☆聖書箇所 T歴代誌29:10〜14
10ダビデは全集団の目の前で【主】をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、【主】よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。 11【主】よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。【主】よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。 12富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。 13今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。 14まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。
☆説教 主の祈り(9)国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
主の祈りの最後の部分、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」――この祈りの言葉で、聖餐の恵みに与かることができることを感謝いたします。
実は「主の祈り」というのは、イエスさまが弟子たちに教えられた祈りで、それはマタイの福音書とルカの福音書に出てまいりますが、この二つの福音書とも、この最後の「国と力と栄えとは……」という文言はございません。 聖書の写本、千いくつありますけれども、その一番古い写本にもこの最後の部分はございません。 ですから、この「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」というのは、イエスさまご自身が教えたものではないと言われています。 初代の教会が「主の祈り」をみんなで祈る時に、付け加えたものだと言われています。
実際、新約聖書が記されてごく間もなく、1世紀の終わりに、「十二使徒の教訓」(ディダケ―)という文書があります。 これは古代の教会では非常に有名な文書ですが、このディダケ―の中に、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」で、「主の祈り」が閉じられています。 このディダケ―の中に、キリスト者は一日三回この祈りをするように、という教えもございます。 ですから1世紀で、すでに毎日クリスチャンは、礼拝、あるいは様々な集会で、自分の日常で、「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」と「主の祈り」全文を祈っていたということがわかります。
どうしてこの最後の部分を付け加えたのだろうか? それはおそらく、「なればなり」というのは――「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」というのは――その上の部分にあることの理由づけです。 英語で言うとbecause。すべて祈ったことの理由づけとして、「国と力と栄えとは、限りなくあなたのものだからです」という。 恐らくひとつ前の文章が、「悪しき者より、悪より救い出したまえ」――先週学びましたね――それができるのは、自分の力ではない、神さま、あなただけです。私には到底サタンに立ち向かう力はありません。 しかし、「国と力と栄えとはすべてあなたのものなのですから」、どうかあなたの力を発揮していただき、私を救い出してください、とこうかかるんだろうと思います。
でも振り返って考えてみますと、「主の祈り」全体に、一番最後の部分がかかっているということがよくわかります。 御名を崇めさせてください。御国を来らせてください。みこころをなさせてください。日曜の糧を与えてください。負い目をゆるしてください。悪より救い出してください――この祈りの全部の内容、一つ一つの内容に――「というのは」最後、「国と力と栄えとは、限りなくあなたのものだからですから」私にみこころを行う力を与えてください、私の日用の糧を備えてください、という風に、全部そこにかかって行くのだろうと思います。
ひと言で言いますと、私たちが主に祈る時に、これだけ多くの問題課題、不安、悩みをいっぱい持っていて、なおかつ自分の限界、自分の罪深さ、自分の弱さ、自分の愚かさを山のように背負っている私たちが、あなたの前で祈る時に、ひたすらあなたの国と、あなたの力と、あなたの栄えに、依り頼む以外にありません。それらすべてはあなたのものなのですから――こう言わざるを得ないんだろうと思います。
1)さて、今朝見ていただいたのは、いま申し上げました最後の部分を全部担っているT歴代の29章の11節。
で、ディダケ―が引用してくっつけているのは、あるいは初代の教会が、引き込んで来たのはこの言葉だと言われています。 T歴代の29章の11節をご一緒に読んでみたいと思います。
11【主】よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。【主】よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。
この言葉を引用してきたと言われています。 さて、こう祈っているのはダビデです。 そして、ま、歴代誌の最後29章ですから、すぐにわかりますが、ダビデは自分の生涯の最後の仕事を今しようとしています。 彼の生涯の最後の仕事は、神殿を建てる仕事ではありませんでした。神殿を建てる準備をすることでした。 神殿を建てるために、彼は民から捧げものを募ります。 そして民は自ら進んで多くの捧げものをいたしました。 6節からちょっと見ていただきたいと思いますが、6節、7節、8節に沢山の捧げものが捧げられ、そして9節――
9こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで【主】にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。
そして10節に、ダビデは全集団の目の前で【主】をほめたたえて、今の祈り(11節)をなすわけです。 いったいどういうことなのだろうか? 膨大な捧げものを前にして、それを捧げた民を前にして、ダビデは神さまをほめたたえて祈りました。 「私たちがこうやって捧げることができたのは、すべてあなたの恵みです。私たちがいただいたものにすぎません」 14節を見てください――
14まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。
ものすごい量の捧げものですね。一度捧げられた捧げものをTo兄が調べたことがありました。To兄はわざわざ国の機関に電話をされたのか、調べて銀や金、ま、金は5千タラント一万ダリク(6節)分ですけれども。それがいったい現代の通貨に換算すると(笑)どれぐらいになるのかというのを調べられたのを、私(藤本牧師)は記憶しているんですが、それは何千億、兆という単位の捧げものがなされた。 私たちであるならば、正直、よく高津教会はここまで捧げることができたねと、ほんとに何て言うんですかねぇ、教会の力に感動しますね。 ダビデが王であるならば、よくここまで神さまのために真実に捧げる信仰を持っていた民に喜びを抱き、そして国がここまで成長したことを心から喜ぶんだろうと思います。
2)しかし、ダビデはその心の中の喜びを越えて、みんなの前で、「皆さん、この捧げる気持ちを私たちの心に刻もうではありませんか」と。
その「捧げる気持ち」というのを、ダビデは「全き心」(9節)という言葉で表現しているんですけれども、 私たちはだれにも強制されずに、妙な下心を持たずに――基本的に与えられたものはすべて神さまから来ている。だからこの国も、私たちのこの捧げものも、すべてあなたのものです。威光も尊厳も国も力も全部あなたのものなのですから――と言う「全き心」を私たちの内に刻もうではないかと。 ちょっと18節を見ていただけませんでしょうか?18節にこうあります。
18私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。(というのは、自分の心を守る力を与えてください。私たち皆に、自分の心を守る力を与えてください。そして彼らの心をしっかりとあなたに向けることができますように、と説明)。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。
私たちは「主の祈り」を祈りながら、御国を来たらせたまえ、御心が天になるごとくに、地にもなさせたまえ、日用の糧を今日も与えたまえ――日用の糧を与えてくださるのは神さまだと、罪をゆるしてくださるのは神さまだと、意識せずに「主の祈り」を多分祈っているんだろうと思います。 でも最後にこのダビデの一句を引用することによって、日用の糧はひたすらあなたによって与えられる。罪を赦すことができるのはキリストの十字架だけだと(改めて思い知らされる)。 みこころをなす力はない。しかしもし私たちに神の力が与えられるならば、神は私たちを通してみこころをこの世界になしてくださる、ということをしっかりと意識しながら祈るときに、私たちは「全き心」をもって、主に祈ることができる。
ダビデは神殿建設という大事業をする前に、しっかりと献金を集めることができました。備えをすることができました。 そしてこの備えをもって神殿を建て上げようとしていく時に、民に祈る心をもう一度しっかりと刻みます。 準備ができたということ以上に、この心が大事なんだ。この心が。――国と力と栄えとは、限りなくあなたのものなんだから、私たちはこのようにして準備をすることができた。ああ、自ら進んで、自分が喜んで捧げることのできるベストをもって、あなたにお仕えすることができて良かった、という心を大切にしようではないかと、ダビデは皆の前で大声で祈りました。 私たちの心をしっかりとあなたに向けさせてください。私たちの心を守ってください(18節)――私たちは「主の祈り」を祈る度に、あるいは数々の祈りを祈る度に、最後にこの祈りの心で締めくくります。
「天の父なる神さま」と、こう祈りますが、祈りの冒頭の呼びかけは様々です。 冒頭を長くしようと思えばいくらでも長くできますね(笑)。 私たちの祈りの中で、多くの先生方は、「私たちの救い主、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせて下さった父なる神さま」と、こう始める方もいらっしゃいますね(笑)。 「この天地を創造し、日々私たちの重荷を担ってくださる天の父なる神さま」と祈ることもできますよね。
私たちは常套文句で自分の祈りを始めますけれども、自分の祈る内容以上に、自分が誰に向けて祈っているのか、ということを大切にするならば、「天の父なる神さま」と言った後で、しばらく沈黙してもいい。 つまり自分が誰に向かって祈っているのだろうかということは、自分が抱えて祈る内容よりもはるかに大切。
3)そしてもし最後に自分の祈りを締めくくるならば、最後に言うところの「アーメン」の意味合いがいったい何であるのかを認識することは、さらに重要なのかもしれないという話をもって終わりにします。
「主の祈り」は「天の父よ」で始まりますね。「天にましますわれらの父よ」。 そして私たちは、一番最初、二番目ですかねぇ、「主の祈り」の学びの中で、「父よ」という言葉の大切さを学びました。 私(藤本牧師)は、その説教では引用しませんでしたけれども、以前「使徒信条の学び」をしたときに、皆さんに詩を紹介しました。 クリスチャンの詩人で、八木重吉(***1898〜1927)という人物の詩で、自分に与えられた一番最初の女の子どもを桃子という名前で付けましたね。 「桃子よ」と題された詩がありまして、
もも子よ おまへがぐづってしかたないとき わたしはおまへに げんこつをくれる だが 桃子 お父さんの命が要るときがあったら いつでもおまへにあげる 『八木重吉詩集 素朴な琴』〈岩崎書店〉
それだけの詩です――おまえがくずってしかたない時、父さんはおまえに拳骨をくれる。でももし、父さんの命が要るときがあるなら、父さんは喜んでおまえにそれをあげるよ。
「天の父なる神よ」と祈る時に、その神さまは私たちに最善のものが何かを知っておられるので、もし私たちが自分の最善ばかりを求めてぐずってしかたがないとき、試練というげんこつを与えてくださる厳しさを持っておられる。 しかし、もし神のいのちを必要とするような時があるとすれば、喜んでそのいのちを私たちに与えてくださる――そうして御子イエス・キリストを十字架に送り、私たちの罪をゆるし、私たちのいのちの源となってくださった「父よ」と、私たちは祈るんです。 「天の父よ」と祈る時に、その父なる神の、最善を知っておられる強さ、確かさ、そしていのちを与えてくださる程の愛に信頼して、「天にましますわれらの父よ」と祈りますよね。
そして祈りの最後は「アーメン」です。 アーメンはへブル語です。ギリシャ語でもアーメンです。日本語でも、英語でも、ドイツ語でも、韓国語でも、アーメンはアーメンです。 (***その意味は、まことにそうです、真実に、確かに、そのようになりますように、などですT・Y)。 それ以外の言葉で用いる場合もあります。
新約聖書で、新改訳聖書が「まことに、まことに、あなたに告げます」とイエスさまが仰るときには、「アーメン、アーメン、レゴ ヒューミン」という言葉です。 (***ヨハネの福音書に特徴的に二十数回も、イエスさまはこの言葉を語られていました。しかし、共観福音書の方では、あまり多くなく、アーメンも二度繰り返されていないようですが。T・Y) 「アーメン、アーメン」というのは、「まことに、まことに、あなたに告げます」。 「わたしの言うことは真実で確かだから、よ〜く聞きなさい」と言うのが、「まことに、まことに、あなたに告げます」。
そのアーメンを私たちが使う時に――「私がいま祈ったことは真実です。真剣です。そしてあなたが聞いておられることは確かです」――そのことを信じて、つまりすべての信仰の言葉をこのアーメンに凝縮させて、私たちは最後にアーメンと言うのですね。
先月のフェローシップで、Y姉が証しをされました。 私(藤本牧師)はその日曜日、他の教会の奉仕で、夜になって圭子に日曜日どうだった?って電話した時に、その話を教えてもらいました。
Y兄が病床で洗礼を受けて天国に召されたことを、奥さまが証しをされたわけですけれども、末期がんの苦しみに耐えて耐えておられる時ですね。 私たち夫婦が最初にお訪ねした時に、皆さんに話したと思うんですけれども、腹水を大量に抜いて、非常な痛みの中にあって、調子が悪くて機嫌が悪いと。 「だから先生たち今日はどうかと思います」と言うのが、奥さまの思いで、確かに痛いときに入って行ってもイエスさまの話をするのは難しいかなと。 ま、奥さまに病室からちょっと出ていただいて、「大丈夫です。大丈夫です。私たち初めてお会いするわけですから、きっとご主人はそれなりに対応してくださいますので」――ま、その時には、深くいろんなことをお祈りすることはできませんでした。
3回目に行きましたときに、一緒にお祈りをしたときの話を私(藤本牧師)は皆さんにしました。 私が一行祈る度に、「よろしくお願いします」「お願いします」と何度も言われるのですね。 その「よろしくお願いします」という声の大きさを聞いていますと、あぁ、この方まだまだいけるな(大笑)と思うくらい、こっちが周りを気にして静かに祈っているのに、本人は大きな声で「よろしくお願いします」(笑)とは、この方はどういう方なんだろうと、ほんとに神さまにすがって「よろしくお願いします」と仰っておられました。 これまで頑として教会にいらっしゃることを拒んでおられた方が、最後に真実に主に依り頼んでいる姿を見たような思いでした。 姉妹がフェローシップで証しをされたのは、その晩ご主人が、携帯電話で奥さまに「アーメンって言っちゃったよ」と、「お祈りの最後でアーメンって言っちゃったよ」と照れるように話された、という話を奥さまが話されたのですね。 その証しのされた後にN兄が、奥さまの証しをフォローするかのように、ご主人の心を代弁してフェローシップで仰ってくださったという報告を、私(藤本牧師)は圭子から聞いたんですね。
その話はですね、自分を頼りにしっかりとこの世界で生きて来たような男性が、70にしてそう簡単に、例えば奥さまに対しても「ありがとう」とは言わないのだと。 そうそう簡単に神さまの憐れみに対しても「アーメン」とは言わないものだと。 「アーメン」と言ったということは、しかもそう言った自分を奥さまに電話されたということは、それはご主人の奥様に対する感謝と、それから真実な神さまに対する信仰のすべてがその「アーメン」いう言葉の中に入っているんだという風にN兄がフォローしてくださったという話でした。 先週の祈祷会でも、H兄がそのことを報告してくださいました。
私(藤本牧師)は明らかに一番喜んでいるのは、天国のご主人だろうと思います。 「ありがとう、Nさん。一度もお会いしたことはありませんが、私(Y兄)の心を代弁してくださって、ありがとうございます」と、天国のご主人が仰っていますよね。
覚えておいてほしいのは、人生には特別なアーメンというものがあるだろうと思います。特別なやつがある。 しかし覚えておかなかればいけないことがありますよね。 それは自分の祈りにアーメンと言おうが、人の祈りにアーメンと合わせようが、いいですか――自分の祈りにアーメンという時も、人の祈りにアーメンと合わせる時も、神さまは等しくそのアーメンを受け取ってくださる(ということ)。
なかなか公の集会で自分はお祈りしたことがない。礼拝でお祈りしたこともないし、そういう当番にも当たらないし、祈祷会でもなかなか自分はお祈りできないし――いいじゃないですか。それで。私(藤本牧師)はいいと思っています。 人のお祈りにアーメンと合わせることのできるならば、神さまはあなたの祈りを等しく受け取ってくださいますよ――それを神さまの憐れみというのです。
夫婦そろってクリスチャンの場合もあるんですが、なかなかそうはいかない場合もありますね。 そうすると、食卓の祈り、やがて家族ができて食卓を囲んで、そしておそらくいつも祈っているのは、どちらか片方なのかもしれません。 もし私がカウンセリングでもさせていただいて、そういう時にお願いすることは、「片方でもいいんですよ。でも最後のアーメンだけは一緒に言ってくださいません?」と。もし「アーメン」と言えるなら、その祈りはその瞬間に二倍の力を発揮する。アーメンと言えば。
イエスさまは「いい加減な気持ちでわたしはこのことを言ってないよ」という時に、「アーメン、アーメン、レゴ、ヒューメン」と仰った。 「これから言うことはいい加減には言っていないよ。まことに、まことに、あなたに告げます」ですよね。 ですから人の祈りに合わせる時も、自分は真実にこの祈りに合わせているんだという思いがあれば、(***祈りに成熟しない私たちのために、心一杯の憐れみを少し溜めて、思い切って神にとりなすように語る藤本牧師)それが別にあなたの言葉でなくてもいい。 人の言葉に合わせるだけでも、その祈りも、あなたの心の中にある様々な祈りも、全部わたしは受け取ろう、という思いが神さまにある。
だから私たちは「アーメン」と言って祈りを閉じるんですね。 あなたこそが私を力づけてくださいます。 私が働くのも、食べるのも、学ぶのも、捧げるのも、そして私は誠に愚かで、「主の祈り」を何も考えずにさらさらっと言うほど、愚かな者です。 しかし時には真実な「アーメン」をあなたに捧げ、真実な人の祈りに自分を抱き合わせ、私の不確かな信仰をあの方の信仰に合わせるかのように祈りますので、どうか私の祈りを受け取ってください――と覚えつつ「アーメン」と言おうではありませんか。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、私たちの人生で数限りない問題がありますが、しかしもし、「国と力と栄えとが全てあなたのものであり」(***マタイ6:13)、ダビデが言いましたように、「王国もあなたのものです」(***T歴代29:11)と言うのであれば、この国も、この社会も、私たちの職場も、学校も、全部あなたのものです。だとしたら、その時その時に起こる様々な問題は、すべてあなたの支配下にありますと、私たちもダビデのように告白することができるように。
そしてもし私たちが何かすることができるのであれば、それはすべてあなたからいただいた力に過ぎませんと、本当にあなたに感謝することができるように、私たちに信仰を与えてください。
これから(聖餐式で)救いの杯を、実際にあるいは心の中で、受け取ろうとしている私たちを祝福してください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖餐式――以降は聖日説教に掲載
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