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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   12/6 待降節第二主日:人としてこの世に来られたキリスト へブル5:7〜10
☆聖書箇所     へブル5:7〜10

7キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
8キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
9完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、
10神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

☆説教     人としてこの世に来られたキリスト

二週間ほど前に、長い間インマヌエルの豊田の教会を牧会され、そして最後の十年は聖宣神学院の方に移って来られました加藤一男先生が天に召されました。
私たち夫婦でその葬儀に、学院教会で持たれた葬儀(***11/24)に出席をいたしました。
今日は少しそのことから、私(藤本牧師)はすごく心に留まったことがありましたので、クリスマスに絡めてお話をしたいと思います。

へブル人への手紙の5章の7節(〜9節)をご覧いただきたいと思います。

7キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
8キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
9完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者とな(られた)、

というこのことばです。

旧約聖書の昔から、神さまは私たち人間にさまざまな方法で語りかけを与えてくださいました。
時に嵐や大風を通して、時に紅海を真っ二つに分ける大きな出来事を通して、時に天から硫黄を降らせ、時に石の板に十戒を刻むことによって、歴史を通して、聖書を通して、神を私たちに語りかけてくださいました。
ところが、このへブル人への手紙の1章を見てください。終わりの時に、神は私たちにどのようにしてお語りになるのか?
1章の1節を読んでいきます。

<へブル1:1〜2>
1神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
2この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

神さまの私たちに対する語りかけは、イエス・キリストによって集約されて行ったと、このへブル人への手紙は記しています。
終わりの時に、神の最終的な決定的な語りかけは、御子イエス・キリストによってなされた。
それがクリスマスに始まる、神が人となられてこの世に来られた、イエス・キリストを祝っている私たちの姿です。

1章の3節4節を見てください。

<へブル1:3〜4>
3御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
4御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。

この御子がこの世界に来られたということを、へブル人への手紙の5章の7節では、「キリストは、人としてこの世におられた……」――「人として」と表現いたします。

1)人としてこの世におられた(へブル5:7)

「人として」とはどういうことでしょうか?
人としてこの世に来られたキリストはイエスという名前が付けられました。救いという意味です。
その名をつけるように母マリヤに指示したのは天の使いでありました。
救いという意味ですから、まさに救い主キリストにふさわしい名前でありました。
しかし特別な名前ではありません。

聖書の中では、パウロの友人にユスト(***コロサイ4:11)という人物がいますが、彼の名前はイエス・ユストでありました。
あの十字架の場面で、「バラバを釈放するか、キリストと呼ばれるイエスを釈放するか、どちらがあなたがたの望みだ?」と、ピラトが群衆に問いかけを与えている場面があります。
でもある写本によると、「イエス・バラバを釈放するのが良いのか、メシアと呼ばれているイエスを釈放するのが良いのか」となっています。
つまりバラバの名前はイエス・バラバでありました。
それだけ、「イエス」という名前は一般の人として付けられた名前だったということです。

人としてこの世に来られたキリストを、ヨハネは何と表現したのか?
Tヨハネの手紙(1:1)で、「私たちが、聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」とイエスを表現しています。
目で見ることができ、じっと見、また手で触ったというのは、御子イエスと自分に対するその近親感の表現、御子イエス・キリストの実感だろうと思いますが、
「じっと見、手で触ることができた方」というのは、人として世に来られた、まさにそのお姿です。
当時のユダヤの人々であれば、(顎に手を当てて)ひげを蓄えていますので、パンを食べればパンのカスが髭につくでしょう。疲れていれば寝るに違いありません。お腹を空かせるでしょう。また一緒に用を足すこともあったことでありましょう。
そればかりでなく、お疲れになり、また病める人を癒しても、自分自身が病むということもあったに違いありません。

その方は、二番目に――7節にありますように、「自分を死から救うことのできる方に向かって」、つまり父なる神に向かって――

2)「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(5:7)

大きな叫び――人の世界で、私たちはどういう叫びを見ることができるのでしょう。
いや聖書の世界にいたしましょう。聖書の世界から、普通の人々が信仰を抱いて神に叫び求める――その叫びはどういうものだったのでしょうか?

例えばペテロです(***ヨハネ18:25〜27、ルカ22:54〜62、マルコ14:66〜72、マタイ26:69〜75)。
あれほど尊敬し、愛し、信頼し従って来た主イエスとの関わりを、大祭司の庭で問われた時に、彼は恐れて、主を知らない、「あんな奴のことは知らない」と大声で宣言いたします。
そしてその瞬間、裁判を終えて大祭司の官邸から出て来られたイエスさまと目を合わせたペテロは、大声で泣きます。
情けなくて、申し訳なくて、どうしようもなくて泣きました――それがこの世における人の涙です。

あるいは旧約聖書にダビデが出て来ます(***Uサムエル11〜12章)。
誘惑に落ちて、自分の部下の妻を寝取り、子どもを儲けてしまい、そのことが明るみになって、彼は自分の罪深さに苦しみます。
そして、自分が招き入れたバテ・シェバの夫、ウリヤを殺す計画を考えます。
彼は生まれて来た子どもが死にそうになった時に、灰をかぶって涙して断食しました。
大きな叫びと涙をもって祈ります――それは、罪に深〜く入り込んでしまった自分の人生、どんなに悔い改めてもひっくり返らない自分の人生です。
灰をかぶって、断食して、涙を流しても、最後は幼いいのちを失わなければならない情けなさ――これが、この世における人の叫びと涙です。

しかしこのへブル人への手紙では、イエスさまの叫びと涙が、私たちの叫びと涙と同じであることを強調しています。
7節にもう一回「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげたキリストは、その敬虔のゆえに願いが聞き入れた」と記されていますけれども、しかし聞き入れられたのでしょうか?
イエスさまは叫びました。十字架を前にして、
「父よ、あなたにおできにならないことはありません。この杯を取り去ってください」(***ルカ22:42、マタイ26:39、マルコ14:36)。
聞き入れられたのでしょうか?――いいえ、そうではありませんでした。
主は十字架でいのちを遂げます。

全身で十字架を背負われ、鞭打たれ、辱めを受け、そのいのちの最後の一滴に至るまで注ぎ出されました。
ではいったい何が聞き入れられたというのか?
それは「天の使いが力づけて、この試練を背負う力をイエスに与えた」という意味で、「願いが聞き入れられた」と記されています。
8節をご覧ください。

8キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、

忍耐をもって、従順を学ぶ力が与えられ、9節には――

9完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、

私たちの罪を贖い、再び私たちが神の御前に近づくことができるように、十字架という杯を飲む力が与えられた。

大きな叫びと涙とをもって祈り、一気に問題が解決されたとは記されていません。
むしろ問題はそのまま、しかし、その問題を乗り越える力が与えられた。
それが往々にして、私たちの叫びと私たちの涙ではないでしょうか?
主はこの世に生きる私たちと同じような叫びと涙を流された。
人となられた御子イエス・キリスト、栄光の座にあってこの世界を創造しこの世界を保っておられるイエス・キリストは、人となられて、私たちが叫ぶ叫び、私たちが流す涙を理解するようになられた。
それは決して簡単な道ではありませんでした。

3番目に、それがゆえに――(***ここまでのポイントを復習して)
1)人としてこの世界に来られたお方は、私たちが「イエス」と名前を呼ぶ方となり、ヨハネが言うように(Tヨハネ1:1)、「私たちが近づいて、見て、触れることのできるお方」となり、
2)私たちと同じように涙を流し、叫び声を上げるお方になり、

3番目に、このお方は――(へブル人への手紙の)4章の15節、ご一緒に読みたいと思います。

<へブル4:15>
15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

3)私たちの弱さに同情できる。

私たちの弱さというのは――肉体的な弱さも、精神的な弱さも、たましいの弱さも、人間的な歪みも、性格の弱さも――身体に至っては、どんどん不自由になっていく私たちに、同情できるお方となった。

先ほど申し上げました加藤一男先生は68歳で地上の生涯を閉じられました。
この先生は、大学生の時にオートバイの事故で右手の自由を失い、それを通して逆に献身して牧師になりました。
ご自分が障がいを持っておられますから、豊田の教会では老人ホームの方々が礼拝に来ておられました。礼拝の後ろの方の席は、いつも車いすに乗ったお年寄りが5人6人と出席されておられました。
この先生は非常にこだわりの強い先生で、自分の教会形成ということをいつも追及しておられました。
それが50代後半で小脳変性症になり、やがて耳がほとんど聞こえなくなってしまいます。
そして牧会も難しくなり、豊田教会を辞めて、聖宣神学院教会で陰の奉仕をなさるようになりました。
神学院教会で、と言った時に、メインで奉仕されたのは奥さまの方でありました。

聴力をほとんど失われ、それでも教区の牧師会には出席されていました。
私たちも接しようと思うんです。話しかけようと思うんです。でもなかなか、うまく接することはできなかったなぁと反省します。
いろいろ教区会で、牧師会でこなさなければいけないことが多くて、この先生のペースに合わせていろんなことをすることができないのが私たちでありました。

教会でも会議でも、しばらくは奥さまが隣に座って一生懸命パソコンを叩いて、そしてパソコンの画面に映し出される人々の会話を一生懸命聞いておられるのです。
そして最後には、議場のまとめ役をしていた方から、「加藤先生、先輩として何かご意見ございませんでしょうか?」と振られるのですけれども、しかし画面で読んでいる内容はほんの一部でありますし、いざ話そうと思うと、もう筋力が弱ってしまって口が回らない。
そうした中を少しでも存在感を持ってもらうために、奥さまは一生懸命一生懸命、あのキーボードを叩いておられました。
私(藤本牧師)も捜してきて、何種類もの翻訳ソフトを、音声変換のソフトをご紹介し、またパソコンに組んだ覚えがあります。

ご主人は何一つ思うようにいかず、だんだん話しかけてくれる人もまばらになり、さびしかっただろうなぁと思います。悔しかっただろうなぁと思います。
この5年は小脳変性症がますます進んで、ご自宅で生活することが難しくなり、そして横浜の施設に入られました。
奥さまが葬儀の挨拶で仰っていました。
見舞いに行くと、忙しくて、着いたなり、メモで「今日は集会があるから、ここにいられるのは1時間だからね」とこう伝えたそうです。
彼は不自由な口を動かしながら、「そりゃ、ないだろう。そりゃ、ないだろう。来たと思ったら、まずは帰る時間か!」と仰ったのを思い出して、話をしておられました。

11月に入りまして、ものを飲み込む力を失われ、ご家族は話し合って、胃瘻をする代わりにもうこの状態で過ごして、イエスさまが迎えに来てくださることを待つことにしました。
奥さまはすぐに休職されて――最後短かったですね、2週間半か3週間――加藤先生の看取りのために病院にず〜っと付き添っておられました。
交す言葉がそれほどあったわけではないです。しかしそばに付き添われて、11月の終わりに天に召されました。

この先生のご苦労、辛さ、様々な意味での残念さを、いったい誰が理解していただろうかと思います。
いや、その不自由さっていうのは、私たちも見たらわかるでしょうと思うのですが、いや、そうでもないのです。
人はやはり自分のすべきこと、自分がやらなければいけないこと、自分の考えで精一杯です。
まして施設に入られると、お会いすることはできないので、せめて奥さまのために祈るだけで、「その内にお見舞いに行かなければいけない。行かなければいけない」と思いながら、やっぱりそのままになってしまいます。
きっと皆さんもそうだろうなぁと思いますよ。
なかなかこの先生にお伝えしなければならない思い、その同情も、結局伝えることもないまま天にお送りしたように思います。
私たちもまた恐らく最後、きっとそのようにして静かに地上を去っていくのではないでしょうか。

しかし、私たちがそのようになったら、加藤先生のように、たましいの底から私たちも捉えておかなければならないことがあろうと思います。
それは、「人となられた主は解ってくださる」。
人となられた主は解ってくださる――いつでも私たちの苦労、私たちの悔しさ、私たちの辛さ、私たちの孤独、私たちの弱さ――それに一番同情してくださるのは、イエスさまだ。

ご葬儀の時に、私たちの印象に一番残ったのは、インマヌエルの松戸教会の牧師、北田てい子先生の追憶の言葉でありました。
私(藤本牧師)もその時まで知らなかったんですけれども、北田直人(きただ・なおと)先生の奥さま、てい子先生は、加藤先生ご夫妻が一番最初に函館の教会を開拓された時に救われた信徒だったそうです。
やがてそこから献身して、聖宣神学院に行かれ、そして北田直人先生と結婚されます。
救われて一生懸命、開拓間もない函館教会で教会生活をしていた頃、特別伝道集会が計画されて、牧師夫妻と一緒にてい子姉は三人でチラシ配布に行ったそうです。
熱心に何万枚というチラシを撒かれたのでありましょう。

しかし、特別集会当日、だれ一人として外からいらっしゃることはありませんでした。
てい子姉は自分一人に対して、加藤先生が一生懸命説教しているという結果に、加藤先生がどんなに可哀想かと思ったそうです。
でも、集会が終わると、加藤先生の方からてい子姉の所に話しかけて来られました。「ごめんね。きみがあんなに一生懸命手伝ってくれたのに、ひとりも来なかった。ごめんね。」

伝道の難しさ、そして涙を流す三人。
でも、一番残念に思って同情してくださるのは、やはり変わらずにイエス・キリストです。
「人としてこの世に生まれ、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに願いが聞き入れられ、
聞き入れられた結果として、苦き杯を飲み干すことに、
飲み干す従順さを与えられたイエス・キリストは、私たちの弱さに同情し、私たちの大祭司となって、私たちの罪のために、弱さのために、取り為しをすることができる」
ということを、へブル書は私たちに伝えたいんですね。

主イエスは、私たちがこの世界で払う犠牲の、何倍もの祝福を天国に用意して待っていてくださいます。
私たちがこの世で成し遂げることのできるものは、所詮申し訳ないですけれども大したことはないです。
神さまの祝福と思って大きなことを成し遂げようと思いますけれども、ごめんなさい、所詮それは大したことはありません。
そして私たちは一年間を振り返って、沢山の祝福を受けたと思って、感謝献金を神さまに捧げるでしょう。
でも私たちがこの世で受ける報いも、所詮大したものではないんです。

もしかしたら――私たちがこの世で成し遂げることのできる最高のことは――
「イエス・キリストが十字架で味わわれた、私たちの罪を荷ったこの苦痛を、苦悩を、少しでも解ることができた」と言えば、
もしかしたらそれが、私たちがこの世界で、成し遂げることができる最高の出来事なのかも知れません。
私たちがこの世界で学ぶべき最大のことは――
「馬小屋で生まれ、大工の子として育てられ、貧しき者を慈しまれ、病める者を癒し、最後は人類の罪を荷って十字架にかかるという、耐えがたい苦しみの杯を飲み干すまで、神のみこころに従順であったように、主よ、どうか、私たちもあなたのみこころに従順であることを学ばさせてください」
それがこの世界で学ぶべき最大の教訓であろうかと思います。

自分でできることがどんどんなくなっていた加藤先生のその生涯。
でも、ますます主に近づかれて、主の従順を学び、そして主の憐れみのもとに召されて行きました。
加藤先生は右手が不自由ですから、いつもポケットに右手を入れておられました。
この麻痺されたグラグラとした手が、却って自分の身体の外にあるとバランスを失う。だからいつも右手をポケットに入れておられました。
そして神学院の坂でよく転ばれた。転びながら「大丈夫」と言わんばかりに、恥ずかしさを隠すような笑顔をされた。にやっと笑って、そして人の助けを借りながら起き上がる加藤先生はとても恥ずかしそうだったと、学院教会の信徒の方が仰っておられました。

いろいろ辛かったろうなぁと思います。いろいろ声をかけてあげたかったなぁと思いますが、かけてあげることが少なかった自分が情けないなぁとも思います。
苦しみもがくイエスさまと、そして苦しみもがく加藤先生、あるいは苦しみもがく私たち――それがこの「悲しみの交わり」です。
私たちはイエス・キリストとともに、「愛の交わり」「平安の交わり」「祝福の交わり」、様々な交わりを共にいたしますけれども、しかし、「悲しみの交わり」というのも、またキリストと共になすことのできる恵み。
友に裏切られ、弟子たちに捨てられ、その杯を飲んだ主イエスと共に飲む杯というのは、実際私たちの人生には沢山あるんだろうなと思います。
「悲しみの人」(***イザヤ53:3)と呼ばれ、しかし愛と力に溢れた主が、加藤先生を励まされたのと同じように、私たちを励ましてくださる。
この私たちの主イエス・キリストは間違いなく、私たちの苦しみ、悲しみを荷っていてくださる、ということを覚え、今年のアドベントもいろんな杯を飲ませていただき、主に感謝したいと思います。

☆お祈り

キリストは人としてこの世におられたとき、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
(へブル5:7)

恵み深い天の父なる神さま、御子イエス・キリストが従順を学ばれたように、その悲しみの人であるキリストとの交わりによって、私たちも従順を学ばさせてください。受けた恵みは沢山あります。喜びの杯も沢山いただきました。しかしまことにもって、苦しみの杯を飲むことを苦手としている私たちであります。

しかしながら、あなたは実際何杯もの苦難の杯を私たちに差し出し、「飲んでご覧。飲んでご覧。わたしが悲しみの人であることがあなたにも解る。そしてわたしと共に、従順を学び、そして完全な者とされることをあなたも学びなさい」と言われたとき、どうかそれを飲む信仰を私たちにもお与えください。

そしてそのような杯を飲んでいる者に、少しでも心を寄せ、私たちも祈ることができるように、私たちを励ましてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2015.12.07 - 16:32

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