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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/27  主の祈り(8)試みに会わせず、悪よりお救いください  マタイ6:9〜13
☆聖書箇所      マタイ6:9〜13

9だから、こう祈りなさい。
   『天にいます私たちの父よ。
   御名があがめられますように。
10 御国が来ますように。
    みこころが天で行われるように地でも行われますように。
11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
12 私たちの負いめをお赦しください。
    私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

☆説教     主の祈り(8)試みに会わせず、悪よりお救いください

初めて来られた方々が前の方に座っておられるとつくづく思います。どうか、いつも来ておられる方々も前の方に座ってください(笑)。やっぱり、初めてで前の方というのは若干緊張されるんだろうと思いますけれども、二階の後ろの席の方々、どうか一階(した)に座っていただきますように。
これからしばらく、案内に立っておられる方々にもお願いしたいと思います。もし案内の方々が、「一階に座ってください」と声をかけられたら、それはイコール、二階がいっぱいですという意味です。むしろ一階が空いている、という意味ですので、どうかその意を汲んで、遅れていらっしゃる事は構いません。人それぞれ事情があります。ですから一階に座っていただきたいと思います。

「主の祈り」をずっと学んで来ていますが、今日はマタイの福音書の6章の13節から、ここです――

13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。……

この「悪からお救いください」というのは、「悪しき者からお救いください」という訳もありますし、また、「悪からお救いください」という言葉が入ってない写本もあります。
ルカの福音書は、「悪からお救いください」が入っていません。
でも私たち教会は二千年間、「悪からお救いください」と祈ってまいりました。

1)前半部分の「私たちを試みに会わせないでください」――これはいったいどういう意味なんだろうと思いますね。

試みに会う――これほど日常的なことはありません。
イスラエルの民は40年間荒野で試みを受け、その後約束の地のカナンに入ります。
私たちの人生にとって、十字架も日々負うべき十字架も、あらゆる種類の十字架がありますし、十字架と言わなくても、悩みの数、試みの数は限りなくあります。
病気や困難という試みもあれば、信仰を貫き主に従い通すという試みもあります。
アブラハムが人生の後半で、イサクを捧げるという最大の試練に遭ったように、生涯試練を通してきたえられる――それが私たちの信仰生涯であることを、十分に心得ています。
この試みを避けてしまったら、信仰的にも人間的にも私たちは強くなることはできません。

ですから、聖書はこの試みを歓迎しろとまで言っています。
ちょっとヤコブの手紙――聖書の一番後ろの方です――1章の2節と3節4節を声を合わせて読んでみたいと思います。

<ヤコブ1:2〜4>
 2私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
3信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
4その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

とありますように、試練を経て初めて私たちは忍耐を学び、忍耐を鍛えることによって、通過することによって、初めて神の前に責められるもののない、強い信仰者として成長していくというのは、これはもう一般的に考えれば解ることでありましょう。

これほど大切だと言われる試みに、会わせないでくださいと祈るのは、一体どういうことなのだろうか?
実はですね、「試み」ではなく、「誘惑」と訳することもできるんです。
実はギリシャ語で、新約聖書の言葉で「誘惑」と「試み」というのは、全く同じ言葉です。
ヤコブの手紙の1章のちょっと12節を見ていただけませんか?12節に――

<ヤコブ1:12〜14>
 12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

と言われている12節の「試練」という言葉と、いいですか、その次の13節の――

13だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

ここにある「誘惑」っていう言葉は、ギリシャ語では(12節の「試練」と)同じです。
それを英語でも訳し変え、日本語でも訳し変えているだけで、でもそもそもの原文は同じ言葉なのです。
「試練」というのは、私たちを鍛える試練です。でも「誘惑」というのは、罪へのいざないですね。
これは言語の限界なのでしょうけれども、(ヤコブ1章の)13節で日本語では「誘惑」と訳されていることは誠に正しいことで、
13節をもう一度見ていただきますと――誘惑が来た時に、これを神さまから来たものだと思ってはいけない。神さまは人を罪に陥れようと、誘惑なさるようなことはなさらない。つまり誘惑に陥る責任は、神さまにあるのではなく、私たち人間にある。
ですから14節にこうありますね――

14人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

2)私たち自身に問題があり、その問題のある私たちをおびき寄せる存在がいるということです。

イギリスの有名な文学者で、「ナルニア国物語」(を書いた)、あるいは神学者で「キリスト教の精髄」(の著者である)、C・S・ルイスという人物は非常に幅広く行動いたしました。
彼の有名な本に、「悪魔の手紙」というのがあります。
“The Screwtape Letters”(1942)というのですけれども、この本は日本語にも訳されていますが、要するに、悪魔が自分の子分たちに指導している手紙を、C・S・ルイスが想像しながら書いたのですが、誠にそういうものだろうなぁと思います。
そこにこういう言葉があります。親分が子分を指導しているんだと思って聞いてください。

当面我々の存在を隠しておこうではないか。現代人の想像力では、われわれはマンガチックに描くことがせいぜいだ。彼らは勝手にこの世界のいのちのエネルギーと理解していれば、こんなに好都合なことはない。人間どもは勝手に精神分析をして、自分たちの行動パターンを、性欲のメカニズムや人間本来の欲望のメカニズムで分析するがよい。
そうやって、人間どもを眠らせているうちに霊的なものをすべて吸い取ってしまえ。人生楽しく成功しているのが幸いだ、という気分に浸らせておけ。そうしているうちに、われわれの敵(***すなわち神のことですねと説明)に対する恐れなど、人間から吸い取ってしまうことができる。(――朗読はここまで)

文学の世界、心理学の世界に悪魔は登場しません。
あらゆる意味で、私たちの生い立ちや私たちの傾向性、あるいは人間はそもそもそういうものだ、という風に描かれていきます。
悪魔という存在は、もしかしたらキリスト教会に来なければ、あるいは聖書を開かなければ、私たちはそうそう感じるものではないのかもしれない。
「成功の喜びに人間を十分に浸しておけ。浸しているうちに、神に対する恐れなど簡単に吸い取ってしまうことができるぞ」と、悪魔が子分に指導している文章――それほどサタンはその存在を隠します。

でも、先ほどのヤコブの手紙を見たらわかりますように、私たちの内側に欲があり、その欲を引きずり出すかのように、悪魔は私たちを悪の世界へといざなう。
そこでイエスさまは、「私たちを試みに会わせないでください。誘惑に会わせないでください。悪から、悪しき者から、悪魔の力からお救いください」と祈っておられます。

マタイの福音書では、この6章の少し前に(***4章)イエスさまご自身が公の生涯、公の働きを始める前に、荒野でサタンの誘惑と闘っておられる姿が書いてあります。
四十日断食した後、悪魔はイエスに現れます。そして何も食べていないイエスに向かって、
「あなたが神の子であるならば、あなたが神の子だと言うのであるならば、その石をパンに変えてみろ」
勿論、ささやきの中心は「あなたが神の子なら」にかかります。

私たちで言うならば、もしあなたが神の愛を知っているなら、もし神があなたを愛しておられるなら、もし神が愛の神であり、力ある神であるなら、どうしてこんなことが起こるのか、どうしてこんな病に悩まされるのか、どうしてこんな病は癒されないのか、どうして問題が解決しないのか、おまえは本当に信仰者なのか、いや、神は本当におまえを救う力があるのか――悪魔の言葉がいかようにも入ってくる。

荒野の試練の中で、次に悪魔は、イエスを神殿のてっぺんの端に立たせて挑戦します。
「ここから飛び降りてみろ。おまえが神の子なら、神は天使に命じておまえを救われるに違いない」と、妙に挑戦じみて、サタンはささやいて来ます。
私たちにしてみればこういうことでしょう。
「大丈夫だ。おまえが神を信じているなら乱暴なことをしても大丈夫だ。それでも信仰は保たれる。大丈夫」と、どこからともなく声がして来て、それがいつの間にか、神の声に聞こえてしまいます。
山の頂に連れて行って、悪魔はイエスをいざないます。
「この世界を見てみろ。この世界は全部私のものだ(本当はそうじゃないんですけれどもと説明する藤本牧師)。もし私を拝むならば、それで世界はおまえのものになる」
私たちにしてみると――
「お前の信念など犠牲にしてしまえ。しばらく聖書のことばは脇に退けろ。それで自分の賜物を、自分の力を存分に発揮してみるならば、必ず成功する。それで十分じゃないか」と私たちにささやきます。

ですからイエスさまは知っておられたに違いない。
悪しき者の力を、その日常的な存在を、その執拗なまでの誘惑を知っておられた。
そして私たちがその誘惑に落ちてしまうという現実も知っておられた。
ですからイエスさまは祈られました。私たちと共に――
「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。悪しき者から、誘惑の声から、私たちを救い出し、それらを遠ざけてください」と。

イエスさまは祈ってくださいます。せめて、私たちが悪魔の声と信仰の声を区別できるように。
私たちだって考えてしまいますよ――あぁ、祈って石がパンになればどんなに大きな祝福かと思いますよ。

私(藤本牧師)は、昔、浅草橋の神学校の方で教えていた時に、駅のホームからざーっと階段を下りて行くと、真正面に宝くじがありますね。真正面に。
それで買ったことがあるんですが(笑)。
ま、買った時に一応お祈りしますよね(大笑)。それはするもんですよ(笑)。
それで私はお祈りして、宝くじを三枚、買った途端に、おばさんがその窓口に吊るしてあったお守りにその宝くじをこすって(大笑)「当たりますように」と出したんです。――おばさん、それは違うって(大笑)もうそれやっただけで、もう僕の考えていたことは全部おじゃん(大笑)です。
ものの見事におじゃんなのですが、皆さんもそういう体験あると思うんです。そうでしょう?
宝くじを買って、一応聖書の間に挟んでみたとか(大笑)。
私は別にそのいろんなやり方を皆さんに紹介しているわけじゃないんですけれども、おそらくやっているだろうなぁと、考えられることを想像して言っているんですね。
私は別に宝くじを買うことが悪いと、クリスチャンは宝くじを買うべきでないと、そういうことを言っているんじゃないんです。
どうぞ(大笑)。そして当たったら、十分の一を寄付しなさいと(大笑)。ま、推奨しているわけでもないんですが……。

ただね、祈りによって、石がパンになるんだったら、それを神の栄光と呼んでいいものか、ですよ。
紙切れ一枚、しかも300円で買った紙がですよ、7億円のパンになるんだったら、それはサタンはいっくらでもささやきますよ、「買え」と。
そして言うでしょうね――「神に全能の力があり、そしてあなたの意志を神が受け取れるんだったら、神はそれを当ててくださる」

サタンはいくらでもささやくんだよ、ということを知っているか、知っていないかの方が、宝くじを買うか買わないよりもはるかに大切です。
それに自分にそういう声の区別ができないと思うんだったら、買わない方がいいですよ。
なぜなら買うたびに、私たちはどこかで、「石がパンになれ、石がパンになれ」と言っているのと何ら変わりがないからです。

たとえ大きな冒険をしても、ま、冒険はしますよね。お仕事で何かを立ち上げるというときも、例えば独立するときも大きな冒険をしますよね。
でも本当に無理な冒険であって、でも最終的に神さまが天の使いを送って支えてくださる、きっとそれが神の愛のしるしだと思っているとしたならば、私(藤本牧師)は信仰というものはいつも冒険するものだと思っています。
いつも信仰というのは冒険するものです。守りに入ったらそれは必ずしも信仰とは言えない。

でもその冒険する信仰心と、「神は飛び降りても助けてくださる」と言うサタンのささやきと、どういう風に区別するのかというのは、よっぽど祈ってよっぽど慎重に、よっぽど聖書のみことばに耳を傾けながらしない限りは、それは単なる幼い冒険にしか過ぎないです。
この世界を欲しいままにできたら、いや、せめて自分の人生を欲しいままにできたら――サタンはそういうことを私たちに言っているんですね。
「せめてこの人生、自分の小さな人生に関わることを欲しいままにできたら、おまえはさらに神に感謝するだろう。さぁ、少しは自分の欲に、その欲しいままという欲に、身をゆだねてみたらどうか」――という風にサタンは私たちにささやくでしょうね。
主は祈ってくださいました――私たちが試みの声を聞きわけ、罪へと引きずり込む悪しき者の力から救い出されるように、です。

カルロス・ディラというスペインの修道士がいます。
彼が非常に興味深い本を書いているんですけれども、その中で、悪魔に関して彼がこんなことを書いています。
インドの宣教師だったんですけれども、彼はある日、村の道を歩いていたら奇妙な光景に出会うんですね。
一瞬辺りがし〜んと静まり返った雰囲気を感じた。
ふと見ますと、道からすぐそばの所で、コブラが頭を上げて、木の枝にとまっている小鳥を狙っている。
ゆっくりと睨みを効かせて、そして小鳥はコブラを見ている。でも動けないんですね。
カルロスは大声で叫びながら、腕をぐるぐる回して、そして走って行った。
その瞬間、睨まれて動けなくなった小鳥がふっと我に返って、枝から飛び立っていった。

カルロスは自分の人生を振り返ってみて、そのように悪魔に目をつけられて、動けなくなって、飲み込まれそうになっている愚かな自分を、罪深い自分を思い起こすと。
だから祈りなさい――「試みに会わせず、悪しき者から救い出してください」と。
「悪魔に麦のように振るわれたら(***ルカ22:31)、一たまりもなく食われてしまう私たちを、誘惑から遠ざけてください。その引き込む力から救い出してください」と。

3)イエスさまは荒野で悪魔の誘惑に会われた時に、どのように打ち勝たれたのか、私たちは良く知っています。

イエスさまは淡々と、みことばを引用されました(***マタイ4章)。
「人はパンだけで生きるのではない。人はパンのみにて生くるにあらず、神の口から出るひとつひとつのことばによる」(***申命記8:3)
イエスさまはみことばで一瞬にして、その誘惑を断ち切られました。
「飛び降りてみろ。天使があなたを支えるから試してみろ」というその言葉に対して、
イエスさまは「あなたの主である神を試みてはならない」(***申命記6:16)という旧約聖書のことばを引用して打ち勝っておられます。
3番目(のサタンの誘惑の言葉)の「私を拝め。そうすればこの世界をあなたのものにして上げよう」――「下がれサタン。『神である主のみ礼拝せよ』(***申命記6:13)と聖書に書いてある」

ちょっとエペソの手紙の6章を見て終わりにしたいと思いますが、ここにこの短〜い聖書のことばがどんな役割を果たすのか、わかると思うんです。
エペソの手紙の6章の10〜17節を交読したいと思います。

<エペソ6:10〜17>
 10終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
13ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
14では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
15足には平和の福音の備えをはきなさい。
16これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

16節に、「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取り、それによって悪い者が放つ火矢をみな消しなさい」
そして17節に「救いのかぶとをかぶり」というのは、心に自分が信仰者であることをしかと受け留め――そしてその次です――「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」
「受け取りなさい」ということは、御霊が神のことばをあなたに与える、それを受け取りなさい。
あなたの戦いは血肉に対するものではない。悪魔に対するものだ。
13節には、「邪悪な日に際して対抗できるように」しておきなさい。

ここに出て来る「剣」(17節)ということば、ギリシャ語でマカイラです。マカイラというのは、ローマの軍隊に、世界に対する勝利を与えたと言われる剣です。
これは他の聖書の箇所にも出て来ますが、「両刃の剣」ってありますでしょう?(***黙示録1:16、2:12、へブル4:12)
両刃の剣って言うのは、日本の包丁のように研いであるのが片面だけでなく、両面、両側です。両サイドです。
剣としてはあの「グラディエーター」(***古代ローマの剣闘士・このタイトルの映画もあり)が使うような大きな大きな剣ではないですね。
そうではなくして、日本刀のような短めの剣です。
ローマの軍隊は、このマカイラで世界を征服したと言われています。
それは接近戦で互いに大きな鎧を着ている中、動きが遅くて鎧を打ち砕くような大きな剣を振り回すよりも、短い剣で鎧と鎧の間を一突きした方がよっぽど強い。

私たちは長〜い聖書の箇所を暗唱する必要はないです。必要ないと言ってはおかしいですが(ご自分で笑って)、それは長〜い所を暗唱できた方がいいと思います。だけどそういう頭を持ってないですね(笑)。
だけど「短い剣を聖霊は与える」って言っているわけですから、その剣をどれくらい出せるか、「信仰の大盾で火矢を断ち切り」、そして短いみことばの剣で、イエスさまのように、「人はパンのみにて生きるにあらず。人は主の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と言えるかどうかですね。

私が尊敬していたアメリカの先生からこんな証しを聞いたことがあります。
その先生は大学に呼ばれて、ま、特別講義に呼ばれて、そしてゲストハウスに泊まることになった。
で、夕方から雨になって、食事を終えて、ゲストハウスをぐるりと見渡してみたら、この大きな――ビクトリア風の大きな屋敷というのは、皆さんがホラー映画を見ると出て来るような屋敷ですよ――そこに自分一人、寒くて濡れて、大きな屋敷にたった一人で、何とも薄気味悪い屋敷に背筋が寒くなった。彼は牧師先生ですね。
彼は自分の生涯で、こんな薄気味悪い空間に、自分の身を寄せたことはなかった。
で、部屋を歩き回りいろいろこう調べてみても、どんなに努力してもその雰囲気が取れない。
彼が言うんですね。「部屋を歩き回りながら、自分はびっくりした。それは自分の内側から沢山のみことばが次々に出て来た。そして次々に出て来るうちに、いつの間にか家に明るさが戻った」と。

私たち、よそに泊まって、あるいは私たち病院に寝て、あるいは自分の人生のいろいろな瞬間、どれほど薄気味悪い空間に自分がいるのかと思うことが多々ありますね。
そして私たちは簡単にやられてしまいます。
難しい相談を聞かされただけで、自分の人生の宿題をボ〜ンと置かれただけで、半日ぐらい自分自身がやられてしまうという体験を多々いたします。

そういう時にどう祈ったらよいかわからずに、そうして「主の祈り」を祈る時に必ず覚えていてください。
「主の祈り」の最後の方に「私たちを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。悪しき者より救い出したまえ」というフレーズが入っていることを。
そしてできるだけ多くの、短い、力強い神のことばが、きっと聖霊によって、皆さんの心に次から次へと与えられます――その瞬間に私の心はきっと明るさを取り戻すことができると。

私たちは悲しみやまた嫌な雰囲気の中で、思わずすることは自分の家族の中で話したり、あるいは電話をすることでしょう――それも大切な一つの方法です。
でも、もし自分自身がサタンと闘っているのかと思うような時があれば、それは血肉に対するものではないですから、所詮私たちにはそういう力はない、ということを覚えておくことです。
でも聖霊が必ず短い剣を、鋭い両刃の剣を、私たちに与えてくださり、私たちはその火矢を断つことができるということを覚えていたいと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、御子イエス・キリストが教えてくださった祈りを、私たちは共に学んでいます。教えてくださったというよりは、イエスご自身が祈っておられる祈りを、「さぁ、来てわたしと一緒に祈りなさい」と教えてくださった祈りです。

ですから私たちはここで祈る時に、必ずあなたもまた私の傍らに立って祈ってくださることを信じています。
のみならず、悪と戦う「神の(すべての)武具を身に着けなさい」(エペソ6:11)と、「信仰の大盾を取って、悪魔が放つ火矢を」断ち切り(同6:16)、「聖霊が与える(剣である)みことば(同6:17)をもって戦って勝ちなさいと教えてくださいました。

どうかそのような時に、あぁ、次から次に自分の内側から、短いみことばが湧き上がって来るほど、日頃から聖書に親しんでいることができるように、短いみことばを覚えることを私たちに教えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2015.09.28 - 18:05

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