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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/31 教会総会:さあ、向こう岸へ マルコ4:35〜41
☆聖書箇所     マルコ4:35〜41

 35さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。
36そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、船に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の船もイエスについて行った。
37すると、激しい突風が起こり、船は波をかぶって、水でいっぱいになった。
38ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
39イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
40イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
41彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

☆説教      教会総会のために:さあ、向こう岸へ

マルコの福音書の4章の35節からこの区切りを、今日の教会総会のために開くことにいたしました。
「アブラハムの生涯」は5回までいきました、今年に入りまして。少し、今日だけはお休みさせていただきたいと思います。

35節に――

35さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。
36そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、船に乗っておられるままで、イエスをお連れした。……

この時イエスさまは船に乗っていたということがよくわかります。
昔から、古今東西、教会は船に例えられてきました。
一番典型的なのはノアの箱舟です。

ノアの箱舟は世の中の洪水の中、神さまによって守られ、この世界を渡って、やがて乾いた地に辿り着き、新しい人生が待っていました。
それと同じように、私たちは洪水のようなこの世界を、神によって守られ行き渡って行くという意味で、ノアの箱舟はよく教会に例えられます。

新約聖書で同じように船となりますと、おそらく場面としては、今日読んでいただいたマルコの福音書の4章が一番有名であろうと思います。
教会とは主イエスと共に漕ぎ出し、向こう岸へ渡って行こうとしている船です。

船というときに、私たちの人生でもあります。私たちの人生もまた、主をお乗せして私たちは2016年に船出しました。
正確に申しますと、「主をお乗せして」この年が始まったのではないです。
35節を見てください。

35さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。

つまり、主イエス自らが進んで船に乗り込み、私たちに「さあ、向こう岸に渡ろう」と船出しておられる。
つまり、船出の主人はイエスさまです。
にもかかわらず、この船が嵐に遭い、沈みそうになります。
見ていただきますと、37節に――

37すると、激しい突風が起こり、船は波をかぶって、水でいっぱいになった。

と、「激しい突風」と訳されている言葉は「激しい揺れ」のことです。
湖の上ですから、嵐になりますでしょう。
地震でも嵐でも、難しい言い方をすれば――私たちが生きている人生の根底が、揺り動かされてしまう、人生が土台から揺り動かされてしまう――恐ろしい体験と言うことができるでしょう。
人生を土台から揺さぶられ、それが崩されて行く力を、弟子たちは湖の上で経験したということです。

私たちの船も、私たちの教会という船も、必ず嵐に遭うということを心に留めて、ここから短く3つのポイントでお話をしたいと思います。

1)信仰っていったい何だろう?

主イエスは、この嵐の中で眠っておられました。38節――

38ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

疲れて寝ておられたのだろうと思いますが、いやそれ以上に、主に、父なる神に安心してすべてをゆだねて、そしてイエスは寝ておられた、という風に理解すべきなんだろうと思うんですね。

これに対して弟子たちはうろたえますね。
そのうろたえている姿というのは――40節にありますように、「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」という言葉にあるように――信仰がなければ怖がる。信仰があれば怖がらない。

人生の様々な苦しみ、荒波の中で、主イエスを信じ、父なる神を信じて、どんな状況においても平安を保ち、安心していることこそ真の信仰だ、ということになってしまいます。
風が吹いて、船が沈みそうになってうろたえる――それでは人生やっていけないぞと叱られているように思えます。
でもそれは無理です。言い方を変えますと、沈みそうになっている船の中で、とものほうで枕しているイエスさまの方がおかしいですよ(笑)。

私(藤本牧師)は妻の賜物で一番羨ましいと思うものがあります。それはやっぱり、どこででも寝られるというのは(大笑)、もうこれほど人間という存在にとって、すばらしい賜物はないと思いますね。
人は寝られなければおしまいです。私の人生の課題というのは、いかにして寝るかですね。
その課題をこれまで約60年追及して、いまだに達成できないですね。
ある所から、私は自分の人生の課題を変えました。もういかにして寝られるかということは考えない。いかにして昼寝できるか(大笑)とか、あるいはいかにして夜寝できるかとかですね。
もういろいろ課題を変えるんですけれども、ありとあらゆる方法を取っても、やはり基本的に私(藤本牧師)は眠りが浅いタイプです。

そういう人間が、ほんの少しでも心揺れるようなこの経験を味わいますと、とものほうで枕して寝られるなんてことは考えられないですね。
で、仮にですよ、とものほうで、すべてをゆだねて安心して寝ている人がいれば、私はその人を疑ってしまいますね(笑)――この人の現実感っていったいどうなってるんだろう?と。普通だったら寝られないだろうと思います。
よく考えてみますと、信仰っていうものは、もしかしたらそういうものではないのかもしれません。

嵐に翻弄される船の中で、全員がイエスさまとともに寝ていたらどうなるのか?
全員が寝ていたら(笑いながら)、多分多分沈みますよ。だって波が船の中に入って来ているんですもの。
そうしますと、ほっといたら必ず彼らは溺れ死ぬか、船はひっくり返りますでしょう。

あるいは、こういうのはどうですか?
眠っているイエスさまを起こしては申し訳ない。
そこで必死に船を操り、一生懸命水を掻き出して嵐と戦っていく。
これでも、この状況ではやはり船は沈みますね。

嵐の中でも大丈夫だから、イエスさまと一緒に寝ていようと言っても、私たちだけで何とかなるような話ではない。
頑張って水を掻き出せば、人生、基盤がゆるがされるようなこの体験においても、私たちは生かされて行く――いや、そういうことでもないですね。

そのように考えていきますと、信仰っていったい何だろうかと思います。
信仰っていうのは、イエスさまがおられるから大丈夫なんだと、やせ我慢することではないです。
あるいはそもそも私たちが持っている身体の仕組み――どこででも寝られるタイプ(笑)、どこでも寝られないタイプ――必ずしもそういうことでもないですね。

信仰っていったい何なんだろうか?と思いますと、うろたえて恐怖に包まれながらも、イエスさまに助けを求めて叫ぶことです。
(信仰とは、)イエスさまに助けを求めて叫ぶことですね。
「主よ。救ってください。私たちは滅びるばかりです」と、イエスさまに素直に叫ぶことこそが信仰です。
それは2番目の「不信仰っていったい何だろう」って考えてみますと、よくわかります。

2)不信仰っていったい何だろう?

この聖書の箇所で、不信仰がよくわかる言葉があります。
(マルコ4章)38節、もう一回ご一緒に読んでみたいと思います。

38ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

不信仰とは、この一番最後の、弟子が言った「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」というこの言葉です。
「何とも思わない」という動詞が、ヨハネの福音書の10章に出て来ますので、これは非常に参考になりますから、マルコ、ルカ、ヨハネで(***聖書を順番に捲って)、ヨハネの10章をちょっと見てください。
10章の11節〜13節までをちょっとご一緒に読んでみたいと思います。とっても有名ですね。

<ヨハネ10:11〜13>
11わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
12牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
13それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。

この13節の最後、羊の所有者でない、雇い人の話です。
狼が来ると、羊のことを心にかけていないから、羊を置き去りにして、自分の安全を守るために、さっさと逃げて行くという、この「羊のことを心にかけていない」という言葉が、マルコの福音書の嵐の場面で「先生。私たちが死にそうでも、何とも思われないのですか」(4章38節)という言葉と同じです。

何とも思わない――雇われの羊飼いは、羊の所有者ではありません。羊のことに責任を持っていません。ですからたとえ狼が来たとしても、所詮それは自分の羊ではありませんから、羊を置き去りにして何とも思わず、さっさとその場を立ち去って行く。

嵐の中で弟子たちからすれば――この大事なときにイエスさまは眠り込んでおられた。私たちのために何もしてくださらない。私たちのことを何とも思っておられない。私たちが死んだとしても、私たちのことを心にかけてもいない――あなたはそうなんではないですかという風に、とものほうで枕をしているイエスに向かって弟子たちは訴えました。
これを不信仰と言います。

信仰というのは、すべてに安心して、いつもぐっすり寝て、あらゆることに平安を覚えるということでは必ずしもない。
私たちの人生の基盤がゆるがせられるようなことであれば、どんな人もすべからく心は動揺し、焦ることでしょう。
小さなことでしたらゆっくり寝られるかもしれない。
だけど自分の心をズバッと、グサッと射貫くような出来事に出遭ったならば、私たちは途端に寝られなくなっていくのが人間でありましょう。

信仰とは、そう考えますと安心して寝てることではない。
あらゆることにあって、主の助けを求めることが信仰です。
では不信仰とはいったいどういうことなのか?
不信仰とは、私たちが試練に遭う時に、嵐で翻弄されている時に、「神は私のことを何とも思っておられない」と卑屈になり、状況に諦めてしまうことです。

先ほどのヨハネの福音書の10章の14節では、雇い人の羊飼いに対してイエスさまは仰いました。「わたしは良い牧者です。良い牧者は、羊のためにいのちを捨てる」と仰っている。
イエスさまはこの船の中で、もし船が沈むようなことがあれば、もし弟子たちのいのちに関わるようなことがあるとすれば、「わたしは弟子たちのためにいのちを捨てる」と仰るでしょう。

何とも思わないどころか――私たちのためにいのちを捨て、私たちを狼から守ってくださる主が私たちの人生に起こる様々な出来事を、私たちの教会を襲う様々な出来事を、何とも思わないどころではない――いのちを捨ててでも、私たちを守ってくださるんですね。

3)3番目にもう一度マルコの福音書の4章に戻っていただいて、41節をちょっと一緒に読んでみたいと思います。41節、最後の節ですね。

41彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

4章、5章で連続して出て来るんですけれども、イエスさまが大きな奇跡を行われますと、弟子たちはいつもイエスさまを見つめ直します。
自分たちが信じてついて来た、この方はいったいどういう方なんだろうか?と、この方の理解が深まります。この方のみ思いが深まります。
風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういうお方なんだろうか?
数分前まで、荒れ狂う湖と嵐に恐怖を抱いていた弟子たちが、嵐を静めたイエスさまを前に、嵐が静まったという現実以上に、自分が信じて従っているこの方はいったいどういう方なんだろうかと、見つめ直すんですね。
あ、これほどまでに私たちを愛していてくださるのか。これほどまでに、私たちの人生にとっての最悪の出来事を最善に変えてくださるのかと。

私たちは往々にして、一つ嵐が過ぎ去りますと、嵐が過ぎ去ったことを感謝します。
でも嵐が過ぎ去ったことによって、神さまに対する信仰が深められて行くということがないですよね?
あ、やっぱり守ってくださったんだ。守ってくださって感謝いたします。あ、自分の祈りは答えられたんだと。
確かにそうなんです。でも彼らは叫びが応えられて、嵐が静まって、皆で喜んだとは書いてない。
この出来事を通して、改めて主イエスが持っておられるその力、そして主イエスが私のことをしっかりと気にかけていてくださるんだ、ということに気がついた。

私たちの人生で、もしかしてほとんど何の進歩もないとすれば、まさにこの点だろうと思います。
私たちが成長するように、その信仰が深くなるように神さまは私たちに様々な嵐を与えてくださいます。
その度ごとに私たちは一生懸命祈ります。そしてそれを乗り越えて行くときに、私たちはどれほど自分の信仰が深められたかということを考えてみなければいけないですね。

先々週の日曜日に、横田かね子姉が天に召されました。96歳でありました。
私たちは牧会に入って今年で30年ちょうど。
姉妹とご主人は、もうその段階で70前後でいらっしゃいましたので、若き頃のことは教会の証し集を読んで初めて知りました。
戦前、戦中、戦後と貧しい時代、配給のために何度も並んだという話や、あるいはそういう苦難の時期に、子どもを失ったという話が証し集に書いてありました。
そして姉妹はそのことによって、自分は人の痛みを知るようになったと。

おおよそ皆が体験していた事、しかしおおよそ現代ではあまり体験しないことなのかもしれません。
でもそうした苦労を通して、人の痛みを知るようになり、神さまの真実を味わうようになり、それによって、自分の信仰が深められたと書いてありました。
それでもまだ足りない信仰を、神さまどうか、私が生きている間、それをほんの少しでもさらに増し加えてください、という祈りも書いてありました。

ここ15年、姉妹は礼拝に出席することができなかったので、私たちは何か遠い方が天に召されたかのように感じてしまうのかもしれません。
しかし実はそうではなく、高津教会の歴史を作って来られた一人の姉妹が天に上げられた。
そしてその姉妹は、まだまだ元気な頃から沢山の労苦を味わいながら、人の痛みを知り、そのことによって、小さな小さな事を全力で尽くして奉仕することを学んでいった、という風に証しの中に書いてありました。
私たちの単純な疑問は、では姉妹が天に召された後、神さまが姉妹を天国に取られた後、神さまはいったい誰を、この教会で姉妹の跡継ぎにされるんだろうなぁと、そういう疑問が残ります。

いま私たちは礼拝の後、皆で一生懸命当番制を組んで教会の掃除をしますが、私(藤本牧師)はよく記憶にないんですが、圭子は以前は土曜日の掃除だったと(言います)。
講壇はS姉が専門。
S姉はもう川越のキングス・ガーデンに移られて、それから溝の口にある老人施設に移られて、去年のイースターに礼拝にいらっしゃったのでしたね?
W姉が連れて来られて、それが最後かなぁと思いますが……。
以前は近くの鈴木姉が花を活けられ、そして、S姉が講壇を掃除され、後継ぎはいるんです。T姉がいま教会のお花は全部面倒を見ていてくださいますね。

横田姉は、その時、当時土曜日いつも玄関の掃除をしておられた。しかもあの重い扉の表も裏もきれ〜いに水拭きをしておられた。
圭子が、「毎週そこまでなさることはないんじゃないですか。特に裏側までは」って(言うと)、姉妹は、「これが私にできることですから」と、毎週土曜日に掃除をされておりました。
私も後から考えますと――あの扉っていうのは、W兄がデザインされて造られたんですよね――だから自分が世話になっているお婿さんの造られた扉だから、一生懸命拭かれたのかなぁという思いも重なります。

でも言えることは、教会学校の教師にしろ、教会の役員にしろ、案内係にしろ、祈る人にしろ、また聖歌隊で歌う人にしろ、やがて歌えなくなるときが来るんです。
祈祷会の中心になり、あるいは例会で様々な幹事の仕事をしておられる方、やがてそれらの方もその奉仕ができなくなるときがやって来る。
その時にいったい誰が神さまから指名されてその仕事を引き継ぐんだろうか?
いやいや私ではない、という人はこの中には一人もいないですよ。一人もいないと思いますよ。
私はそんなことはしたくない、という人もいませんし、私にはできない、という人もいないと思います。
必ず、皆さんは教会の働きの何かを引き継ぎます。

ユージン・ピーターソンというカナダの神学校の先生がこんなことを記していますので、それを引用して終わりにします。
ピーターソン先生の知り合いにロッククライマーの青年がいるんですね。
ある日その青年に連れて行かれて、岸壁の下から、「先生、一度ロッククライミングを見ませんか?」と、見せてもらった。
ロッククライマーはピトン、あるいはハーケンという金具を岩に打ち付けながら、そうして登って行きますよね。
そして上る一段というのは、命綱がみんな繋がっているんですよね。
ピーターソン先生は、その様子を見ながらこんなことを考えたというのが、本に書いてあります。

――本を読み始める藤本牧師――
私たちが体験する勝利や試練、喜びや悲しみ、そこにおける私たちの祈りはすべてハーケンとなって、私たちの命綱を支えていると。
つまり信仰の先輩たちが一人、また一人と現役を退き、またこの世を退いて天に帰って行かれる。
中にはこの教会でも、引っ越したり、病に倒れて行く方もおられるでしょう。
でも彼らがこの教会の現役時代に、教会の壁に打ち込んだ祈り、奉仕、信仰者としての生き様というものは、決してこの岸壁から取り去られることはないです。

私たちは一つの命綱で繋がりながら、天の御国を目指して上っているんですね。そして時に落ちることもある。
でも落ちても大丈夫なように、私たちは一つの命綱で繋がっています。
ですから、私たちは熱心に祈ることを忘れてはいけない。自分のためだけでなく、互いの祈りの課題を皆さんに分かち合いながら、祈らなければならないんです。

私たちは過去の先輩たちが遺されたハーケンに、自分たちの命綱をもう一度引っ掛けて、誰かがそこに繋がり、さらに上に登って行く。
そうして上に登りながら、私たちが体験するのは絶壁の厳しさではない。絶壁の厳しさではないです。
むしろ私たちが味わうのは、キリストの愛の確かさ、キリストの恵みの力強さ、キリストの憐れみの深さを、私たちは味わいながら上に登って行くような信仰者でありたいと思います。
絶壁のものすごさではなく、その絶壁を登ることを可能にしてくださる主の力に恐れおののく者でありたいと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、「さぁ、向こう岸へ渡ろう」と、あなたご自身が仰って2016年を始め、またこの年の営みを、この年のキリストの暦を私たちは一歩一歩、歩を進めて行くことでありましょう。その中に沢山の出来事があり、時には崖から落ちるようなこともあるに違いありません。
しかし私のいのちはあなたに繋がり、愛する兄弟姉妹とも繋がり、私たちのこの命綱はこの教会でかつて奉仕をされ、かつて祈られ、かつて兄弟姉妹であった多くの信仰者たちが打ち込まれたハーケンに繋ぎ止められていることを、思い出すことができますように助けてください。

「キリスト 教会の主よ まぼろし示されつつ 招きに応えて進む われらを繋ぎたまえ  主イエスのみ業によりて 一つに結ばれたる われらを導きたまえ 勝歌うたうその日まで」(***メッセージの前に賛美した福229)
われらを導きたまえ――この讃美のごとくに私たちを一つに繋いでくださり、この教会のタペストリーの中に私たちを織り込んでくださり、共に主の栄光を輝かせる存在となしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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