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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   11/29 待降節第一主日:戸の外に立ってたたく ヨハネの黙示録3:20
☆聖書箇所      ヨハネの黙示録3:20

20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

☆説教    戸の外に立ってたたく

皆さんもまた大変お忙しい12月を過ごされると思いますし、すべてのことが何かこう後れを取ってるような気がしますが、一つ一つろうそくが灯されて行くこの礼拝に足を運ぶことによって、私たちもまた強められ、来年に向かって歩んでみたいと思います。

今日の聖書の箇所は1か節だけ、黙示録の3章の20節です。
とっても有名な聖句で、イエスさまは仰いました。――「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
で、説教のタイトルを、「戸の外に立ってたたく」としました。

有名なロンドンの聖ペテロ教会に掲げられているホルマン・ハント(***1827〜1910ラファエル前派)という画家による「世の光」(1851〜53)という大きな作品があります。
これはまさに、戸の外に立って叩くイエスさまの姿を大きく描いています。
「ホルマン・ハント、世の光」と(ネットで)検索してご覧になるとすぐに出てまいります。
(イエスさまは)祭司の装束を着ています。それは、やがて十字架にかかり私たちと神との間を取り為す祭司の装束。
しかし王であるキリストは頭に王冠をいただいて、そして「世の光」というタイトルにふさわしくランプを手に持って古い家の前に立っている、という姿です。

主は扉をたたいておられるんですけれども、その扉には取っ手が付いていません。イエスさまの方からは開けることができないという絵です。
ツタが全体に絡まっていますから、長い間、いえ、かつて一度も開けられたことのない扉であるのかもしれない、ということを物語っています。
それでもイエスさまは戸を叩く――今日はそのことを考えて、三つ(のポイントで)お話したいと思います。

クリスマスは神が私たちを待っておられるというテーマです。アドベントというのは、そういう時期です。
しかも神は遠くではなく、すぐ近くで、私たちの人生の扉の前に立っておられ、そして私の心の扉をたたく――これがアドベントのテーマであります。

1)「戸を叩くキリスト」はイエスさまのご生涯全体を指していると言ってもいいでしょう。

実は「戸を叩く」というのはここにしか出て来ません。
しかし福音書を見ますと、イエスさまのご生涯を考えますと、「戸を叩くキリスト」というのはいかにもふさわしいですね。

クリスマスの記事で、マリヤが男子の初子を産んだ。それを布にくるんで飼葉おけに寝かされた。宿屋には、マリヤ、ヨセフ、そして幼子キリストのいる場所がなかったんです。
宿屋は全部いっぱいで、そして仕方がなく馬小屋に寝ている、夜を過ごしている時に、イエスさまが生まれるという、お生まれになったのは、家の中のスペースではなく、外であった。

公の生涯で宣教されても、イエスさまは仰いました。「人の子には枕するところもなく」と。
「狐には穴があり、ねぐらがあり、鳥には巣があっても、わたしには枕するところがない」(***マタイ8:20)。
人類はイエスさまに対して戸を開けない――これが人間のテーマとして福音書に描かれています。

そして地上の最後の出来事、十字架は、エルサレムの「門の外」であった。やっぱり門の外で十字架にお掛かりになります。
十字架というのは、人間がイエスさまを拒絶したということ、神を退けたということの象徴でありました。

イエスはいつも私たちの外。
しかしこの方はいつも私たちの内に入って来たいと願われ、戸を叩いておられる。
外から内へと入ってくださることを願いながら、私たちに出会うために、私たちの内に入るために、いつでも戸を叩き続けておられる、ということを心に留めていただきたいと思います。

(ヨハネ黙示録)3章の20節を見ると、そのようにして叩いているのは食事をするためだと。食事というのは私たちを生かしますね。

先日、家内と溝の口で食事をしたときに、入ってびっくり。男性しかいませんでした。家内には大変申し訳ないことをしたと思いますけれども。そして店の座席の三分の二、四分の三がカウンターでした。ブースに座っているのは私たち位で、ほとんどの方がサラリーマン、若い人で、ここで食事をされて、ひとり家に帰って行くんだろうなぁと(思えるぐらい)、レストランの中に会話というものがないんですね。
それでも一日終わって、温かいものを食べて帰るのであれば、心は温まるものだなぁと思いますね。

誰と一緒に食事をするか、というのは、私たち人間の営みの中でとっても尊いことです。
ひとりで食事をするというのは、ある期間やむを得ないとは思いますけれども、しかしそれでも誰かと一緒に食事をするというのは――(たとえば)教会の帰りに親子で、家族で、愛する兄弟姉妹とともに食事をするということは――私(藤本牧師)はすばらしいことだと思う。
だから、なるべく、お父さんに申し上げますけれども、しがない所に入らないで(大笑)少しこう心も豊かになる(ような所に入ってください)。
心寂しくなるようなところ(大笑)にはあまり入らない方がいいのではないかと思いますが。
そこで交わされる会話によって、私たちは身体の栄養だけでなく、心の栄養をいただき、そこには交わりがあり、会話がある。

私たちが心の扉を開けるなら、イエスさまは中に入ってくださり、食卓の交わりの中で励ましを与えてくださる。慰めを与えてくださる。
私たちは愚痴を吐き出す。私たちは悲しみを漏らす。代わりに勇気を与えてくださる。理解をしてくださり、私たちの悩みを受け留めてくださる。

神は私たちの外から来て、私たちの心と生涯の中に入り、私たちの家族となって、私たちの傷を癒してくださり、生かしてくださる。

詩篇23篇の5節で、「神は私の敵の前で、私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます」ということばがありますね。
「私の敵の前で、私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます」――皆さんも家族の者を「今日は頑張って行ってもらおう」と思う時に、食事を用意しますでしょう。

私(藤本牧師)にとって非常に心に残っている食事が二つあります。
一つは大学受験の朝、母親が張り切って、普段私が絶対に食べないようなものを作った。
で私はものの見事にお腹を壊し(大笑)、大学に辿り着くまでに、駅で何度トイレに行ったか分からないですね。寒かったですね。それを思い出しますね。
それから圭子と私がアメリカに留学に行く前、父が、家族が、共に食事をした――その二つが強烈に覚えています。

ほとんどの場合、食事を整えるという行為は私たちがします。自分のために食事を整える。あるいは私たちが互いのために食事を整える。
しかし私たちは食前の感謝を祈りますよね――それは、主がこの食事を祝福してくださり、主が私たちと共に座ってくださり、主が私たちのために食事を整えてくださったばかりでなく、主が私たちのために、この食事を祝福して、私たちの日常の様々な任に堪えることができるように力を与えてください、ですね。

2)人はなぜ心を閉ざすものなのか?

自分の心の中に私たちは閉じこもります。
宗教改革者のマルチン・ルターという人は、人間の罪をこう表現しました。
「人間の罪は自分の中へと折れ曲がる姿だ」と。
何をしても最終的には自分のためという風に、すべてが自分に向かって折れ曲がる人生を私たちは送る。

有名なシルバースタインという大人が書いた「自分勝手な子どもの祈り」という祈りがあります。これは有名ですね。
    ぼくはこれから休みます。
    神さま、どうかお守りください。
    もし寝ているうちに、ぼくが死んだら、
    神さま、どうか、ぼくのおもちゃを全部壊してください。
    ほかの子どもが、ぼくのおもちゃで絶対に遊ばないようにしてください。
        (大笑)
という、まことに「自分勝手な子どもの祈り」――これは私たちの姿ですね。
アドベント、クリスマスというのは、こういうことをふと考えます。

私(藤本牧師)は、かつてこんな話をしたと思いますが、「ロバートおじさんの贈り物」というのがあるんですがね。
ある女性が自分の子どもの頃のクリスマスのことを思い出しながら、書いているんです。
その女性というのは、牧師の家庭に生まれた。
お父さんは田舎の小さな教会の牧師で、クリスマスの時期は何かと入用なんですけれども、おじさんがいまして、おじさんは結婚していないんですね。

ひとり暮らしのおじさんが毎年クリスマスの時期に、500ドルの小切手を送って来るという話なんです。
500トルのご小切手というのは、今の貨幣価値で言うとたぶん20万円ぐらいなんだろうと思います。
それは田舎の教会のお父さん、その家族にとりましては待ち焦がれたボーナスでありました。

それを家族で分けて、みんな何か自分のために買う。それを楽しみにするというのが、クリスマスでありました。
ところがある日、小切手の代わりに、物が届くんですね。
そしてその物に手紙が添えてあって、こうありました。
「クリスマスに小切手だけ郵送するのは、何とも冷たいやり方のように思える。そこで今年はプレゼントを贈ることにした」
そして大きな箱に、きれ〜いなラッピングをされたプレゼントがぎっしり詰まっていました。そのプレゼントをツリーの下に置いて、何が入っているのか楽しみにしながら、25日の朝、それを皆で開けて愕然とするんですね。

いかにも高価なものばかりで、牧師の家庭には不向きなものばかりでした。
お父さんは、クリスマス何が欲しかったか?お父さんは洗礼式用に新しい靴を買うことを決めていたのに、受け取っていたのはハンティングに行くようなレジャーのジャケットでした。
レジャーのジャケットなんて、お父さんにはお金以上に無縁なもの。お金以上に無縁なものというのは、どこかに遊びにいくことです。

お母さんは、今年は手動ミシンに電気のモーターをつけたいと思っていたのに、もらったプレゼントは、わに革の(大笑)高級なハンドバックでした。
滑稽なまでにも不釣り合いで、お母さんはこのバックに釣り合うような洋服も持ってないのに、なんでこんなバックが来たんだろう。

家族みんなは寄ってたかって、そのプレゼントの文句ばかりです。
皆さんもよく聞くでしょう。子どもに上げ、親に上げ、そしてほしいのはやっぱり現金か!みたいな顔をして(大笑)、こんな物は欲しくなかった、という感じなんですけれどもね。

お父さんは、その時立ち上がって、こう言います。
「みんな聞いておくれ。私たちが何を必要として、何を欲しがっているのか、ロバート叔父さんはちっともわかっていないと、みんなは思っているだろう。だがそうだろうか?
お父さんは、むしろわかっていないのはお父さんたちの方じゃないかと思う。みんな知っているように、おじさんは独り者だ。だから毎年クリスマスになって、(私たちの家族のようにお母さんがいたり、みんながいたりするわけではないので、)私たちを家族のようにプレゼントを送ってくださる。きっととても寂しいことだと思うよ。
ところが今年は、私たちのために買い物に行ってくれたんだ。忙しい中、私たちのために買い物に行ってくれ、そして自分がグレースのように7歳の子どもだったら何が欲しいかなぁと、おじさんは一生懸命考えたに違いない。もしお父さんのような中年の牧師だったら、いったい何が欲しいんだろう、何があったらいいんだろうかと、ロバートおじさんは一生懸命考えてくれたんだと思う。
お父さんがもらったレジャー・ジャケットは、忙しい生活の中でもう少し自由な時間を取るように考えてくれたんだよ」

とこう話は続きます。話はわかりますよね。
私たちは人からものをもらいますと、これは邪魔だと考えますね。これは不要だと、あるいは実は他のものが欲しかった、この色は私は嫌いだと(一瞬思いますね)。
しかし、それを贈ろうとした人の気持ちまでは、ほとんど考えないです。
逆に、なんでこんなものを送って来たんだ、というものの考え方をするというのは、マルチン・ルターが言いました「罪深い私たちは、すべて自分の方向に物事が折れ曲がっている」。
プレゼントでさえ、プレゼントをくれる人の気持ちは考えない。もらった側の自分の思いばかりを大切にするのだ。贈り物を受け取る時にでさえ、自己中心ですね。
どういうことでしょうか?

私たちはキリストの熱き愛に触れる必要があると思います。
キリストは私たちのためにこの世界にお生まれになり、
私の貧しさ、私の弱さ、罪深さに身を重ねるために、ご自分を無にして、ベツレヘムの片田舎の馬小屋でお生まれになりました。
私と同じ苦しみも悲しみも味わわれ、すべて私のためで、イエス・キリストのご生涯はご自身に折れ曲がっていることは一度もない。

その方が心を閉ざした扉の外で、私たちを叩く。扉を叩く。
私たちを生かすため、仕える者の姿を取り、十字架の上で私たちの罪を背負い、ご自身のいのちを投げ出してくださった方の、この愛に触れる時に、きっと自己中心な氷のような姿勢が溶かされて、私たちは扉を開けることができるのかもしれないですね。

(ヨハネの黙示録)3章の20節をもう一度声を合わせて共に読みたいと思います。

20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら」(20節・くりかえして読んで)――

3)(主イエス・キリストは)叩き続ける。

何度もたたく。
それはキリストはどうでもいいと思っていない。私たちの人生を諦めていない。
私たちに会うために、私たちの生涯の中に入るために、キリストは(戸を)たたき続ける。

圭子(夫人)が朝日新聞の川崎版に写真入りで載ったことがあるんです。
それを見つけてくださったのは、K兄なんですが、私たちはそれを知りませんで、「載ってます、載ってます」と日曜日に新聞を持って来てくださって、それは消防署から表彰されたんですね。
昨日そのことを話しまして、その時記念品をもらったので、ず〜っと棚の奥にしまってあるから、一回記念品を出してきて使わないと、なんか勿体ないねぇと。

いま牧師館の奥は更地なんです。そこに以前アパートが建ってました。
ほとんどの人が立ち退いて、一人おばあさんが一階部分に住んでおられて、アパートの家主としては、そのおばあさんが立ち退いたら更地にするつもりだったんでしょうね。そして今でも更地なんですけれども。

ある日の夕方、私(藤本牧師)は不在だったんですけれども、圭子(夫人)が妙な煙に臭いを嗅いだんですね。そしてこの異様な煙の臭いはどこから来るのか、家中嗅いだんですけれどもわからなかったんですね。
とりあえず牧師館の二階から見ましたら、その一階のおばあさんの部屋から煙が立ち上がっている。火事なんですね。
圭子は消防署に電話をしまして、そしてアパートに向かい、戸をどんどんどんどん叩きます。「これほど叩いたことはないというぐらいどんどん叩いた」と言っていました。
でも、戸は開かないんです。おばあさんは不在なんです。
「人生これほど戸を叩いたことはなかった」と、昨日も思い起こしつつ。

消防署がやって来るまで、家のバケツで水を汲んで、何度も往復して、そしてドアの隙間から水をかけるわけです。
で、表彰された時の理由は三つで、三つを一度にしたことはあまりない――消防署に電話をする。ボヤの中の救出の努力をする。そして同時に消火をする(笑)。
三つを一度にやる人はそうそういませんねと、ということで表彰されたことを、K兄がとても誇らしげに教えてくださいました。
あれ程ドアを叩いたことはなかった。なぜなら、部屋が燃えているんですよ。

最初にお話したホルマン・ハントの絵では、イエスさまが叩いている扉の向こう側は火事ではない。
でももし火事だったら、どうします?火事でも、私たちは鍵をかけたままにしておくんです。
だからイエスさまは叩くしかない。何度も叩きます。火事なのですから、それはその家を救うためだけでなく、その家に住んでいる人を救うために主は叩く。

私たちはあるとき考えました――あそこで間に合ってなければ、隣接した牧師館は簡単に火が付き、そしてその火は教会堂に移って行って、この教会はなかっただろうなぁと思います。
よく考えてみますと、固く閉ざされた戸の中の私の人生という世界は煙をくすぶらせ、もう少しで発火し大火事になるかもしれないです。

後に消防署の方が調べて教えてくれました。火元はおばあさんの寝たばこでありました。
そこから延焼したら、周り全部が焼けてしまうような心を、もしかしたら私たちは持っているかもしれない。
そして私たちの人生はいつも煙を吹き出し、そして周囲の人たちはその煙を嗅ぎながら、何がおかしいんだろう?何がこの人をそんなに焦らせ、何がこの人をそんなに怒らせ(ているのか?と思う程)。
イエスさまは私たちの扉を叩いておられます――煙が出ているよ。やがて部屋は焼けてしまうよ。周囲に燃え広がってしまうよと。
かけがえのない私たちの人生、尊い私たちのいのち、そして私たちを取り巻く私たちの家族、イエスさまは私たちの心を叩く。
それを聞いた時に、私たちは扉を開けてみる。開けてみて、一体この方は私たちに何をしようとしておられるのか、先ずこの方を私たちの心の中に招き入れ、そしてこの方から様々なことを教えていただく。
そしてこの方は、私たちを救いへと導いてくださいます。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、あなたは実際にその手を私たちの人生に伸ばすために、御子イエス・キリストをこの世界に送ってくださいました。

どういうわけか、イエスさまご自身も驚かれました。何度叩いても、戸は閉じられたまま。「わたしの地上生涯で戸を開けてくれた人はほんのわずかで、それ以外は戸を閉ざし」、やがてエルサレムの城壁の外で十字架にかかられたイエスさまの悔し涙を、私たちは聖書の中に見ることであります――めんどりがそのひなを囲むように、わたしはあなたがたを愛した。しかしあなたがたは、それを拒んだと――(***マタイ23:37、ルカ13:34)。

どうか、私たちに素直な心を与えてください。戸がそれほど叩かれているとしたならば、私たちに問題があり、いや、それのみならず、問題の解決をイエス・キリストが持っておられると、その解決を携えて戸を叩いておられるということに気がつくアドベントの1週でありますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2015.11.30 - 15:17
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