、辺りがバケツをひっくり返したような血の海になります。
むち打ちだけで殺しかねない、というその物凄いむち打ち、どんどんどんどんエスカレートしていくむち打ち。
そのむち打ちを見ていた上官が、思わず制止して「やめろ!」と怒鳴るんです。
「止めろ!」って怒鳴った瞬間に、暴走する執行人が、ふと我に返って、あ、やりすぎちゃったかなとこう思うんですよ。
(***これは残虐すぎてイエスさまに涙するT・Yですが、上官は、まだ見せしめのための十字架につけた上で、更なる痛み苦しみの後に死に至らせるという酷い刑罰がある、これだけで殺しては早すぎると気がついてでしょうか?)
「彼らは何をしているのか、自分でわからなかったのです」というイエスさまの言葉が非常によくわかりますね。

主が十字架で「彼らをお赦しください」と祈りました時に、その彼らの中には勿論イエスを裏切ったユダが含まれていました。
ユダを十二人の弟子の一人に選んだのは、ほかでもないイエスさまです(***マルコ3:14〜19)。
しかも、群れのお金の管理を任された(***ヨハネ13:29)ほど、彼は信頼を受けていました。
ユダはイエスさまが五つのパンと二匹の魚で数千人の人々のお腹を満たしたときに(***マタイ14:13〜21)、ユダもまたパンのかごを持っていました。
弟子たちの乗った船が嵐で沈みそうになった時に(***マタイ8:23〜27)、ユダは船のへりに必死でしがみついて、水を汲み出していました。
イエスさまがその嵐に「静まれ」と叫ばれた時に、嵐が一瞬にして静まった(***マルコ4:39)そのシーンをユダもまた見ていました。

しかしユダは、祖国をローマ帝国から救い出す政治的な指導者、救い主を期待していた。
でもイエスはだんだんと弱者と共に生き、小さい者を愛する――その姿を見て、ユダはイエスに失望します。
だとしたら、(ユダは)イエスのもとから、静かに去って行けばいいのですよ。

しかし、ユダはイエスをお金で売り渡します(***ルカ22:3〜6)。
なぜお金で売り渡したのか?聖書には書いてないです。そんなにお金が欲しかったのか?いえいえ、そんなことはないです。
でも最終的に裏切るときに、お金で売り渡す、というところに、人間の罪深さが出ていました。

ペテロもそうです。
イエスが捉えられたその数時間前に、
「私は死んでも、あるいは牢屋に入ってでも、イエスを裏切ることはない。あの方を知らないとは言いません」と言った彼が(***ルカ22:33)、
同じように「そんな奴は知らない」と三度も否みます(***ルカ22:54〜62)。
それもまた、とっさの、一瞬の出来事。
罪のどうしようもない罪深さは、まさにそのようなところにあるのでしょう。
「父よ。彼らをお赦しください」――その彼らの中に、私たちも入っているわけです。

私たちは毎日、「私たちの罪をお赦しください」と祈りますけれども、それは口だけのことである場合も多い。あえて深く物事を考えていない場合も多い。
自分が神の国の住人としてすべて赦され、自分に罪を犯す者を赦すことができるほどの多くの恵みをいただいていることなんて、よくわかっていないかもしれない。
そんな私たちを支える祈りは、イエスの祈りであって――
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないほど、罪の闇に足をとられてしまっているのです」

ただ羊のようにさまよい、自分勝手な道を行った私たちが(***イザヤ53:6)、イエスの十字架によって支えられ、でもそれだけではない。
イエスはその十字架の上で、「父よ。彼らの罪を赦してやってください」と祈られたことも、この「主の祈り」を祈るときに、同時に祈りたいと思います。
「私を神の国に招いてくださった父よ、私の罪を赦してください。御子イエスが私たちのために祈っていてくださいます。ですから私も、私に対して罪を犯す者を赦すことができますように、力を授けてください」

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、御子イエス・キリストが地上で様々なことを教えてくださいました。その教えがいつでも私たちの心の中にありますが、もしかしたら、このお祈りほど――「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)というこの祈りほど――私たちにとって大切な言葉はないのかもしれません。

時に人の罪によって痛く傷つけられる人生です。時によくわからないで、人の人生を傷つけてしまう私たちの罪深さですが、「それらを赦してやってください」と、イエスさま、あなたが祈ってくださったがゆえに、私たちは今日ここに座ることができます。

「主の祈り」を祈る度に、それほど大きな恵みの世界に入れていただいている。それほど尊い「主の祈り」に、主が祈ってくださった祈りに、支えられている。ですから少し寛容になりたい。少し愛をもって人に接したい。少し人の批判に耐える力を与えていただきたい。もう少しゆっくりと人間関係を構築していきたい。イエスさま、どうか私たちに、憐れみの余裕の心をお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2015.09.14 - 18:24
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