名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索

::: 説  教 :::


773 4865 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   10/18 戸塚神学生:隣人(となりびと)になるということ ルカ10:25〜37

☆聖書箇所       ルカ10:25〜37

 25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
26イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人(となり人)をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
28イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
30イエスは答えて言われた。
  「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
31たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
34近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
35次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
37彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

☆戸塚神学生の説教    隣人(となりびと)になるということ

まだ神学院で「説教学」というのを勉強していないので(笑)、素人の自己流のお話の段階なのですけれども、どうかお忍びください(笑)、今回も、よろしくお願いいたします。
イエスさまが語られたたとえ話の中から、「よきサマリヤ人の話」をいまT兄が朗読してくださいました。
今日はここから「隣人(となりびと)になること」と題して、恵みを分かち合いたいと思います。

25年ほど前ですかね、それまで高津教会も「伝道会」が夜開かれておりまして、溝の口の駅前で、その前に「路傍伝道」というのをやっておりました。
毎週日曜日の夜7時からの伝道会にお誘いするんですね。その案内を6時10分から40分の30分間、溝の口の駅前でご案内するわけです。チラシを配布したり、それからマイクで案内したりする、そういう時間なんですが。
溝の口駅前が再開発される前で、ちょうど今の溝の口交番のあの辺りでしょうかねぇ、あの辺りが、私たちの路傍伝道の場所でした。
で、あのころ藤本栄造先生と5〜6名の有志、そして神学生2〜3名でいつもここから歩いて行って、あの場所で路傍伝道したことを覚えております。

ほとんどの人は見向きもしないで、通り過ぎて行くわけですね。
私たちが一生懸命チラシを配っているのに、もう何の反応もない状況。
何かもう空しさを感じるんですね。
この一枚一枚が、もし一万円札だったら(大笑)、きっと並ぶ行列ができるんじゃないかと、もうその位、もうこれが一万円札であったらと思うわけですが、実は一万円札よりもすばらしいものを、私たちは配っているわけですよ。
イエスさまの救いをご案内する伝道会の案内、永遠のいのちを神さまからいただく恵みを紹介する伝道会の案内を配っているわけですから、私たちも堂々と配ればいいんですけれど、なんだかなんか「受け取っていただけますか?」っていう感じで(遠慮がちに)配っているわけですね。

でも今は、やっていません。もう効果がないから。
そしたらB兄が、「あきらめちゃいけませんよ」と(笑)。
「韓国ではチラシ配りなんて、やっているんですか」と聞いたら、もうそんなのやっていないと。
もう人が人を誘う。口コミでどんどん広まって行って、そして教会に声をかけて誘っていくんだ――さすが霊的先進国ですね。もうほんとに人が人を連れてくるということが当たり前になっているような、そういうお国です。

Bさんは今でもチラシ配布しているんですよね、それは教会の案内じゃない。
韓国語教室の案内なんですけれども(大笑)、でももう6年ですよ。
6年間、ペデストリアンデッキのあの上でチラシ配布をしているわけですよ。
そしてちょっとでも反応があったらば、「関心ありますか?」「どうか、一回韓国語を勉強してみませんか?」っていう風に案内をしているわけですね。
そしてその中から実際に教室に来る人がいるって言うのです。ああ、うらやましいなぁと思います。
どういう秘訣、どういう方法でそういう風に人を誘うんでしょうか?
ま、B兄の魅力だと思うんですけれども、上手な日本語で、しかも日本語の演歌も口ずさみながら(大笑)、そうやって、いわゆる路傍伝道をしているわけですね。

それでもまだあの頃は、反応がありました。今よりも少し反応があったと思うんですけれども、そういう無関心な人たちがいる中で、配っている最中に道を尋ねる人がいました。
「イトーヨーカドーはどちらですか?」「こちらです」「ちょっと分からないので一緒について来てくれませんか」と言うので、ついて行ったこともありますし、
「昔、教会に行っていたんだよ〜」っていろいろ話をしてくださる方もいました。
それからそこにバスの発着所がありまして、そこにバスが来るわけですね。そこにいつも交通整理のおじさんがいるわけですけれども、そのおじさんと顔見知りになってしまって、そのおじさんとよく挨拶をしながら、「寒いのによくがんばっているねぇ」と声をかけてくださいました。
お酒に酔った方も、「がんばれよ〜」と言って私たちを励ましてくださったり、そういうような感じで私たちと関わりを持っている。

一生懸命こちらはチラシを配って、教会に来てほしいなぁという風に思っているんですが、それとは違うところにそのような関わりができてくるんですね。
私(戸塚兄)は思いました。人はいわゆるキリスト教の教えを求めているんじゃないんだろうか?そうじゃないんじゃないだろうか?
キリスト教の教えではなくて、何かイエスさまの持つ、愛のような、ぬくもりみたいな、あるいは出会い、関わり、温かい心、そういうようなものをまず求めているのではないだろうか?
だから私たちのチラシには見向きもしない人が、そうやって声をかけてくださるわけですね。
愛というものを何か求めて、関わりを何か求めて、さらに言うならば、隣り人になってほしいという風に、私たちに対して思っているんじゃないでしょうか――そんな感じがするのです。

この「隣人になる」ということはいったい何だろうか?
もちろん声をかけたり、それから触れあいを持ったり、関わりを持ったりするっていうこともそうなんですけれども、先ずは相手の立場に立つというところから始まるのではないでしょうか?
そして相手の立場に立ったら、どうするのでしょうか?
それはある意味では、その人のためにサービスすることではないかと思うんです。
「サービス」という言葉は、今は何か商品の売り買いに関係のある言葉になってしまっていますけれども、本来の意味は「礼拝」って意味ですね。
キャンドル・サービス――キャンドルを灯しながら礼拝をする。サービス――神さまに礼拝を捧げる。
「捧げる」というところから、サービスという意味は「奉仕をする」。
「奉仕をする」という意味は、私たちが「ちょっぴり損をして、その人のために何かをしてあげる」――それが「隣人になる」ということの基本ではないかと思うんです。
ちょっぴり自分が損をしてサービスに生きること――それが隣り人になるということだと思うんです。

そこで今日のイエスさまのたとえ話、「よきサマリヤ人のたとえ話」をイエスさまが話された経緯から見て行きたいと思います。
先ず(ルカ)10章の25節をご覧ください。

25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

ひとりの律法の専門家の質問から、このたとえ話は始まっています。
イエスさまに向かって、「永遠のいのちを得るために何をしたらよいか?」(25節)――そういう律法の専門家の質問に、イエスさまは、
「心を尽くして神さまを愛し、隣人をも、となりびとをも、自分自身のように愛することだ。(***とあなたが理解しているのは正しい。だからそれを実行しなさい)」(28節)とお答えになったのですね。
律法の専門家はそのイエスさまの答えに重ねて、さらにこう尋ねました。――「私のとなり人、隣人とは誰のことですか?」(29節)
この「よきサマリヤ人のたとえ」は、この「(隣人とは)誰のことですか?」という問いに対して、イエスさまが語ったものなのですね。

(ルカ10章の)30節をご覧いただきますと――

30イエスは答えて言われた。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。……

この「エルサレムからエリコに下る道」とあります。
「エルサレムからエリコに下る道」というのは、ものすごい下り坂で28キロあるようですけれども、ちょうど田園都市線の渋谷から中央林間ぐらいの長さだと思います。だいたいですけれども。
ところがその距離がなんと標高差が1000メートルなんですね。
28キロ、標高差1000メートルの下り坂がずっと続いている――そういう道です。
しかもそこは砂漠や岩地を通る道でして、人があんまり通らない状況で、時々強盗が出没するいわゆる「強盗街道」だったんです(笑)。

そして強盗どもが、ここである人を襲ったわけですね。
「その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った」(30節)という状況なわけです。
で、この強盗どもに襲われた人が半殺し状態で横たわっているという場面なんです。

31節をご覧いただきますと――

31たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、……

「たまたま」って書いてありますが、たまたまその道を下る二人の人がいて、ひとりが祭司でもう一人はレビ人でした。
たまたま、祭司はその道を下ってきたわけです。
ところが彼(***強盗に襲われて横たわっている人)を見ると――見たわけですね――見たけれども、「反対側を通り過ぎて行った」。
32節――

32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

やはり、その倒れている人を見たんですけれども、反対側を通り過ぎて行った。
祭司もレビ人も、エルサレム神殿で神さまのご奉仕をする役目を与えられている人でした。
神さまのご奉仕を与えられている人でありながらも、反対側を通り過ぎて行ってしまいました。
関わりたくなかったのでしょうね。なぜか関わりたくなかったのか?
きっと急いでいたんだと思うんです。しかも早く家に帰りたかったのじゃないかと思います――正直なところ、私(戸塚兄)、この気持ち解らないでもない。
もし私だったら、どうするだろうか?――そう考えてみますとね、何かこの祭司やレビ人の姿が自分の姿のように思える。
よきサマリヤ人になりたいと思いながら、ああ、自分も祭司やレビ人みたいなところがあるかもしれないなぁと思うようになりました。
「神さま、憐れんでください」と、そういう風に祈らされることでございます。

ま、実際、そういうことがないかもしれませんけれども、大学の頃「キリスト教研究会」というところに私(戸塚兄)入っておりまして、若者たちがいろいろな論議をしている中で、この場所をこんな風に論じた人がいました。

「もし、身内の者が危篤になって病院から連絡があって、すぐ来てほしいと言われた。その病院に行く途中で、近所の知っている子どもが交通事故に遭うところを見たとしたらば、あなたはどうするか?(身内の)病院に行きますか?それともその子のためにすぐに救急車、警察を呼びますか?どっちにしますか。」

なかなか難しいと思うんですね――身内の者が危篤。でも目の前に、交通事故に遭っている近所の知っている子がいる――どっちだろうか?
で、学生たちはああでもない、こうでもない、いろいろ論じているわけですね。
私(戸塚兄)はあの時、「いや、身内の者が危篤だったら、そっちの方に行く」と言ったのを覚えていますけれども。
ある人がこう言いました――「その時になってみなきゃ解らないよ」(笑)
ああ、そうだなぁ。その時になってみて、神さまはどういう風な導きがあるのか、どういう風に自分は判断をするのか、確かに机上の空論でいろんなことが言えるけれども、その時になってみなきゃ解らない。

で、三人目、あるサマリヤ人が、その時が来たわけですね。その時になってみなきゃ解らない、その時が。
この三人目、33節をご覧いただきますと――

33ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

これは明らかに目的があって、「旅の途中」でした。
「旅の途中、あるサマリヤ人が、彼を見て」、やはり彼も見たんですけれども、祭司とレビ人と違うところは、反対側を通り過ぎて行かなかった。
そうじゃなくて、「かわいそうに思」ったと書いてあります。そして隣り人になったわけです。
そしてここで、5つのサービス、奉仕をしたわけです。別の言葉で言うと、5つの損をした。
損なんて思ってなかったと思うのですけれども、その人のために尽くした5つのもの――それはいったい何だったのでしょうか?

@持ち物――34節「近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし」
持ち物の中にあった、オリーブ油――これは痛み止めですね。
ぶどう酒――消毒薬でした。当時ぶどう酒がとても用いられました。
そして包帯。この人は救急用品をいつも持っていたのですね(笑)いざというときのために。
恐らく昔はそういうちょっとしたケガもするのかもしれなかったのでしょう。

A家畜――同じ34節の後半に「自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き介抱してやった」
この家畜――ろばか、ラクダだったと思うんですが、しかも自分が乗る代わりにこの人を乗せて行ったわけですね。
そしてこのサマリヤ人は歩いて行ったわけです、坂道を。石ころだらけの岩だらけの坂道を歩いて行った。
さて、上りだったのか、下りだったのか(笑)、どっちだったのかわかりません。上り坂も大変でしょう。でも、下り坂も大変です。
私(戸塚兄)は、ぎっくり腰を三回やっているんですけれども、ぎっくり腰になった時に、上る階段と下る階段、どっちが大変だったか?
上りじゃなかったです。ぎっくり腰の時には下りだったんです。下りの方がきつかったんです。上りは何とかなったんです。
もしかしたら、下り坂を、この家畜に乗せて、ゆっくりゆっくり歩いて行ったのかもしれません。

B時間――「宿屋に連れて行き介抱してやった」と34節の後半に。35節に「次の日」。
ということは、宿屋に連れて行き介抱してあげたのは、実はその日だけじゃなくて、一泊したわけですね、一緒に。
時間をこの人のためにサービスした。旅の途中ですよ。でもサービスしました。

Cお金――35節「次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
「デナリ二つ」――これは、二日分の当時の労働賃金です。今で言うと、―一日分が約六千円だそうですので――約一万二千円をこの宿屋の主人に払ったと思われます。
しかも、「もっと費用がかかったら、私が帰りに(その旅の帰りにもう一回寄って)払います」と。
ですから一万二千円じゃ済まなかったでしょう。きっともっと費用が掛かる可能性もあったに違いないと思います。

D人々からの評判です。これを犠牲にしました。
これはどういうことかと言うと、「サマリヤ人がユダヤ人を助けた」と言う人々から、当時は非難を受けたのです――「なんでユダヤ人のことを、おまえ助けるんだ?」
なぜか?それはサマリヤ人とユダヤ人はものすごく仲が悪い民族同士でした。
特にユダヤ人がサマリヤ人のことをものすごく嫌っていました。
当然その報復として、サマリヤ人もユダヤ人のことを毛嫌いしていました。
そういう中で、このサマリヤ人は人からの非難、人からの評判、そういうようなものをお構いなしで、それを犠牲にして、サービスをしたわけです。

このサマリヤ人は(ユダヤ人の倒れている人に対して)この5つのものをサービスをしたわけですね。
でもきっと損をしたなんてちっとも思っていない。「かわいそうに思った」という思いで、愛の実践をしたと思います。

で、このたとえ話が終わった後、イエスさまは律法の専門家に問い返します。36節に――
「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣り人になったと思いますか。」
そしたらば、この律法の専門家は答えました。37節――
「その人にあわれみをかけてやった人です」
で、この答えに対してイエスさまは言われました。
「あなたも行って同じようにしなさい」

29節で、「私のとなり人とはいったい誰のことですか」という、そういう定義をイエスさまに求めた律法の専門家に対して、イエスさまは、だれというような定義を言っているんじゃない。
「とにかく困っている人の隣り人になりなさい」という、愛の実践の大切さを強調されたわけです、イエスさまは。

私たちにも、「あなたも行って同じようにしなさい」とイエスさまは仰るわけですね。
今週、もしかしたらどこかで、神さまは私の隣り人になる人を備えていらっしゃるかもしれない。
だれだかわからない。でも神さまは「ちょっとこの人のことをお願いするね」と言って、誰かを私の前に置かれるかもしれない。
それはこのような、瀕死の重傷を負っているような人ではないかもしれない。
単に道を尋ねる人かもしれません。
あるいは、何か落とし物をした人かもしれません。「ハンカチ落ちましたよ」と言って、相手に渡すような小さな行為かもしれない。
もしかしたら、私たちの家族の中の一員が隣り人になるかもしれない。隣人以上の隣人ですけれども(笑)、もしかしたら、なかなか難しい隣人かもしれません。
あるいはあの厄介な人かもしれません(笑)。その人が私の隣り人として神さまが備えていてくださったのかもしれない。

私たちも今週、神さまの助けをいただきながら、よきサマリヤ人のように誰かの隣り人になりたいと思うんですね。
そして、サービスに生きる者、奉仕に生きる者、愛を実践する者になりたいと思います。

ここまで説教の準備をしたんですが、「隣人になる」ということついて、さらにとても考えさせられた1冊の本に出会ったのです。
それは本田哲郎【ほんだ てつろう、フランシスコ会、1942年(昭和17年) -】さんというカトリックの神父さんが書いた『釜ヶ崎と福音』【***2006年岩波現代文庫・副題――神は貧しく小さくされた者と共に、初版は新世社1991年「小さくされた者の側に立つ神」でしょうか?T・Y】という本なのですね。

釜ヶ崎というのは大阪の西成区にあります、日雇い労働者の町です。
「釜ヶ崎と福音」――この本田神父先生というのでしょうか、本田先生というのでしょうか、カトリックの場合解らないですが、ま、本田先生としておきます。
私は「良い子症候群」だった。
台湾で生れ、奄美大島で育ち、そして一族みんなカトリックの4代目だったそうです。
ま、カトリックですけれども、でも同じように神さまを礼拝し、聖書に触れていた人だったようですね。
小さいころから厳しくしつけられて、クリスチャンらしく、良い子でなければならないような育ち方をしていた。大人になってもそうだった。
自分の本音を押さえ、人の顔色を窺いながら、周りに合わせようと一生懸命でした。
そしていつも人からどう見られているかが気になっている、そういう存在だったわけです。
そして、この本田先生が神父になった時に、結果的に自分を抑えて自分を偽り、そして人の前でも人を偽り、そして神さまの前でも偽って自分でない自分を演じ続けていた。「良い子症候群」として。
それがとても不安になったのです。何とかして、このよい子症候群の自分から解放されたいと、本田先生はお祈りして一生懸命努力したんですけれども、全然変わらなかったわけです。
そんなある時、神父の視察訪問の割り当てがやって来て、その大阪市の西成区にある日雇い労働者のいる町、釜ヶ崎に当番として行かざるを得なくなってしまったわけです。今から30年前のことですが。
その日雇い労働者の釜ヶ崎に初めて出かけた時の心境を、この『釜ヶ崎と福音』という本の中で、このように述べているんですね。
少し長くなるかもしれませんが、ちょっと抜粋して読んでいきたいと思います。

ある時釜ヶ崎を訪ねました。最寄りの駅、大阪環状線の新今宮で降りて、地区街に入った途端、いま思うと大変恥ずかしいんですが、正直言って「恐い」というただその一言でした。ひたすら怖かった。
階段を降りて駅の下に行くと、そこにはどろどろの毛布や布団が敷きっぱなしで、カップラーメンの干からびた食い残し、あるいはワンカップ酒のからからに乾いた空き瓶、焼酎の二合瓶などがゴロゴロと転がっている。
そこに髪も爪も伸びて首筋は垢だらけの人が何人も横たわっていた。
履いている長靴はかかとがすり減っていて、穴が開いていたり、時々小指が出ていたり、そんな状態でした。
降り立った時、うっと息が詰まりました。広い通りを渡って、地区街に入ると、道の方々で、三人五人と地べたに座り込んだ人たちが酒盛りをしています。その間を縫うようにして歩いていったのです。
その時私どう思ったか、絶対に怖がっているようには見られまいということでした。
良い子症候群の特徴ですね。
しかし、実際はビビりっぱなしでした。肩は緊張し、目は宙を浮いていながら、必死で平気を装って歩いていく。

「故郷の家」という福祉施設に着いて、仲間の顔を見て、ほっと安心しました。
自分がどれ程差別的であったか、今は恥じ入るばかりです。
安心したところで、持ち前の「良い子症候群」が頭をもたげます。
「自分は宗教者だ。カトリックの神父だ。どろどろになっているこういう人たちこそ、キリスト教をこの人たちに伝えなくちゃ」と生意気にも考えているのです。
この建て前が顔を出すと、それに向かって努力してしまう――これも「よい子症候群」の特徴です。

――こう書いてあるんですね――

その日、夜の11時ぐらい――こう書いてあります――格好をつけるために夜回りに参加したのです。でも「よいこ症候群」ですから、嫌々参加している風には見られまいとするわけです。
リヤカーの人が「誰かリヤカーお願いします!」と言った時に、私はここぞとばかりに、「それ私がやります!」と、そういうことは普段やり慣れています、という感じで積極性を示してしまう。
でも本心は――リヤカーの柄を握っていたら他に何もせんでいいわ――でした。

私はひとりリヤカーを引いて、十字路を目指しました。その時、道路脇の植え込みに誰かがうつ伏せになっているのが目に留まりました。
ドキッとして、どうしようと思いながら、見なかったことにしようと通り過ぎかけたのでした。
だけどもし夜回りのメンバーが知っていて、訊かれたらどうしよう、嘘をつくわけにはいかない。嘘だけはつけないという所がありました。
それで仕方なしにリヤカーを下して、恐る恐る声をかけました。
「すみません。毛布要りませんか?」
一回二回と声をかけても起きてくれない。恐くて、遠くの方から小さい声で言っているわけですから聞こえなかったはずです。

いつまでもここにいるのは嫌だ。早くけりをつけたいばかりに、耳のそばまで口を持って行って、(声の調子を上げて)「毛布要りませんか」と言ったのです。
いきなり耳元で声がしたので、その人がびくっとして顔をねじ曲げました。
彼の瞬間的なその動きに、あ、殴られる、ととっさに思いました。ほんとに申し訳なかった。思わず身を引いていました。
だけど何も起こらない。恐る恐るその人の方を見ると、なんと笑っていたのです。
優しい笑顔でした。そして「兄ちゃん、すまんなぁ。おおきに」と言ってくれた。
私はその顔を見て、その声を聞いて、それまでの緊張がすっかり解けてふわ〜っと解放された気持ちでした。

釜ヶ崎の夜回りの時の私のビビり加減を、あの野宿の労働者は起こされた時、パッと見抜いてしまったのだと、それがはっきりわかった。
こっちを気遣って、「兄ちゃん、すまんなぁ。おおきに」とねぎらいの言葉までかけてくれた。
もしかすると、こういう人が人を解放する力、元気づける力を持っているのかもしれない、ひょっとすると、と思うようになりました。

キリスト教徒としてずっと教わって来たことは――私たちは信仰を持つことによって神さまからお恵みをいただいています。それを、おすそ分けするのです――というものでした。
けれども、本当のところはどうだったでしょうか?
信仰を持つ自分が、いろんな知識を蓄えるチャンスを与えてもらっていた自分が、学問をさせてもらっていた自分が、ある意味では社会的にもそこそこ評価されるような立場の自分が、そのような自分が果たして今まで誰かの解放に繋がるような、本当の意味での心の根本の救いに繋がるような働きをすることができていたのだろうか?――そこまで問い直すようになりました。

日雇い労働者に限らず、生きていく中で、本当に辛い思いを日常的に虐げられている人たちこそが、人を解放するパワーを持っているのではないか?
私はそれまで当然信仰を持っている私が、神さまからの力を分けてあげるものだと思い込んでいた。教会でもそんな風なことしか教えていなかった。
だけど、本当は違うんじゃないだろうか?実際、私には分けてあげる力なんかなかった。
本当はあの人を通して、神さまが私を解放してくれたのではないか――そんな思いが湧き上がって来たのです。(――朗読ここまで――)

本田先生はこういう体験をしたのです。
私たちも隣人になる――ま、やろうと思えばそんなに難しいことではないのかもしれない。
でもそういう行為は一方通行ではない。人に関わった時、自分もその人から元気づけられる。
よくお見舞いに行った時なんかも、こちらが暗〜い顔をして、大丈夫かなぁという思いで病室に入って行った時も、相手が元気な笑顔で微笑み返してくれると、なんかこっちが元気づけられるような体験をよくすることがあります。
私たちは隣り人になる――実はその人も私の隣り人になってくださっている――そういう今まで気づかなかったことを、本田先生が教えてくれたような気がいたします。

そういえば、最初にお話しました溝の口駅前のあの路傍伝道で、もう一つこういうことがありました。
女子の神学生から教会案内のチラシをもらって受け取ったおじさんが、「寒いよねぇ、本当にご苦労さん!」と言って、その神学生に熱々の肉まんを(大笑)差し入れてくれたことがあったんです。
かじかんだ手でおじさんに教会の案内のチラシを渡した神学生と、神学生に肉まんを買って差し入れてくださったおじさん、お互いが隣り人同士になったうるわしいひと時でした。

☆お祈り――戸塚神学生

神さま、感謝いたします。十字架の上でいのちまで与えてくださるほどのイエスさまの愛を知りながら、自らの愛の足りなさを痛感する者です。どうか、イエスさま、あなたの愛をください。そして私の身近な所から、その愛を実践することができますように。
人に何かをしてあげるという意識ではなく、あのサマリヤ人のように、その人の痛みや苦しみに共感し、それを共有する憐れみの心を持たせてください。
今週、私を誰かの隣り人として、その人にお仕えする喜びを与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2015.10.19 - 17:41

175.133.12.55 - Mozilla/5.0 (Windows NT 6.3; Win64; x64; Trident/7.0; MALNJS; rv:11.0) like Gecko

Name   E-Mail   Password

 前文 フランクリン・グラハム大会直前号No.7
 次文 グラハム大会レディース・スペシャルタイム
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
209Simple view *^^*11/8幼児・児童祝福聖日:自分はドラゴン?――CSル... T・Y 2015.11.09 7299
208直前号グラハム大会.pdf [3.1 MB] ダウンロードSimple view *^^*フランクリン・グラハム大会直前号No.7 T・Y 2015.11.03 7190
207現在参照中の文章です...10/18 戸塚神学生:隣人(となりびと)になるとい... T・Y 2015.10.19 7573
206グラハム大会レディース.pdf [629 KB] ダウンロードSimple view *^^*グラハム大会レディース・スペシャルタイム T・Y 2015.10.14 6896
205Simple view *^^*10/11洗礼式:ヨナ(1)御霊を離れてどこへ?ヨナ... T・Y 2015.10.12 8285
204ニュースレターNo.6グラハム大会.pdf [731 KB] ダウンロードSimple view *^^*グラハム大会ニュースレターNo.6 T・Y 2015.10.05 7400
203Simple view *^^*10/4 聖餐式:主の祈り(9)国と力と栄えとは限... T・Y 2015.10.05 9843
202Simple view *^^*9/27  主の祈り(8)試みに会わせず、悪よりお... [1] T・Y 2015.09.28 9314
201Simple view *^^*9/20 敬老の日:祝福を祈る 創世記48:8〜16 T・Y 2015.09.21 10693
200Simple view *^^*9/13 主の祈り(7) 我らの罪をもゆるしたまえ ... T・Y 2015.09.14 2655
199Simple view *^^*9/6 主の祈り(6) 日ごとの糧を与えたまえ エゼ... T・Y 2015.09.07 8197
198武道館でゴスペルを.pdf [675 KB] ダウンロードSimple view *^^*武道館でゴスペルを! T・Y 2015.09.07 7764
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
本頁が先頭ページです前へ戻る 41  42  43  44  45  46  47  48  49  50 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*